クリエイターらしからぬ歩みと評価が強みに変わる
クリエイティブサロン Vol.292 山下裕二氏
今回の登壇者は、企業の会社案内・ホームページ・動画・展示会ツールなどクリエイティブ全般のコピー、ディレクションを事業とする塩梅クリエイティブ代表の山下裕二氏。クリエイティブ業界に入ったのは、人とは違う理由だったと語る山下氏。その理由をはじめ、人生の前半戦を賭けて取り組んだ野球の話、さらには独立したきっかけなどについて語った。
クリエイティブ要素なし、就職までも野球が中心
クリーニング店の次男として誕生した山下氏。小学生の頃から野球を始め、父が監督を務める少年野球チームでキャプテンを、学校でも生徒会役員や班長を務めるなど、リーダー的な役割を担う子どもだった。
「少年野球チームは毎日練習があって、とにかくハードでした。父が監督だったこともあり、ほかのメンバーよりも厳しく指導されていました。でも野球は好きで、社会人時代まで野球人生は続きました」
高校時代は硬式野球部がなかったため、軟式野球部に入部。キャプテンを務め、自由な校風の中で楽しい高校生活を送っていた。大学進学を志すが、結果はすべて不合格となり、1年間の浪人生活へ。
「兄が現役合格だったため、浪人は許さないと言われていましたが、父に『1年間浪人させてください』と頭を下げて許可を得て、予備校でも真面目に勉強しました。ただ、大学では硬式野球がしたいと思っていたので、トレーニングは欠かしませんでした」
そして2度目の大学受験。結果は、またも全校不合格という想定外の事態が待っていた。
「この時は本当に焦りました。予備校の先生のアドバイスで二次募集をしている大学に合格して入学できましたが、全校不合格から次にどうして良いか分からなくて、二次募集の大学に合格するまでの約3週間が、これまでの人生で一番キツい時間だったと言えます。今でも夢に出るぐらいです」
入学した大学では念願の硬式野球デビューを果たすなど大学生活を過ごした。就職活動では実業団選手として社会人野球でプレーすることをめざし、監督に相談するも「お前には上でやれるセンスはない」と言われる。一時は、野球部採用でなくても、希望すれば入部できると好条件の企業から内定を勝ち取り、入社誓約書に判子を押すも、後日テストが行われ不合格となり、夢は叶わなかった。最終的に、硬式野球部はあるものの、「野球部社員」としてではなく、一般社員として京都の広告制作会社に入社する。
「しようがなく」配属された部署でクリエイターに
広告制作会社に入社して配属されたのは東京の制作部。コピーライターとしての配属だった。
「制作への配属希望を出した記憶もなかったんです。そこで理由を確かめるべく担当者に聞いてみると『野球もできない、勤務地も京都本社じゃない、それで希望の職種じゃなかったらすぐに辞めると思ったから、しようがなく制作にしたんや』と言われたんです。そう、私はしようがなく制作に配属されて、コピーライターになったんですよ(笑)。でも『何かを作ることや考えること』は好きだったので最終的にはこの会社を選んだのだし、営業よりは遥かに良かったです」
野球に関しては、実業団の選手にはなれなかったが、配属後に神奈川県の硬式野球クラブチームに所属。神奈川県の社会人野球は全国で群を抜いて一番レベルが高く、全国都市対抗野球大会で何度も優勝経験のある強豪チームや、数えきれないくらいの日本代表選手、のちにプロ入りする選手とも対戦した。
「高いレベルの野球を体感したいという想いを実現することができました。挫折もしましたが『続けていれば良いことがあるな』と思えた野球人生でした。諦めていたら、この貴重な経験はできませんでしたから」
大学卒業後に入社した広告制作会社でコピーライターの経験を10年弱積み、その後はフリーランスの期間を挟みながら複数の会社に勤務。クリエイティブに関連するさまざまな立場、職種を経験しながらコピーライター、ディレクターとしての経験を積んでいった。
一番印象深い仕事は、40代前半に手掛けた大手自転車部品メーカーの海外販促。自転車業界、自転車部品、英語の資料と分からずだらけの中で、ツール・ド・フランスでプロレーサーが使用している最高級グレードラインをいきなり担当。発売前の新製品の特長を自転車フレーム会社向けに説明する資料を作成する案件だったが、必死の思いで作り上げると、目標額を大幅に超える売り上げとなる。最初の仕事で信頼を勝ち取り、その後もグローバルな仕事を任せられることになる。ドイツ出張も2度経験し、この時の販促課長の仕事の進め方、考え方が現在の仕事にも非常に生きていて、第二の基礎になっているという。
クライアントの言葉で独立を決意
独立のきっかけとなったのはコロナ禍中のある出来事だった。当時働いていた会社は、東京に本社があって大阪支社は山下氏ひとりという体制。集客以外はフリーランスと変わらない働き方をしていたが、コロナ禍の到来により会社の売上が減少しはじめると、本社との意見が合わず、溝ができ始める。
「副業OKという社内制度を利用して個人の仕事に取り組むことで、将来の独立をぼんやりと考えていました」
副業は協業パートナーの紹介もあって順調なスタートを切った。そしてある日、なぜ副業するのかとクライアントに聞かれ、会社の不満を10分以上話していると、返ってきた言葉に山下氏の心は揺さぶられた。
「『自分が楽しいと思えることに時間を使った方が良い。人に振りまわされて悪口ばかり言う時間、人生はもったいない』と言われたんです。この言葉を聞かされた瞬間、恥ずかしさと同時に頭を殴られたような衝撃を受け、その場で独立を決意しました。コロナ禍で人生を考え直せたのも良かったです」
こうしてコロナ禍ではあるものの、2021年10月に独立して塩梅クリエイティブを設立。以来、紹介を中心に厳しい時代の中でも着実に顧客を増やしてきた。さらに会社員時代と比べ、仕事への向き合い方や自身の行動が大きく変化したという。
「独立したことで『対人ストレスなし』『信頼されて任せてもらえる』『自分のために時間を使える』『会いたい人に会いに行ける』『やりたいことにチャレンジできる』という5つのメリットを実感しています」
「自分から仕掛ける」で未来を切り拓く
独立から約3年が経過し、人との出会いやご縁を増やし続けてきたので、今後は売上と利益をいかに作っていくかが課題、と語る。その課題を解決する取り組みのひとつが、地元・門真市を中心に自分から仕掛けて仕事を生み出すチャレンジだ。
「門真市は古くからPanasonicやタイガー魔法瓶、新しいところでは海洋堂の本社があり、ものづくりが盛んな街。優秀な中小メーカーさまも多数あるが、一方でアピールまで手が回っていない企業さまが多い。そのメーカーさま、門真市役所さまとも一体になって売上やブランド力向上をめざす取り組みを始め、少しずつ形になっている。その他にも児童発達支援所の子どもたちの作品を形にしてより多くの人に見てもらう仕掛けを提案するなど、長期的視野に立った伴走型の取り組みに挑戦しています」
山下氏は、よく周囲から「マジメ」と言われてきたが、クリエイティブの世界にいる人間として「マジメ=面白くない、固い」と言われているようで良い気分はしなかったそう。しかし、独立後は「マジメ」であることが評価され、この評価のおかげでクリエイティブの世界で差別化できていると考えるようになった。
「センスがなくても、しようがなく任命された仕事でも、上のレベルを追って続けていけば形になって、結果を出すこともできたと思います」
そう語る山下氏のクリエイティブの世界における挑戦はまだまだ続く。
イベント概要
意外な理由で業界入りしても、何とかなるお話。
クリエイティブサロン Vol.292 山下裕二氏
クリエイティブ業界に入ったきっかけは、人とは違う意外な理由から。そして何度も、時には急勾配の「まさか」から転げ落ち、登ってきました。コロナ禍真っ只中にピンと来るものがあり、50歳を過ぎて独立。特別才能があったわけではありませんが、長く続けていると良いこともあり、何とか形になっているお話です。特に独立後は、自分にとって何が大事かはよく分かりました。キャリアもベテラン組ですので、皆さんに何か一つでも参考になるお話ができればと思っています。
開催日:
山下裕二氏(やました ゆうじ)
塩梅クリエイティブ 代表
コピーライター / プロデューサー
1969年生まれ。大学卒業後、1992年、広告代理店でコピーライター・プランナーとして量販店のチラシ制作からスタート。現在は企業の会社案内・ホームページ・動画・展示会ツールなどクリエイティブ全般のコピー、ディレクションを担う。主なクライアント実績:マイカル・東急ハンズ・パナソニック・シマノ・大阪工業大学・沖縄科学技術大学院大学(OIST)など、約30年で多数。業界業種も多岐にわたる。
門真市ものづくり企業ネットワーク 賛助会員
公開:
取材・文:中直照氏(株式会社ショートカプチーノ)
*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。