“対話”が持つ力で、見えない想いに寄り添い、形にする
クリエイティブサロン Vol.314 豊島夏海氏
2024年1⽉、「対話型デザインディレクター」を名乗り、「個も組織も待ち遠しくなる10年を届ける」を活動理念に掲げて独立した豊島夏海さん。納期に余裕がない中で進められることも多々あるデザインの現場において、意外と見過ごされがちなのがこの「対話」というテーマだ。クライアントとのコミュニケーション不足が、方向性のずれや修正回数の多さにつながる……とは多くのクリエイターが経験していること。さらに、じっくりと対話を重ねたアウトプットが、クライアントの意識や行動に変化を生み出すことを実感し、活動の基幹に据えるに至ったという。自身の経験から、人と人のコミュニケーションについて深く考えるようになったという豊島さん。ほがらかな語り口調からは想像もつかないような、人生の紆余曲折を率直にお話しいただいた。

言葉にできない想いを抱え、懸命に働く母を見つめて
幼少期は大阪・大東市の団地で、両親、祖母、兄2人、母の親族という大家族に囲まれて育った豊島さん。初の女児で末っ子だったこともあり、周囲からはとてもかわいがられたという。父は建設業界で働いていたが、ある事情により、決して裕福ではない家庭環境だった。母は家族の暮らしを支えるため、昼はパート、夜はスナックで昼夜を問わず懸命に働いた。そんな母の姿を幼い頃から見つめていたことが、豊島さんの原点となる。
「台所+部屋が3つという間取りだったのですが、親族含めて10人以上いたので、1部屋に4人が寝ていた時期も。当然、自分の部屋はないので、持ち物を置けるのはカラーボックス2つ分。教科書のほか、『りぼん』という少女漫画誌が好きで、毎月おこづかいで買って並べていました。深夜2時頃に母がスナックから帰宅するのですが、私を起こさないよう、居間のテーブルに突っ伏した状態で眠っていて……。母は自分の想いや考えを皆に伝えることが、あまり得意ではない人でした。家族なんだからお金のこともオープンに相談すればいいのに、いつも一人で抱え込んで頑張っていた。家族だからこそ、気を遣ってしまっていたんですね」
高校に進学後、豊島さんはいわゆる不登校になり、3年生で留年が決定してしまう。
「どうして学校へ行けないのか、自分でもうまく説明できない、わからないという状態でした。教室へ入ることすら、涙が止まらなくてできない。人の視線に過敏だったんでしょうね。今ではむしろ、お調子者で図太い方なんですけど……(笑)」
そこで前へ進む支えとなったのが、豊島さんの話にじっくりと耳を傾け、見守ってくれた美術教師Mさんの存在だった。人気のない美術室なら入ることができたので、「課題はここでやればよい」と気にかけてくれたという。日本画家であるM先生の影響もあり、豊島さんは美大で学びたいと考えるように。授業とは別にデッサン指導などのサポートを受け、京都の美術大学に無事合格。しかし、教育ローンの審査が通らず、入学金が工面できなかったことから、浪人が決定してしまう。

美大進学をあきらめ、デザイナーとして一歩を踏み出す
高校を卒業した豊島さんは教育ローンに頼らず、自分で学費を貯めようと近隣の「丸亀製麺」でアルバイトを始める。おにぎり作りに意外な才能を発揮し、上司からは「西日本で上位3位に入るスピードだよ!」と絶賛されたという。高校時代からの人目を気にしすぎるシャイな性格も、さまざまな世代のバイト仲間と一緒に働くことで鍛えられ、少しずつ社会に馴染んでいった。
その後、豊島さんは経済的事情から美大進学を断念し、就職することに。ハローワークで職業訓練校というものがあることを知り、DTPデザインのコースを受講。その後、おもに旅行パンフレット等を手がける会社に就職を果たし、26歳にしてデザイナーとして一歩を踏み出す。仕事は多忙を極め、週の半分が終電、残りが徹夜という過酷な環境で働いた。豊島さんは校正作業を中心に手伝っていたが、約半年が経過した頃に、過労からトイレで倒れてしまう。人を大切にしない社風に疑問を感じ、退職することにーー。
次に職業訓練の際に実習を受けた会社から声がかかり、経理事務として入社。依頼者からヒアリングした内容を整理してデザイナーに伝えたり、見積書や請求書を作成するといった経験が、独立後は大いに役立ったという。やがて事務作業を離れ、デザイナーアシスタントからキャリアを積んでいくことに。スキルが身につくほど多忙さも増していき、29歳になった頃に「50、60歳になった時にも、この働き方が続けられるのだろうか……」とキャリアチェンジを再び模索し始める。
「宣伝会議の『アートディレクター養成講座(ARTS)』や、中西元男さんのビジネススクール『STRAMD』のセミナーに参加するうち、今までの私は小手先のことをしていたに過ぎなかったと気付いて。デザイン思考という言葉を知り、もっと深く、広がりのあるものだということを少しずつ学び始めました」

内にこもる繊細さを、共感力という強みに変えて
30歳になった頃、コロナ禍で先が見えない状況となり、仕事もリモートワークが中心に。そんな折に母の脳腫瘍が発覚したため、コロナ禍収束後も在宅ワークを続けた。しかし、ディレクターである豊島さんが社内にいないことで、スタッフとのコミュニケーションにさまざまな齟齬(そご)が生じるように。クライアントとも余裕のなさから短いスパンでしか付き合えなくなり、成果が見えないまま終わることが多くなった。すでに役員となっていたものの、会社にとって健全な状態ではないと考えて退職。
「当初はまたどこかに勤めるつもりだったのですが、前職で経営者さんと直接やりとりする立場だったのに、私自身はずっと会社員で“経営”をしたことがないことに違和感がありました。また転職して、経営者さんと話す機会が増えてもその感触は拭えないだろうと思い、まずは一度独立してみようと」
独立後、紙と印刷のイベント「ペーパーサミット2024」(主催:大阪府印刷工業組合)へ友人らと出かけたところ、同イベントの大人の文化祭のような熱気に魅せられ、紙相撲のトーナメントに参加するなど大はしゃぎ。これを機に協力団体であるメビックのイベントなどに、クリエイターとして参加するように。その後、メビックからのお知らせでペーパーサミットの実行委員募集を知り、運命を感じて応募。さらに、同イベントに出展していた印刷会社の紹介で、高校生にデザインを教える講師も務めるようになり、世界がどんどん広がっていった。

ていねいな対話の積み重ねにより、趣旨を的確に掬(すく)い取った冒頭のメッセージや、わかりやすいビジュアルは依頼者を感動させる仕上がりに。
そして現在は、かつての繊細さを共感力という強みに変え、相手の想いを細やかに汲み取る「対話型デザインディレクター」へ。そこには尊敬する母や高校時代の恩師、かつての職場の仲間といった、これまでに出会った人たちへの感謝とともに、「もっと、自分にできることがあったのではないか?」というもどかしい想いも込められているという。
「違和感のあるデザインは結果的に現場で使われなくなり、短期的な利用にとどまり、発信も続かず成果に届きません。現場もクライアントも、自信を持って動けるようになることが理想。対話をする上で気をつけているのは、無理に話を引き出そうとするのではなく、その場でより良い方向性を一緒に探すこと。立場上の言葉ではなく、目の前の方がまだ気づいていなかったり、うまく言葉にできない空白の瞬間にこそ、大切なことがあるんじゃないかと。伝えたいことがあるのに気後れしてしまい、仕事がうまくまわらない。そんな悩みを抱える方々と対話を重ねることで、価値観やビジョンをクリアーにし、最終的にはデザインに落とし込んで届けていきたいですね」

イベント概要
何もできない私から、動き続ける私へ。小さな挑戦の継続が連れてきた、違う景色。
クリエイティブサロン Vol.314 豊島夏海氏
人に頼るのが苦手で、迷惑をかけることが怖かった学生時代。そんな私を救ったのは対話の力でした。恩師の影響でアルバイトを続けながら美大浪人を経て、二十代半ばに未経験でデザインの世界へ。制作会社では事務経理からデザイナー、ディレクター、教育担当、役員までを経験。予期せぬ独立後は、事業の意図と言葉、ビジュアルを結び直し、現場で使える形へ落とし込む実務に取り組んでいます。福祉や美術、教育、動物園など社会課題の現場に伴走し、ゆっくり変化を楽しみながら見えてきことと、挫折・挑戦・試行錯誤のエピソードを携え、これからの10年をお話しします。
開催日:
豊島夏海氏(とよしま なつみ)
対話型デザインディレクター / グラフィックデザイナー
大阪・関西を拠点に、中小企業の経営者、個人起業家、アーティストのブランディングと制作進行を一貫支援。制作会社で事務経理 / デザイナー/ディレクター/教育担当/役員を経験後、独立。福祉・美術・教育・動物園など社会課題領域を多数ディレクションし、パンフレットやWebを“資産”として機能させる運用まで実装。理念は「個も組織も待ち遠しくなる10年を届ける」。対話を通じて企業やプロジェクトに並走し、グラフィックとブランディングデザインを届けています。好きなものは、美術、映画、団地、あとは誰かと一緒に働くこと。

公開:
取材・文:野崎泉氏(underson)
*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。
