わずか数mmでも感情を揺さぶり、人の心を動かすために
クリエイティブサロン Vol.291 竹内真二郎氏
いつ、どこで、何を機にクリエイティブの世界に一歩踏み込むか。クリエイターとしての原点は人それぞれだ。今回の登壇者・竹内真二郎さんは、株式会社TOMBOの代表取締役を務め、アートディレクター、デザイナーとして幅広いフィールドで活動している。現在の活躍は、どのような経験の中で育まれてきたのか。その原点を紐解くと、意外な風景が見えてきた。
一途な思いから芸人、そしてデザイナーへ
竹内さんが生まれ育ったのは、兵庫県中南部に位置する加東郡滝野町。緑豊かなこの地で、竹内少年は川遊びに興じ、野球に明け暮れ、読書や映画鑑賞、絵を描くことを趣味にのびのびと育った。
その一方で「一度は都会で暮らしたい」という感情を抱き、高校卒業後はよしもとクリエイティブエージェンシー(現・吉本総合芸能学院)へ入学し大阪へ出ようと考えていた。そこで「地元に残って家業の左官屋を継いでほしい」と反対する家族を1週間かけて説得。「いずれ戻ってくる」という約束の下、なんとか許しを得ることができた。
しかし、一緒に入学を約束していた友達2名が事情で行けなくなり、やむなく断念。次の道を模索する中、ふと頭に浮かんだのが、幼少期から描いてきた絵の世界だ。竹内さんは急遽デザインに方向転換し、無事に大阪市内にある創造社デザイン専門学校に進学した。
こうして始まった大阪での生活は、期待通り非常に楽しいものだった。一時は、プライベート面が充実し過ぎるあまり、単位取得が疎かになったことも。デザイン以上に都会での生活に魅力を感じていたのだろう。
だが、そんな竹内さんの秘めた才能に気づいた人物がいる。当時、補講でお世話になった先生だ。生まれ持った色彩感覚を高く評価し「せっかく力があるのだから、もっと頑張れ!」と励ましてくれた。これを機に竹内さんは心機一転、学業に打ち込むようになると、すぐさまデザインの面白さに目覚め、課題制作でも常に上位に食い込むようになった。
人型のシミがついた恐怖のソファー
卒業後は、実家からの「戻ってこい!」という声を振り切り、グラフィックデザインの会社に就職。しかし、そこで待ち受けていたのは想像以上に厳しいプロの現場だった。
「全然上手くデザインできず、作ってもほとんどが不採用。先輩たちが制作したデザインをプリントアウトし、カッターで成形するくらいしかできなくて。当時はトンボばかり切っていました」
トンボとは、印刷物の断裁位置を示す目印のこと。カッターでトンボを切りながら、アシスタント業務しかできない悔しさを噛み締めていたのだろう。
その後4年目を迎え転職すると、今度は逆にオーバーワークに陥ってしまった。家に帰れない日が続き、事務所にあった仮眠用のソファーには人型のシミができたと言う。
さらに竹内さんを悩ませたのが「いつ戻ってくるんだ?」という実家からの催促。これまでも幾度となく帰省を促されてきたが、この頃になるとますます連絡が増えてきた。デザインを続けたい。でも実家に戻らなければいけない。悩んだ末、ついに会社を辞め独立することを決意した。
「今思えば、とても浅はかでした。もう数年でリモートワークの時代が来るから、今のうちに独立してお客さんを作っておけば、地元でもデザインの仕事ができると考えていたんです」
ところが実際は全く仕事がなく、貯金も底をつき、毎日小麦粉を焼いた「お好み焼きらしきもの」を食べる日々が続いた。
人脈最強「イエスマン」の功績
そんな生活に変化が生まれたのは数ヶ月後のこと。営業先の制作プロダクションから「明日までにロゴを10個作ってほしい」と依頼を受けた。当時仕事がなくエネルギーをもて余していた竹内さんは、指示をはるかに上回る50個ものデザインを提出。これには担当者も驚き「君、面白いな!」と、以降さまざまな案件を発注くれるようになった。
こうして、またもや「怒涛」と言うにふさわしい生活がスタート。プロダクションから発注が来れば昼夜関係なく制作し、夜中の2時でも呼び出されれば打ち合わせに向かった。時には、追い込まれすぎて体調を崩すことも。さすがにリタイアしても良さそうなものだが、竹内さん曰く「みんなでつくっている感覚があって、あれはあれで楽しかったんです」。デザインできることへの喜びがエネルギーとなっていたのだろう。
それどころか、友人らと展示会を企画し、さらなる人脈作りに乗り出した。当時の自身を映画『イエスマン “YES”は人生のパスワード』に例えてこう語る。
「否定的な主人公が、人生を変えるために何事も『イエス』と答えるストーリーなんですが、あの頃の僕はまさにイエスマンで、仕事も飲み会も絶対に断らないと決めていました。おかげで、当時出会った広告代理店の担当者さんや仲間たちとは今も一緒に仕事をしています。柔軟性のある若い年代だったからこそ、デザインについて真剣に語り、本気の付き合いができるようになったんだと思います」
「世界を変えましょう」
ようやく事業が軌道に乗り、手応えを感じ始めた竹内さんだったが、当時ある悩みを抱えていた。それは、コンペに参加するも最終的に勝てないということだ。
悶々と悩む中、ある日、尊敬するクリエイティブディレクターに相談すると「世界を変えましょう」というアドバイスを受けた。この言葉が引き金となり、自らの姿勢を深く見つめ直すようになったそう。
「僕はずっと、自分がかっこいいと思うものばかり追い求めてきました。でも、それは小さな造形に囚われて小手先でデザインしているようなもの。もっと『世界を変える』くらいの大きな視点に立ち、見た人の心を動かすものを作らなければいけないと気付いたんです」
作り手である自分から、それを受け取る消費者へ。180度視点を変え、数mmでもその感情を揺さぶりたいと向き合う中で、徐々に視界が開けてきた。
以来、現在に至るまで、竹内さんは人を笑わせ、驚かせ、泣かせるものを追求し続けている。時には、制作費度外視で心を動かすデザインにこだわることさえある。
「『予算がないから』と曖昧なものを作るより、こちらが一部負担してでも、確信を持ったデザインを勧めるようにしています。消費者の心を動かすことができれば、継続的な受注関係に発展し、きちんと利益が出る。わらしべ長者みたいなものです」
このマインドになって以降、次々とコンペに勝つようになり、今や実績には、各界を牽引する大手企業の広告が並ぶ。
また会社経営も順調で、現在は8名の社員を抱えるまでに成長。反対していた実家の両親も、最近は応援してくれていると言う。今後は、韓国、中国を足がかりに海外進出をめざす予定。来るべき時に向け、すでに語学力のある社員を雇用し着々と夢に向かっている。
サロンの締めくくりに当たり、竹内さんは自社のロゴに込めた思いを語った。TOMBOという社名は、トンボばかり切っていた若手時代の、デザインしたくてたまらなかった気持ちを忘れないようにと付けたもの。ロゴにもトンボを用い、自身の原点を表している。また他にも、TOMBOの頭文字である「T」の文字や、前にしか進まない習性から「勝ち虫」と呼ばれる蜻蛉のフォルムをイメージしている。
ちなみに『日本国語大辞典 第2版 第9巻』(小学館 2001)によると、「とんぼ」という言葉は、山の頂を指して使うこともあるそう。竹内さん率いる株式会社TOMBOは、今後もデザイン業界の頂をめざし邁進し続けることだろう。
イベント概要
人の心を動かす。
クリエイティブサロン Vol.291 竹内真二郎氏
デザイン会社を始めて、今年で20年。日々、新しい発見や課題と向き合いながら、デザインの世界を深めています。独立当初から大切にしていること、そして数々のプロジェクトを通して得た経験や教訓を皆さんと共有できればと思います。
開催日:
竹内真二郎氏(たけうち しんじろう)
株式会社TOMBO 代表取締役
アートディレクター / グラフィックデザイナー
1978年兵庫県生まれ。デザイン会社勤務を経て2004年に独立。広告、CI/VI、パッケージデザインなど、企業やブランドのビジュアルアイデンティティを確立するデザインを幅広く手掛ける。
公開:
取材・文:竹田亮子氏
*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。