「漫画の名産地・大阪」からパリへ。漫画家・筑濱氏の挑戦
クリエイティブサロン Vol.51 筑濱健一氏

毎回、個性あるクリエイターを招き、その活動内容やクリエイティブに関する想いをお聞きする「クリエイティブサロン」。第51回目となる今回は奥様の和子さんとともに「筑濱カズコ」というユニットを組み、漫画家として活動する筑濱健一氏をゲストにお招きした。氏は漫画家の他、漫画を使った販促ツールの制作や天神橋筋商店街のPR漫画やイベントプロデュースを手がけるなど多彩な顔を持つ。また、来年1月にはクラウドファンディングで集めた資金を使って、パリで漫画の個展を開催する予定だという。サロン前、おもむろにホワイトボードにバカボンのパパの絵を描き始めた筑濱氏。会場は一気に和やかになりリラックスした雰囲気の中、サロンはスタートした。

筑濱健一氏

大阪は漫画界にエポックメイキングな多数の漫画家を輩出。

手塚治虫、さいとう・たかを、いしいひさいち、サトウサンペイ、辰巳ヨシヒロ、里中満智子、池田理代子、どおくまん、ゆでたまご、新谷かおるetc……。この方たちは、すべて大阪に縁の深い漫画家だ。たとえば、手塚治虫は大阪府立北野中学校(現・北野高校)から大阪帝国大学附属医学専門部に進学し、天満周辺を創作活動の合間に往来していたという。「意外かもしれませんが、大阪は『漫画の名産地』であり、エポックメイキングな漫画家を数多く輩出してきました。そして今後も新しい漫画家が輩出される土壌があると思います」

大正・昭和初期はストーリー性のある4コマ漫画が主流に。

次に筑濱氏の話は4コマ漫画の歴史へと移った。日本の漫画の歴史は平安時代に遡る。鳥獣戯画という絵巻物は、“日本最古の漫画”と考えられ、擬人化されたカエルや猿を主人公に世相を風刺した。そして江戸時代になると人物、風俗、動植物、妖怪変化を漫然と描いた北斎漫画が評判になり、フランスの印象派の画家たちに影響を与えた。明治・大正時代になると欧米の影響でコマ割り漫画が流行し、新聞各紙でコマ漫画の連載が始まる。その中で特に1923年にスタートした『正チャンの冒険』(文・織田小星、絵・椛島勝一)と『のんきな父さん』(麻生豊)が大ヒット作となった。
筑濱氏は4コマ漫画は本来、基本的に起承転結で成り立っていたという。たが、プロの漫画家は4コマ目のオチを考える時に、“5コマ目”を想定してストーリーを立てていく。「5コマ目とは読者のリアクションのことです。読み手にどのように感じてほしいのかを想定してから漫画のストーリーを考えていきます。たとえば、昭和11年の横山隆一さんの4コマ漫画“フクちゃん”のアンパン競争の巻では
1.<起>フクちゃんが運動会でアンパン競争を見ている。
2.<承>自分も真似をするために、木にアンパンをぶらさげる。
3.<転>フクちゃん。ぶらさげたアンパンに向かって走る。
4.<結>まんまと野良犬にアンパンを横取りされてしまう。
そして漫画家が想定したリアクションの5コマ目は、「もっていかれたなぁ…」と、読者が感想をポツリ……笑っていただこうという作戦なわけです。ちなみにフクちゃんは、江戸っ子です(笑)」

サロン風景

時代の流れとともに起承転結のない漫画が台頭。

戦後に入り、4コマ漫画は大きな変革を遂げる。手塚治虫のデビュー作『マアちゃんの日記帳』(1946年~)では、アニメのようなコミカルな動きを4コマの中で見事に表現。4コマ漫画の大家といわれる長谷川町子が描いた『サザエさん』(1946年~)では読者を飽きさせないようにコマの構成に細かな仕掛けが盛り込まれた。また、『フジ三太郎』(サトウサンペイ:1965年~)は、サラリーマンがモーレツに働いていた高度成長期を背景に、庶民の共感を得る軽妙洒脱な風刺で人気を集める。1970年代後半に入ると時代のニーズが重厚長大から軽薄短小に変わり、いしいひさいちによって4コマ漫画がカジュアル化され、オチは誰もが共感できる“あるあるネタ”がもてはやされるようになった。
そしてバブル時代。漫画は強烈な個性がないと売れない時代に入り、『伝染るんです。』(吉田戦車:1989年~)を代表とする不条理漫画が流行。起承転結といったストーリーは全くなく、会話の内容も意味不明。読者は5コマ目で一様に「シュールでよく分からない(笑)」という感想を持ったことだろう。バブル崩壊後の『あずまんが大王』(あずまきよひこ:1999年~)では内容の面白さではなくキャラ立ちすることに重きを置くという現象が起きる。さらに現在では誰もが投稿できるネット漫画が主流になり、起承転結を無視した4コマにとらわれない2コマ漫画や1コマ漫画も登場しているのだ。

『SHI RI TO RI』表紙
文化庁メディア芸術祭マンガ部門奨励賞受賞作品を元に書籍化した『SHI RI TO RI』

現在の漫画家は起承転結のある4コマ漫画から、あるあるキャラクター重視の時代へ。

このように4コマ漫画は時代とともに変化し、表現も、漫画家の考え方も変わってきた。若い漫画家志望者の多くは漫画家になること自体が目的になっているのか、人気の画風に走り、同じような作品が増えているという。「昔の漫画家は売れるために作品を描いていたわけではありません。たとえばスーパーマンの作者は、本当にスーパーマンになりたかったんだと思います。作者が楽しく描いていないとキャラクターが生きてこないんですね。自分の描きたいことや画風があるのに、このタッチが受けているから、賞に入選しやすいからと安易に流行を追いかけてしまうと、逆に無理が出て賞に入選しにくくなってしまいます。売れる漫画をつくるには小手先のテクニックではダメ。まずは信念を持ち自分の描きたい画風を描き続けること。そして個性を磨くことが大事です。プロの漫画家はシンプルに絵を描くことが好きで、性格は良い意味で天然ですよね(笑)。存在自体がユニークな人ばかりかもしれません」。

クラウドファンディングが成功し、新春にパリで個展を開催。

来年1月13日~24日、筑濱氏は“COUNTDOWN”のクラウドファンディングサービスで集めた資金を使ってパリで『漫画展』を開催する。個展のテーマは漫画まつり。日本のおとぎ話や歌舞伎、相撲、食べ物、お土産、しりとりなどをテーマにした筑濱氏のオリジナル漫画作品を展示する。「この個展を通じて日本とフランスの交流の架け橋となり、世界に笑顔の輪が広がっていくことを願っています」。

サロン風景

個展の展示会場はパリ10区のギャラリー『エスパス・ジャポン』。このギャラリーに自身の著書である漫画『シ・リ・ト・リ』を送ったことが個展開催の決め手となった。元々、パリ10区周辺は漫画マニアが集まる地区で、エスパス・ジャポンでも手塚治虫や松本零治展が開催されていたことから日本の漫画に理解があったという。そして資金的な課題はクラウドファンディングでクリアしようと決心した。クラウドファンディングとはWEB上で多くの方から資金が集める方法だが、実はリアルな人脈が資金集めを左右するといっても過言ではない。筑濱氏は知り合い全員にメールを送ったり、普段は出席しない場所に参加してプレゼンも行った。また、ラジオやテレビに出演してオリジナルの顔出し看板を使ってPRしたそうだ。「イベント運営の仕事ではハプニングやアクシデントは付き物です。ピンチの状態を楽しむことに慣れているせいか、資金集めは最後まで大変でしたが全く苦になりませんでした。お蔭様で108名の方々に、ご支援いただき目標額を達成しました。この恩に報いるためにも、必ずパリの個展を成功させたいと思っています。また折角、パリで個展を開催するのですから、何か“ハプニング”を起こしてネタを持ち帰りたいと思います。北斎などの浮世絵がフランスの印象派の画家たちに影響を与えたように、私の漫画もフランスの文化に新風を吹き込めたらいいですね」。

「エスパス・ジャポン」ギャラリー

※文中の漫画家の氏名は敬称略

イベント概要

大阪とパリを“漫画”でつなげる!!~漫画コミュニケーションの国際性~
クリエイティブサロン Vol.51 筑濱健一氏

大阪は手塚治虫、さいとうたかお、いしいひさいちをはじめ、エポックメイキングな漫画家を多く送りだしている「漫画家の名産地」であるのをご存知でしょうか?
来年1月にクラウドファンディングで集めた資金をつかって、「パリで漫画展」を開催する漫画家の筑濱健一が、大阪の漫画の歴史と、これからの世界市場での漫画メディアの可能性を話します。
また「仕事で役に立つ4コマ漫画の描き方」もレクチャーします。

漫画の話をいっぱいしましょう!

開催日:2014年7月30日(水)

筑濱健一氏(ちくはま けんいち)

大阪の天満在中の漫画家。筑濱カズコは妻和子とのユニット名。企画構成担当が筑濱健一、漫画の仕事の他に、遊園地や商店街などのエンターテイメントイベントの企画・構成も数多く行っている。関西大学卒。イベント業務管理士1級。二人で描いた自主制作漫画「シ・リ・ト・リ」が、文化庁メディア芸術祭で、マンガ部門奨励賞を受賞。エンターブレインから単行本が出版されている。2015年1月にはパリ10区で漫画展を開催する。

筑濱健一氏

公開:
取材・文:大橋一心氏(一心事務所)

*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。