大切なのは「環境が持つ力」を発揮すること。
平野 玲以氏:平野玲以建築設計事務所

平野氏

平野玲以建築設計事務所は、中津駅から少し歩いた場所にある。代表の平野氏は、東京大学を卒業、安藤忠雄建築研究所で勤務後、事務所を立ち上げた。住宅をはじめとしたさまざまな建築の設計はもちろん、店舗などの空間デザインも行っている。子どもの頃の話から仕事の中で大切にしていること、『建築設計の模索』の先にあるものなどについて話を聞いた。

初めて意識した“建築”という仕事。

子どもの頃に憧れていた仕事と、建築設計の仕事はリンクしていなかったという平野氏。「子どもの頃、医者やパイロットになりたいと文集などには書いていました。ただ、父親がインテリアデザインの仕事をしていましたから、自分の中でラインはうっすら引いていたのかもしれません」

大阪の親元を離れて単身、鹿児島にある中高一貫校に進学した平野氏。建築家というカテゴリーを意識したのは、夏休みの美術の宿題で安藤忠雄氏が手掛けた『中之島プロジェクトⅡ』の展覧会を見に行った時のこと。
「たまたま安藤先生ご本人とあいさつをする機会があって、それが“建築家”との初めての出会いでした」
中之島の地中に音楽ホールや美術館などの施設を造り、地上部分は緑を解放するという“未来都市”が迫力ある巨大なドローイングに表現され目の前に広がっていた。
「夢のようなことを実現できる人間がこの世の中にはいる」
漠然とした点の想いが、もうひとつの点へと続き“線”となった気がした。大学受験が近づくと平野氏の心の中に建築家になるという目標が加わる。

自分の設計を形にしたい、と独立を決意。

事務所風景

建築学科で学んだ平野氏は、大学4年になって就職活動を始めたが、東京で働くことは頭の中になかったという。
「東京はとても楽しい街ですが、そこで働くイメージは湧かなかった。大阪は地元だったこと、自分が好きな建築家のもとで働きたいと思っていたこと、当時は阪神大震災後の復興期で関西の建築界はとても忙しいと聞いていたことなど、進路を決める上でいくつかのファクターが揃ったんです。復興期の関西で貴重な経験が数多くできるのではないかと考えたことも大きかった」

こうして、数ある建築事務所の中から安藤忠雄建築研究所の門を叩き、約10年勤務した。もちろん、いつか独立したいという気持ちはあった。目標は、5年働いた時点か30歳のどちらかだったと平野氏は振り返る。
「当初は仕事のやり方を覚えて、自信ができたなら5年で独立してもいいんじゃないかと思っていたのですが、そんなもんじゃなかったですね」

学ぶべきことは次から次へと現れた。
「3年目に富山の博物館を担当させてもらい、その後も幼稚園や美術館などやりがいのある仕事をさせてもらう中で5年はあっと言う間に過ぎていました。まだ自分が経験できることがあるということは、当然のようにそこにあった事実でしたね」
こうしてやりがいのある仕事をしていくうちに、おのずと自信へもつながっていったという。
「その辺りから、眠っていた独立したいという気持ちが目を覚ましはじめました。自分の表現を出した設計を形にしたいと強く意識するようになりました」
独立を決心したのは奇しくも30歳の時。そして32歳で独立を果たす。

「難しい」と「できない」の距離をできるだけ遠くしたい。

独立後、仕事を進める中で常に考えていることをたずねた。
「どの仕事にも共通することですが、丁寧にコミュニケーションをとることですね。難しいことでもすぐに『無理』『できない』と言わず、仮に本当にできないならそれに代わる魅力的な案を提示したり、納得いただけるまで説明し、コミュニケーションを何度も重ねながら設計していきます。まずは大きな考え方や方向性を把握し、それを施主と私が共有しながら形にしていくようなものづくりをしていきたい。最初から具体的なイメージを見たり決めたりすると、施主も私もそれに縛られてしまい、思考がそこまでになってしまう。それ以上に良いモノができなくなってしまいますからね」

ひとりだと考えるだけじゃなく、図面作成や模型作成などの作業も自分で行うことになる。それも楽しさのひとつなのだが、気づかないうちに細かい要望や制約条件が、常に頭の中に存在してしまう時がある。
「細かいところにばかり視点が集まり、全体を俯瞰して見ることが疎かになってしまってはいけないと考えています。もっと新しい発想が出てくるような環境を整えていかなくてはいけないと思っているところです。“自分が作りたい建築や空間を作る”という独立の動機と矛盾するようですが、ひとりで思いのままにできることで、逆に自分の発想を狭めてしまわないようにしなければいけませんから」

また、事務所運営で常に意識していることは、『無理』『できない』という思考に向かわないようにすること。そのため、目下の目標はスタッフの増員だという。
「私が考える役目に専念し、作業を別の人にサポートしてもらうことで、『できない』と『難しい』の距離が変わってくるのではないかと考えています。自分ひとりだと、どうしても『できない』と『難しい』の距離が近くなってしまう。なぜなら『難しい』を『できない』に近づける要因を知っていますから。サポートしてくれるスタッフがいれば、その距離を少し遠くすることができるかもしれないと考えるようになりました。そうすることで、また新しいアイディアが浮かび、『難しいけど実現できる』ことが増えてくると思います」


五月山の家

環境が相手だからこそ、模索は続く。

作品

建築設計の仕事は“模索”の連続だ、という平野氏。
「施主の想いを建築という表現で実現したい。建築家としての“自分らしさ”や“個性”と呼ぶものは、まだその向こう側の話です。模索しながら経験を積んでいる“今”しかできない表現もある。それをしっかりと構築していきたいですね」

自分らしい表現の根底にあるもの、それは環境の力を発揮させることだという。
「ハウスメーカーは都会でも田舎でも、どこでも同じ住宅を建てます。しかし、建築家としては気候や自然、地域社会など環境の力を最大限に生かし『その場所のための』住宅を建てるべきです。どんな条件下でも、光や風、土地の高低差や眺望などそれぞれの環境で享受できるものがあります。環境が相手となると、この仕事は永遠に“模索”の連続です。それを自分にしかできない表現で出来るように追求していきたいですね」

公開日:2011年08月26日(金)
取材・文:株式会社ショートカプチーノ 中 直照氏
取材班:株式会社ライフサイズ 南 啓史氏