愛してやまないエンタメ作品と、デザインを通して関わり続ける
クリエイティブサロン Vol.288 瀬戸伸雄氏
70歳を目前にした現在も、デザイナーとして第一線を走り続ける瀬戸伸雄氏。『ウルトラマン』『ゴジラ』『スター・ウォーズ』といった誰もが知る超大作のおもにCDジャケットをデザインするほか、50歳を過ぎてから美少女ゲームのユーザーインターフェイスなど新たなジャンルにも臆せず挑戦。半世紀近いキャリアがあるがゆえにその作品数も膨大で、サービス精神たっぷりなトークで会場を沸かせつつ、閉場ぎりぎりまでこれまでの軌跡を語り尽くした。
夢多き少年を育んだ、昭和エンタメの金字塔
高度成長期の1955年、和歌山に生まれた瀬戸さん。もの心がつく頃には、特撮ドラマ『ウルトラQ』『ウルトラマン』を夢中で観ていたそう。トークは冒頭から作品にまつわる薀蓄はもちろん、当時の少年たちがみんな持っていた『怪獣図鑑』という本についてなど、特撮愛あふれるエピソードからはじまった。参加者のなかには、ともに特撮ドラマのロケ地めぐりをする仲間もおり、マニアックなやりとりをする場面も。
一方、幼い頃から絵が得意で、高3の頃には『明星』『平凡』といったアイドル雑誌に投稿するため、人気の芸能人を描いていた。その似顔絵を参加者に見せ、名前を当てるというクイズをしたところ大盛り上がり。正解が続出し、画力の高さを見せつけた。
その後、浪速短期大学(現・大阪芸術大学短期大学部)へ進学し、和歌山から大阪へ通う日々が始まる。ところが、たまたまストライキがあり普段は利用しないなんば駅へ。そこでふと思い立ち、当時、南海なんば駅前にあった「南街会館(現在「マルイ」のビルがある場所)」で黒澤明監督の『生きる』を鑑賞。
「哲学的なタイトルから小難しい映画かな?と思っていたのですが、とんでもない。随所に笑いを入れ込んだめちゃくちゃおもしろい人間ドラマで、すぐに引き込まれました」
これをきっかけに黒澤映画の大ファンとなり、『七人の侍』『用心棒』など黒澤作品はすべて鑑賞し、文字どおり世界に「どハマり」。しかし、幼少期~青年期を豊かにしてくれたこれらのエンタメ作品が、その後、自らの人生に深く関わってくることになるとは、このときは想像もしていなかったという。
ユーカリ社時代の失敗から、営業の心得を学んだ
大学卒業後は、文具メーカーの株式会社ユーカリに入社。イラストを描く筆記試験と面接を受けたところ、70人以上もの応募者がいるなかでみごと内定を勝ち取る。
「あとで面接担当者に聞くと、絵がうまいからではなく、いちばん愛想がよかったから選んだといわれまして。3人採用するから1人くらいはお調子者がいてもいいか、というので入社させてもらえたんですね」
当時は、ティーンの女の子向けファンシー文具の全盛期。かわいらしいキャラクターを描いて、レターセット、ノート、鉛筆、消しゴム、ペーパーバッグなどに展開するビジネスをユーカリ社も手がけていた。しかし、瀬戸さんは当時、ファンシーな絵が描けなかったためライセンス部門の担当へ。矢沢永吉、アリス、イルカといった人気ミュージシャンのロゴやイラストを使ったステーショナリーを企画デザインしていたという。
そんなある日、アメリカで『スター・ウォーズ』が大ヒットし、瀬戸さんは1978年の日本公開に合わせてライセンスの取得を会社に提案。
レターセットやビニールバッグをデザインし、広げると裏面がB2サイズのダース・ベイダーのポスターになる凝ったカタログも制作した。そして、『スター・ウォーズ』はその直前に公開されたスピルバーグの『未知との遭遇』とともに、日本にSF映画ブームを巻き起こす。しかし、満を持して制作したステーショナリーはさほど売れず、窮地に立たされることに。
「言い出しっぺの責任を感じて、会社にも仲間にも合わせる顔がなかったです。思えばファンシー文具というのは、女の子向けの商売なわけです。ターゲットの好みに合っていなかったのが、いちばんの敗因。しかし、先輩の営業マンが『このカタログのおかげで、今まで門前払いだった取引先が話を聞いてくれて、人によってはプライベートな話もしてくれるようになった。だから、そんなにがっかりしなくてもいいよ』と言ってくださって。その後、独立して自ら営業する際にも雑談ができるような、人としてのつながりが大切だということを学びました」
CDの全盛期、水を得た魚のように映画音楽の分野で活躍
瀬戸さんが独立したのは1988年。ステーショナリーグッズの世界からは少しずつ離れ、グラフィックの世界へ軸足を移してくことに。なかでも主戦場としたのは、CDやビデオのパッケージといったエンタメ作品のグラフィックであった。
当時、大阪にあったSLC(サウンドトラック・リスナーズ・コミュニケーションズ)という組織とユーカリ社時代の後輩を通じてつながったことで『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』『ダイ・ハード2』といったメジャーな作品の映画音楽CDデザインを次々と手がけていく。90年代はCDが爆発的に売れ、音楽業界も活気あふれる良い時代だったとか。
さらに、本家本元の「スター・ウォーズ」のCDジャケットの依頼がきた際にはとうとうここまできたか!と鳥肌が立ったそう。
「1980年の日本公開時にはLPでのサウンドトラックが発売されていますが、まだCDは世の中に出回っていませんでした。時は巡って90年代のCD全盛期に入り、レコード会社はどこもCDになってない名盤を探していた。1991年にSLCで『スター・ウォーズ・トリロジー』を、翌年に『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』を手がけました。その後、1998年にCP盤(カルチュア・パブリッシャーズの意味で、親会社がTSUTAYAを運営するCCC=カルチュア・コンビニエンス・クラブの制作部門)からの依頼で、再デザインする機会にも恵まれたんです。 LPで出たときのデザインをそのまま踏襲するケースもあるのですが、あえて変えようというレコード会社の意向があったため、私にチャンスがまわってきたんですね。SLC盤は初リリースなのでていねいにわかりやすく、CP盤ではヴィジュアルで遊ぶといったつくり分けをしています」
その後、映画音楽の巨匠『映画音楽 佐藤勝 作品集』『伊福部昭 映画音楽全集』『黒澤明 映画音楽完全盤』『50th アニバーサリー・ゴジラ・サウンドトラック・パーフェクトコレクション』etc. 少年期~青年期を彩ったさまざまな作品と、デザインを通して出会い直していく。
作曲家・伊福部昭氏の作品集ではジャケットに掲載する写真の撮影で本人と自宅で会うことができたり、『ゴジラVSメカゴジラ』のオーケストラによる映画音楽録音に立ち会うなど夢のようなできごとも。それはまさに仕事というよりは、長年の憧れだった作品に仲間の一人として参加できる、最高にうれしく刺激的な体験だったに違いない。
50歳を過ぎてから、美少女ゲームという新ジャンルへ
ここまで聞くと華やかな仕事を次々とものにして、順調に歩んできたかのように思えるが、長いキャリアにおいては資金繰りが厳しい時期もあったという。たまたま見た求人広告でVシネマの制作会社が営業マンを募集しているのを知り、「デザイナーですけど会ってもらえませんか?」と自ら営業をかけたことも。結果、実力やセンスが認められ、『首領(ドン)への道』などさまざまなVシネマのパッケージを手がけることに。
「素材をもらってデザインするのではなく、ラフを描いて、撮影にも立ち会うというスタイルでした。まずはいただいた台本を読んで、パッケージに掲載するキャストをメーカーさんに聞いてから構成していきます。しかしながら、こう撮りたいというお願いを素直に聞いてくれる方と、そうでない方がいて(笑)。あちらもプロで真剣勝負ですから、激怒してラフを床に叩きつける俳優さんがいたりと、手に汗にぎるような場面もありましたね」
さらには、ゲームやアニメ関連の仕事にも手を広げようと、オフィスの近隣にあるゲーム会社をリサーチして17社ほどにコンタクトするなどもした。そのうちの1社と縁があり、美少女ゲームのパッケージやマニュアル、情報誌やグッズのデザイン、また各種ゲーム作品のユーザーインターフェイスなども担当。これらの仕事はすべて、50歳を過ぎてからのチャレンジだというから驚きである。
一定の年齢に達すると、講師やマネージメント業といった方向に活路を見出すデザイナーも多いなか、常にプレイヤーとして自らの手を動かし続ける瀬戸さん。年齢や仕事の範囲にリミットを設けず、常に現在の自分を超えていく姿勢に、勇気をもらえた参加者も多かったに違いない。相田みつをの“一生勉強一生青春”という言葉ではないが、デザインとは実年齢に関係なく精神の若さで創っていくものなのだと、改めて教わった2時間であった。
イベント概要
『ゴジラ』と『スター・ウォーズ』の向こうにあるもの
クリエイティブサロン Vol.288 瀬戸伸雄氏
ご依頼があれば何でも取り組んできましたが、独立前を含め代表的な受注案件として1970年代後半から80年代はステーショナリー・グッズのデザイン制作に携わり、90年代はCDジャケット、00年代はDVD・ブルーレイディスクのジャケット、10年代以降はゲーム制作に関するデザインワークを中心に取り組んできました。そういった案件の多くは、以前からの繋がりがきっかけで、次の新しい取引先に繋がっていくといったループ現象で、お仕事を生み出してきました。またゼロからの繋がりで新規開拓を行ってきた取引先も多くありますので、これまで携わってきたさまざまなお仕事の一旦を披露できればと思います。さらに今後めざす方向などもお話できればと考えています。
開催日:
瀬戸伸雄氏(せと のぶお)
有限会社ツインクル 取締役
グラフィックデザイナー
1955年、和歌山市に生まれる。幼少の頃より絵を描くのが好きで、将来は美術系の仕事に従事できればと考えていた。1976年6月、株式会社ユーカリ 企画室入社。ステーショナリー・グッズのデザイン、キャラクター商品の企画開発、市場展開を担当。ユーカリ退社後、デザイン会社勤務を経て、1988年4月、個人事務所ツインクルを創業する。1992年法人化を申請し、有限会社ツインクルと登録。以降、音楽・映像・ゲームに関する案件を中心に、幅広くグラフィックデザイン、エディトリアルデザインに従事する。
公開:
取材・文:野崎泉氏(underson)
*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。