長い旅の果てにたどり着いた、地域の魅力をかたちにする仕事
クリエイティブサロン Vol.294 原野知有紀氏
2022年5⽉に「地域特産プロデューサー」なる肩書きで起業した原野知有紀さん。多感な若い時期の多くをアメリカやフランスなど海外で過ごし、国内でもその時々で⾃分が魅⼒を感じた⼟地に⾝を置き、さまざまな仕事を経験してきた。旅を通して⾃分⾃⾝を探してきたともいえる原野さんのこれまでの道のりと、最終的にたどり着いた地域振興というテーマから、今⾒える景⾊についてもお話しいただいた。

田舎の豊かさに気づかず、都会と物質的豊かさに憧れた日々
醤油醸造の発祥の地として知られる、和歌⼭県湯浅町で⽣まれ育った原野さん。実家はみかん農家を営み、両親、祖⽗、曽祖⺟、妹、弟という⼤家族だった。お⽶や野菜は家族が丹精込めて育てたものを⾷べ、お茶や味噌は曽祖⺟の⼿づくりというまさに“地産地消”の環境。現代でいうスローライフであるが、当時はその暮らしの贅沢さに気づかず、都会と物質的な豊かさに憧れていたという。
「友達のあいだでシルバニアファミリーが流⾏っていたのですが、うちは買ってもらえなかったんです。なので弟が買ってもらった学年誌のふろくにお⼈形が1体だけついていたのをもらって、おうちはダンボールで⾃作していました(笑)。でも今思えば、それがとても楽しかったなと」
⾼校は和歌⼭市内にある私⽴へ。当時、近隣にはデパートや映画館、さまざまなショップが⽴ち並び、「ぶらくり丁商店街」として賑わうエリアがあった。10代の原野さんにとっては⽇本で今、最先端とされるものが⼿に⼊る夢のような場所に感じられたとか。
しかし、時代の流れとともに街は変貌。故郷を離れ、帰省するたび⽬に⼊るのは寂れたシャッター商店街。⾃然のそばで家族と暮らした⽇々と、憧れだった街の衰退。こうしたことが、原野さんの⽣き⽅に少しずつ影響し、現在につながっていくことになる。

多感な若い日々を海外で過ごし、建築という目標に出会う
親元を離れて京都の大学へ進学後は、食べ歩きをしたり、オールナイトで映画を観たりと、青春を謳歌する日々。しかし、4回生になり将来を考え始めるも、就職活動は難航。
そこで、英語を学ぶ目的もあり、古い煉瓦造りの街並みに惹かれていたアメリカ・ボストンへ3ヶ月間、行ってみることに。帰国後、アルバイトでお金を貯めるなどして再渡米し、2年の滞在のあいだに1ヶ月のヨーロッパ旅行をするなどして帰国した。
「そこでアメリカよりも、フランスが大好きになりました。一筋縄ではいかない手強いパリと、気候もよくのどかな南フランス。そんな二面性にも惹きつけられましたね」
京都へ戻った原野さんは、将来について初めて真剣に考えはじめる。海外添乗員や旅行ライターをめざすといった紆余曲折を経て、29歳のときにワーキングホリデーで再びフランスへ。旅行ガイドアシスタントをしながら、パリを拠点に改めてヨーロッパを旅した。
海外生活は楽しいことばかりではなく、住まいや家主とのトラブルを始め、フランス語ができないことで買い物などの日常生活はもちろん、歯が痛いのに歯科医とうまくコミュニケーションが取れない、といったさまざまな困難に直面。しかし、このときにル・コルビュジエを始めとする近代建築に興味がわき、サヴォワ邸、ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸などできる限り、自分の目で見てまわることができたのだった。

建築設計ではなく「生きたまちづくりがしたい」と気づいた
帰国後は北海道の富良野で農作業ヘルパーなどをした後、東京で建築を学ぶことに。昼間は大手通信会社で働きながら、夜間に建築を学べる建築専門学校へ⼊学。退勤後に授業を受け、なおかつ課題を制作するという、時間、体⼒、⾦銭すべての⾯で過酷な⽇々がはじまった。
「何⽇も徹夜して作品を提出するのですが、講評してもらえるのは上位数作品のみ。残りは評価に値しない作品と⾒なされるんです。それを1年繰り返すと⼼が折れて、やめてしまおうかと悩みました。私はデザインソフトを使いこなせることがデザインだと思っていたんですけど、そうではなかったんですね。同じクラスにアメリカでカメラマンをしていた友⼈がいたのですが、彼⼥もソフトは使えず、設計図は⼿書きだし写真もアナログ。でも作品がすばらしくて、最終的にはトップで卒業してるんです。彼⼥はデザインの本質をわかっていたんだなと」
原野さんは友⼈のアドバイスに従っていったん休学し、その間にデザインソフトやCADなどを勉強。さらに、時間に余裕ができたことから建築模型のギャラリーや、有名建築家のトークショーを聴きにいくなどして、⼩⼿先の技術ではない何かをつかみとろうとした。すると、ほどなくして作品が講評されるようになり、横浜の⼦安という場所をテーマにした卒業制作でも高評価を得ることができた。そんな奮闘の結果、東京の設計事務所へ就職も果たしたものの、原野さんが建築家としての道を歩むことはなかった。
「結局、私はどうすればその⼟地が抱えている問題を解決できるのかを調べたり、考えたりする作業が好きだということに気づきました。建築の実務は、どういう建材や部品を選んでいくかという、いわば経済優先の仕事なんですね。それよりは、⽣きたまちづくりがしたいなと」
すでに36歳になっており、若くはないと⾃覚していた。そこで東京を離れ、再び地⽅で活路を⾒出すことに。地域おこし協⼒隊に応募し、移住したのは北海道の占冠(しむかっぷ)村であった。
占冠村で得たさまざまなノウハウを手に、新たな旅へ出発
占冠村にはカエデが群生する森があり、村のシンボルツリーともなっていた。原野さんは当初考えていた建築によるまちおこしではなく、当時の村長が推進しようとしていたメープルシロップづくりに関わることになる。こうして村と村の企業である「占冠村木質バイオマス生産組合」と協働することにより、特産品づくりのプロジェクトがスタートした。
「占冠村というのは昔は林業が盛んだったのですが、今は衰退しているんです。この事業の背景には、林業従事者が閑散期に樹液採取やシロップを煮詰める作業にいそしむことで、雇用を創出するというストーリーがあったわけです。ビジネスとして維持していけるよう、5,000円という価格設定にし、ボトルもカナダから輸入した本格的なものを使いました」
2015年10月より、まずは森林組合によるカエデの木の調査が始まり、その後、村の板金屋さんがカエデの樹液を煮詰めるボイラーを手づくり。燃料は、村の森から切り出した間伐材を利用した薪である。雪解けが始まる3月より、試行錯誤しつつ樹液採取とシロップづくりに挑戦した。初年度に製造できた占冠村産メープルシロップ「トペニワッカ」は200本。ただ、商品として販売していくにあたっては、村社会ならではの軋轢などさまざまな苦労があったという。

右:メープルシロップが採れるのはわずか1ヶ月間。専用の器具をカエデの木に取り付け、雪深い森をスノーモービルで移動しながら採取する。
ところが、2年目にギフト需要を見込んだ化粧箱を制作したところ、少しずつ風向きが変わり、販路が広がりはじめた。「接待の手土産」を始めとするメディアに度々取り上げられるようになり、世間に知られるように。アイスクリーム製造・販売の「ミッシュハウス」や、札幌の人気コーヒー店「森彦」など他業種とのコラボも増えた。2018年には「フードアクション・ニッポンアワード」の獲得をきっかけに、Amazonとの取引もスタート。しかし、原野さんがなにより報われたと感じたのは、林業に携わる人たちの言葉だった。
「彼らはこれまで、自分の仕事を人に語るのがイヤだったと。誰でもできる力仕事だと自ら思ってしまっているところがあったけど、みんなの力が合わさって生まれたメープルシロップが注目を浴びたことで、『これをつくってるんです』と胸を張れるようになったと。それを聞いて、心の底から嬉しかったですね」
占冠村でそんな怒涛の4年間を過ごしたのち、原野さんは関西へ戻る。現在は大阪を拠点に、占冠村で得たさまざまなノウハウを、奈良・大阪・和歌山など他の地域でも生かそうと奮闘中だ。穏やかでひかえめな語り口調からは想像もできないような、行動力と情熱、多少の苦境にはへこたれないガッツを感じさせてくれた2時間余りのトーク。今後も地方の魅力を掘り起こし、価値あるものを未来に手渡していくために、原野さんの旅はまだまだ続いていくのだろう。

イベント概要
地域の魅力をカタチにする「ものづくり」の旅
クリエイティブサロン Vol.294 原野知有紀氏
人生は、よく旅に例えられますが、私の人生は、文字どおり移動の多い旅のようです。四年に一度の頻度で引越し。これまで、「行ってみたい!住んでみたい!」と思った場所に行き、そこで、その時、自分ができることを仕事にしてきました。日本語が通じない異国から、大都会・東京、人口1,200人しかいない山に囲まれた過疎の村など、さまざまな場所に身を置いてきましたが、自分のできることの幅が広がり、やりたいことを仕事にできたのは、人があまりいない田舎でした。地域産品プロデュースを行うきっかけとなった地方での暮らしと、そこでの地域活性化の現実と魅力をリアルにお伝えするとともに、まだ見えない未来の行き先についてもお話しできればと思います。
開催日:
原野知有紀氏(はらの ちゆき)
poudre
地域産品プロデューサー / 二級建築士
1978年和歌山県生まれ。大学卒業後、旅行添乗員や営業職を経て、2007年に渡仏。フランスで出会った近代建築の世界に魅了され、帰国後、建築デザインを学びました。その後、北海道占冠村(しむかっぷむら)で地域おこしに参加し、国産メープルシロップの開発と、メープルを活用した地域振興プロジェクトを手掛けました。現在は、大阪を拠点に、地元の資源を活かした商品開発や地域振興にフォーカスした地域産品の開発やブランディングを行っています。

公開:
取材・文:野崎泉氏(underson)
*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。