幾つもの“時代”を経て新たに広がるモノづくりの舞台へ
クリエイティブサロン Vol.293 中川幹氏

マーケティングからプランニング、クリエイティブ、事業の企画開発まで、幅広い領域で「モノづくり」を手掛ける中川幹氏。約40年という長いキャリアのなかで、グラフィックデザイナー、プランナー、ブランドマネージャー、企画開発といくつもの時代を経て、現在、独立系コーディネータとしてメーカー企業とマーケットをつなぎ、モノづくりの第一線で活躍中だ。その歴史の変遷や時代ごとの出逢いや学び、クリエティブへの想いなど、余すところなく語っていただいた。

中川幹氏

8歳の時、突然降りてきたモノづくりの道に進むという天啓

「名前は中川幹(みき)、決して怪しい者ではありません」と、“いつもの挨拶”からサロンがスタート。サントリー創業者の「やってみなはれ、やらなわかりまへんで」を座右の銘とし、「“専門性の追求”と共に“応用性の追求”」を信条に、面白いこと、過去にやったことのないことに挑戦してきたという中川氏。つねに“自分しか出来ない仕事”であるか?“年齢に相応しい仕事”であるか?を判断しながら、今日に至るキャリアを築いてきた。

そんな中川氏は、1957年生まれ、大阪・豊中育ち。小学1年生の時から休憩時間ごとに校庭に飛び出して授業に遅れ、毎日、毎回、廊下に立たされていた問題児だが、なぜかIQは150弱が不幸の始まり。。8歳の時、「あっ! ボクは必ずモノづくりの道に進む」と、ふと思ったのだという。

10代の頃は音楽や美術が好きで、高校生の時に授業で描いた60号の油彩画が高く評価される。が、父親からは不幸なことに京大をめざせと言われ、嫌だと思った中川氏はドロップアウト。芸術系の道、なかでも取り扱う素材が多いデザイン科への進学を決め、大阪芸大に入学した。

「大学にはほとんど行かなかったが、クラスの誰よりも早く全ての単位を取った」という中川氏の自宅には、毎晩のように同級生たちが集まってきた。それぞれ専攻の違う友人たちから課題の相談を受け、いろいろと指示を出していたそうだ。

「いろんな人からの相談を受け、筋道を立てるアドバイスをする。思えば、今やっているアートディレクションと同じことをやっていたんですね」

また、大学時代のアルバイトとして美術系予備校の「中の島美術学院」で講師を務め、高校生80名のクラスを担当。人に教えるという貴重な体験とともに、さまざまな美大や芸大の油彩画、陶芸、デザイン科など、幅広い専門科とのネットワークという大きな財産を得る。

就職を考える頃には、美術貿易商を営む知人からノーベル賞受賞者に与えられる認定書の装幀(ルリユール)の後継者としてパリ行きを誘われるも、「職人的な仕事は自分に向いていない」と辞退。先ずは普通の制作会社に入り、一般的なグラフィックデザインを学ぶことから始めることを決めた。

美術や音楽に興味を持っていた10代。左は高校生の時に描いた油彩画60号「青」。右は大学時代の私家版アートブック。

制作現場の第一線を走り抜けた、グラフィックデザイナー・プランナー時代

入社したのは、大手印刷会社の下請けを行う制作会社。「知らない会社の知らない案件ばかりで、何もかもが気に入らなかった」という中川氏。転機が訪れたのは入社2ヶ月後、輸入知育玩具の日本総代理店のカタログ制作を受けたことだ。この仕事を通し、イタリア・ミラノの家具・ステーショナリーメーカー「DANESE(ダネーゼ)」と出会い、ブルーノ・ムナーリやエンツォ・マーリなど有名デザイナーの世界に触れることができたと当時を振り返る。

「ヨーロッパにおけるデザインの“在り方と考え方”を深く学び、18世紀頃から連綿と続くマニュファクチュア(家内制手工業)を感じることができたのは、大きな収穫でした」

入社後半年経った時には当時の専務に「オマエに全て託す」からと言われ、陶磁器のたち吉のコンテポラリーブランド「Adam & Eve」を担当。広告やポスター・カタログなどのグラフィックから、ディスプレイまで総合的に取り組んだほか新規ブランド「Japan」では、ネーミング開発、ロゴ開発などのVI、商品開発、ショップ開発などブランドに関するすべての分野に一から携わることができた。

さらに、世界初の復刻ジーンズ「Wrangler」のツール開発や、友人と一緒に立ち上げたTシャツメーカーでデザインを手掛けるなど多種多様なクリエイティブを経験する。

次にデザインの川上が見てみたくなった中川氏はプランナーへ転身。フランチャイズ事業を手掛ける企業を担当し、当時アメリカで始まりつつあった“マルチメディアスタジオ”の先駆けの組織で、グラフィックコンテンツから映像コンテンツなどを一元化して展開する役割を担う。

「プランナーとして仕事をしていたこの時期、企業がどのように運営され、どのように意思決定するのかを身を持って体験。企業と外部の間に立つというハブ(Hub)としての役割は大きく、自身の大きな武器になった」と語る中川氏。また、企業スタッフと共に企業の持つ様々な課題の解決を図るなかで、如何にゲーム(=仕事)を攻略するか、仕事をゲーム感覚で楽しむように、考え方が大きく変化していったという。

当時大阪ミナミで全国的に有名だったブティックと組んだ「Wrangler」の仕事。ローンチの際のブランドブックなどのツール一式と、付帯物であるフラッシャーなどを制作。

アナログからデジタルへの過渡期、四十にして一から再スタートへ

40歳になった頃、時代はアナログからデジタルに移行する過渡期であり、「今後業務を継続していくためにはMacを習得することが必須」と考え、再びグラフィックデザイナーとして制作現場への復帰を決める。

あえてハードな会社に入り、若い頃から培ってきた絵心を頼りに1年ほどで各種Adobeソフトのスキルを習得。しかし、その会社はパワハラが常態化するほど超ワンマンで、仕事は激務を極める。とうとう体を壊して緊急入院へ。半年間の休養を経て、新たな仕事環境で再スタートを切った。

「私は本当に内向的な性格で、人と話すのも電話をするのも大嫌いでしたが、この頃にはようやく普通程度のコミュニケーションができるようになっていましたね」と笑う中川氏。ゴルフ系アパレル会社のグラフィックから、その店舗開発までも手掛けた。

この経験を通して、プランニングの持つ論理的思考とデザインが持つ感覚的思考を併せ持ち、通常のプランナーが三段論法を使って企画をつくるところを、自分は一枚のフローチャート図で表現できることを確信。「一枚の絵」で説得できる世にも珍しいチャート系プランナーと位置づけた。

そんななか、大学時代の縁で百年近く続く和洋菓子ブランドのブランドマネージャーを任されることになった中川氏。ブランディング業務を通じて、「ブランド」という存在とその在り方、運営、厳しさ、優しさ、懐の深さなど、身をもって体感。

初めて挑んだという外食フランチャイズチェーン本部の中食(デパ地下)への新規事業開発。コンセプトから店舗デザイン、商品、アプリケーション、オペレーションのすべての開発を手掛ける。

企画開発で新たな事業を拓き、ブランドコーディネートで価値を生み出す

グラフィックデザイナー、プランナー、ブランドマネージャーの時代を経て、次に訪れたのは企画開発の時代だ。中川氏は、大丸百貨店の子会社という自身にとって初の流通系企業に入社。新たに新設した企画開発室で営業の前を走り、彼らを導き、助けることが与えられたミッション。

営業からのさまざまな相談に応じながら相手企業に同行する日々。営業には「企業担当者はとても忙しい、新規開拓は一発で仕留めないとならない」と教える。その中で手掛けた仕事のひとつが、外食フランチャイズチェーン本部の中食(デパ地下)への新規事業開発で、東京新宿に旗艦店を持つ大手百貨店の大阪進出に伴う中食への参入プロジェクト。何度提案書を出しても通らないという状況に対し、「デパ地下のバイヤーはいわば“食のオタク”。落とすには、食べたことがない! 食べたい! と思わせるのみ」と、わずか数枚の提案書で一発OKを獲得し、開業までの2年間を外部ながらプロデューサーとして、企業内各部署と共有しながら牽引し、出店を成し遂げた。

その後、大丸と松阪屋の合併の影響を受け、同業同士で合併、グループ全体で約1,200名の企業となる。次のミッションは大丸松坂屋内での未開拓分野の開拓。大丸松坂屋百貨店・法人外商事業部にて、新規開拓を引き受けることに。そのなかで、「“専門性の追求”と“応用性の追求”の2つが重要である」という中川氏は法人外商事業部の業務コンサルタントとして、自社内新規事業やさまざまな業界に向けたさまざまな切り口の企画相談に対応。マーケティング見地から可能性を探り、次に方向性を決め、具体的な提案を仕掛けていく。

「この頃になって、培ってきたデザイン、プランニング、立体案件、商品開発など、さまざまな経験のすべてがようやく統合化。経験の有無や規模、どんな分野であろうと成果を出せると思うようになりましたね」

その後、新たなアイテムの企画開発を機にブランドコラボ案件で法人外商とタッグを組み、ブランドのブッキングからコーディネイトまでを担当。ブランドコーディネーターとしての実績を独学で積み重ねていった。

独立系コーディネーターとして、次なる可能性を追い求める

そして現在、会社を退職して独立系コーディネーターとして活躍する中川氏。これまで築いてきた作家やブランドとのパイプは全80以上にも上り、ネットワークを活かして新たな販路開拓にも挑んでいるところだ。

2024年2月には、活動を活発化させるためにメビックに来館。8月にはクリエイティブシーズ発表会「“かかりつけ”クリエイター」に登壇したほか、2025年2月に開催される「ペーパーサミット(大阪府印刷工業組合主催)」に向けて2社と協業しながら、印刷業の枠を超えた新たなマーケットをめざす「新規事業開発」を目論んでいる。

「また、この半年間でメビック経由で日本の素晴らしい技術を持った企業と出会い、刺激を受けることもできました」と新たな発見も。今後、独立系コーディネーターとしてすべきことを考え、これまで手掛けてきたブランドのコーディネイトと、新規事業開発やマーケット開拓を行う販路のコーディネイトという2つの方向性を見据えている。

「でも、自分の名を挙げたり、先生になったり、ブランド化もしたくない。最終的にめざすのは“街のデザイン屋さん”。それが一番しっくりきますね」と笑う。

最後に、「ベースが好きで、いつかファンクバンドやレゲエバンドをやりたい」という中川氏。昔から憧れているジョージ・クリントンの曲を流し、和やかにサロンを締めくくった。

イベント風景

イベント概要

8歳で降りた天啓 … “モノづくりの道を粛々と歩む”
クリエイティブサロン Vol.293 中川 幹氏

グラフィックデザイナーとしてキャリアをスタート。仕事の川上に興味を持ちプランナーに転身。以降仕事の源流をめざして遡り、近年は企業と共に課題解決を図る業務コンサルタントとしての役割を担い、また企業内外を繋ぐハブ機能として多彩なアプローチによる具現化を手掛けております。「“専門性の追求”と共に“応用性の追求”」を信条に、「“面白い”か?“面白くない”か?」が判断基準。企業内部を知る者として、企業活動の中でのクリエイティブの在り方についてお話をしようと思います。

開催日:

中川 幹氏(なかがわ みき)

株式会社ディレクターズインク
プランナー / コーディネーター

1957年生まれ。十代前半は音楽、後半は現代美術を志望。8歳で降りた天啓…「将来かならずモノづくりの仕事に就く」が自身の原点。サントリー創業者の「やってみなはれ、やらなわかりまへんで」を座右の銘に、現在も未来の可能性をめざし活動をしております。

https://directors-inc.com/

中川 幹氏

公開:
取材・文:山下満子氏

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