住人みんなの自立した姿を見るとうれしいんです。
山崎 亮氏:(株)studio-L

梅田のレトロビルにランドスケープデザイン事務所がある。新しい公園を提案する、studio-L代表の山崎さんにお話をおうかがいしました。

オーストラリアの片隅で、
自分の実力のなさに愕然とした。

山崎氏
事務所内は設計関係の洋書がぎっしり。

ランドスケープ・アーキテクトとして活躍する山崎さん。聞けば高校時代は昼間ラグビー一筋で、夜はブレイクダンスに明け暮れていたそう。「体力がありましたよ、今考えたら(笑)。大学はこれからの未来はバイオがくるぜ、って感じだったので大阪府立大学農学部に入りました。でも、結局バイオに進まず3年生からランドスケープデザインの研究室に入りました。デザインだからおしゃれだろうと思って入ったんです」。

大学へは真面目に通ってなかったと語るが、3年生のときに転機が訪れる。「メルボルン工科大学に留学したんです。奨学金が出るんですよ。渡航費が出て、授業料が無料で、月8万円もらえて、金髪のお姉さんと仲良くなれる(笑)。これは得だ!と思って行ってみたら、向こうは勉強するってことに対する意識がぜんぜん違うんですね。あれを実感したことが大きいですね」。

留学先では排水学や模型づくり、歴史学など、一授業3万円などと授業料に値段がついていた。単位をそろえて卒業するため、単位を落とせば落とすほどお金がかかる制度だった。
「だから、自分が購入した授業をさぼる学生はまずいない。また、日本の大学のように学生がたむろする部屋が用意されていないので、メルボルン市内に広い部屋を借りて、20人くらいの学生仲間を募って、そこに各人が机や本棚を配置して、デザイン演習の課題をやったり、デザインについて議論したりしていました。そういう部屋のことを「studio」って呼んでいましたね。まさにこの「studio-L」みたいに、机と本棚が並ぶ部屋でしたよ。で、そのスタジオで一緒に勉強していた仲間たちの勉強量が半端じゃなかったんです。そのときですね。やらなきゃいけないなと思ったのは」。

設計とは別の部分のデザインに魅力を感じた。

山崎氏

その後、社会に出るには実力がなさすぎると判断して大学院時代に進んだ山崎さん。修了後、設計事務所に就職。
「浅野と三宅という、ふたりのボスがいたんですが、当時はデザインがやりたかったので、ハーバード大学でデザインを学んできた三宅のもとで、実施設計の詳細図面を描いたり、数量を計算したりしていました。ところが、もうひとりのボスである浅野もすっごい人だったんです」。

もとはマーケティングが専門のプランナーである浅野さんは、設計業界に入る前は複数の美容室を同時に経営していた人だった。
「例えば、『公園をつくってくれ』と言われれば、どうがんばってもできあがるものは公園なんですね。少し奇抜なカタチにしようと、自然豊かにしようと、公園は公園。ところが、『公民館みたいな公園をつくってくれ』と言われれば、木の下で書道教室をやったり、池のほとりで英会話教室ができたりする公園をつくろうとする。ブランコや滑り台をつくるという従来の公園とは違ったものができあがるでしょう。つまり、どこにもない奇抜な形を模索することが重要なのではなく、社会が求めているのにこれまで世の中に無かったプログラムを生み出すことが重要なわけです。浅野はそういう考え方の人だった。その典型的な例は有馬富士公園の仕事です」。

有馬富士公園がすべてのはじまりだった。

有馬富士

当時の有馬富士公園は基本的には設計が終わっていて、開園後の運営計画をつくってほしい、という依頼だった。そこで山崎さんは、ディズニーランドのように「ようこそ」と言って誰かが迎えてくれるような公園にしようと考えた。歌って踊ってくれるキャストがいるような公園。しかし、公園の場合はキャストに給料を払えない。そこが課題だった。

夢プロ水辺

「公園周辺の市街地を探ってみたら、サークル活動やNPOなど自主的な活動をされている方々がいっぱいいたんですね。50近くあった活動団体にヒアリングしてみたら、『会議をやるたびに会議室を借りないといけない』『チラシをコピーするのが大変』など、困っていることがいっぱいありました。だから『その課題は公園側が解決しますから、ぜひうちの公園で活動してください』と誘って回ったんです」。

太陽の観察

その作業は、今まで考えていたデザインの仕事ではなかった。「最初は相当緊張しましたね。知らない人に話しかけるのが嫌で嫌で。でも、それをしなきゃダメだ、と浅野に言われて。思い切って声をかけてみると、わりと快く公園に来てくれて、日替わりでいろんなことをやってくれるようになりました。例えば天体望遠鏡を持っている星に詳しい人たちは、自分たちの自慢の道具を公園へ持ち込んで来園者に夜空の観察プログラムを開催してくれるわけです。子どもたちに天体を見せてあげるから、こどもや親はとても喜ぶし、天体望遠鏡を持ってきた人たちも楽しい。ゲストもキャストも楽しんでいる。これって重要なことだと思いました。有馬富士公園は現在、パークマネジメントの先進地としていろいろな視察が来る公園になっているようです」。

里山レンジャー

公園としては珍しく、来者数がずっと増えて続けている。「結局これは彼らキャストがすごい。自分たちのファンをつくっているわけですから。設計という仕事も面白いけれども、そうじゃない部分をやる人がいてもいいんだろうなと思いました」。

みんなが自立した姿を見ると、うれしい。

独立してstudio-Lを設立した山崎さんは、パークマネジメント系の仕事を中心に、現在は京都府の木津川の公園や泉佐野丘陵緑地に誕生する公園のコンサルティングを行っている。
「多くの住民の方と話すようになり、専門的な言葉を使う回数が減ってきました。住まい手がどういう生活をしたいのかということから話さないと聞いてもらえないですから。街に入るときにいつもやることですけど、『3年で僕たちはここから撤退しますよ』と必ず最初に言います。それは、僕たちがそこからいなくなっても自主的にうまく行くようにしたいからなんです」。

先の有馬富士公園に後日談がある。「予期していなかった良い点は、公園って清掃業者が年に2回、園内を一気に除草したり樹木を伐採したりするんですが、ため池の昆虫の生態に関係したプログラムをやっていた人たちが、慌ててパークセンターにやってきて、『あんな維持管理の方法では、この地域特有の昆虫がいなくなってしまう。もしよければあそこの部分は私たちで掃除とか管理とかやらせてくれないですか』と依頼したそうです。その方たちにため池の管理を任せると、それを見た別のグループが里山の管理は自分たちがしたいと言うようになったんです」。
その結果、公園を管理すべき面積が徐々に少なくなり、結果的に経費の節減につながったのだとか。

事務所風景

「パブリックのために市民に何ができるのか。住む人たちが立ち上がって、自分たちの私益だけでなく公益にために行動を起こさないと、豊かな風景はできあがらないと思うんです。

みんなが自立した姿を見るとうれしいんです。兵庫県のいえしま地域に住む地元のおかあさんたちと一緒にNPO法人を立ち上げたんです。いまでは、自分たちで助成金とかとってきて活発に活動してますよ。そうなってくるとうれしいですね。

将来的には、どこか小さな町の町長をやってみたいなぁ、と思っています。そこで、お金をかけずに楽しく豊かに暮らすライフスタイルをつくりあげたいんです。そのために必要な制度的枠組みを発明したい。発明するだけじゃなくて、すぐに実行してみたい。日本中の小さな村や町が独自にすごく楽しそうな暮らし方を実行し始めたら、大阪や東京でちょっと無理して暮らしている人や漠然とした不安に苛まれながら働いている人たちも、ガマンせずに地方へ飛び出せるようになるんじゃないかな」。

公開日:2009年01月23日(金)
取材・文:狩野哲也事務所 狩野 哲也氏
取材班:株式会社ランデザイン 浪本 浩一氏