偶然が重なって行き着いた放送作家という生き方
クリエイティブサロン Vol.308 東京コウ塀氏
大阪を拠点に放送作家として25年。数々のテレビ番組を手がけるかたわら、イベントのプロデュースや動画制作といった領域にも活躍の場を広げる東京コウ塀さん。高校卒業後にオール阪神さんに弟子入りし、芸の世界でも一定の成功を収めた人物は、いかにして放送作家の道を歩むことになったのか。クリエイターに示唆を与える3つのポイントを軸に、偶然の連続を生きてきたその人生を語ってもらった。

“お前、おもろいやん”がすべての始まり
「かんさい情報ネットten.」「大阪ほんわかテレビ」「おしりたんてい」――名の知れたテレビ番組に放送作家、脚本家として関わってきた東京コウ塀さん。そのほかにも「マリア先生の復讐カウンセリング」「新人看護師は院長の孫娘?」といった縦型ドラマ、日本相撲協会主催の「腹タッチ会」の総合プロデュースにも携わるなど、その手腕は多岐にわたり発揮されている。
そんな東京さんが、仕事をするうえで貫いているのは「やると決めたらトコトンやる」「人脈を大事にする」「苦手なことやいやなことをする」の3カ条。自らの行動指針を定めるに至るまでには、さまざまな紆余曲折があった。
東京さんの放送作家としてのルーツは、高校時代に見出せる。「成績は下の下」で大学進学をあきらめかけていたとき、進路指導の先生に相談を持ちかけると、思いがけない言葉を投げかけられたのだ。「お前、おもろいから芸人になればええやん」。これにハッとさせられた東京さん。そこからの行動は早く、縁あって19歳にしてオール阪神さんへの弟子入りがかなった。
2年半ほどかばん持ちを経験し、一線級の芸を間近に見てネタづくりを学んだ東京さんは、22歳のときにお笑いコンビ・ソブリオを結成。当時の心斎橋2丁目劇場を拠点に、トレードマークのアフロヘアーでじわじわと人気を拡大させ、1999年の「ABCお笑い新人グランプリ」では新人賞を受賞するまでになっていた。

芸人として現実を直視した末の“方向転換”
黄色い歓声を浴びる存在になった東京さんだが、月収はわずか3万円ほどと極貧生活を強いられていた。また一方では緻密にネタを練り上げても、天性のセンスを持つ同世代の芸人に追いつけないと感じていたともいう。そんなとき、同じく漫才経験のある博多ヒト志さんが、放送作家として成功しているとの話を聞いた東京さん。コンビを解散し、オール阪神さんの人脈を頼りに博多さんのもとで見習い生活をスタートさせた。25歳の新たなチャレンジだった。
放送作家という職業さえ知らなかった東京さん。「最初の3年間はレギュラーはないと思え」と告げられ、激辛カレーを食べたり、ユニクロの新店オープンの行列に並んだりと、さまざまな「修行」を体験する。一見すると仕事には直接関係がないと思われる難題の数々。しかし、あえていやなことに挑戦することで人に語れることが増え、放送作家には欠かせない人生の糧を得るとともに、視野が広がっていった。
それから1年後、東京さんは大阪のテレビ局から企画のリサーチの仕事を任された。放送作家へとステップアップするうえでは必ず通る道である。なかでも出色だったのは、巨大な氷の彫刻をタダでつくるという、いわば無理筋のオファー。
頭を悩ませていた東京さんだったが、原付で夜道を走っていたところ、車体に「マイナス40度」と書かれた冷凍トラックと並走したことにアンテナが反応し、すぐさまその会社にアタックをかけた。結果的に愛媛の会社だったが、巨大な冷凍庫を持つ兵庫の同業を紹介してもらうことに成功。偶然にもその会社はネガティブな出来事で報道されたばかりで、イメージ回復を狙っていたタイミングだったこともあり、依頼は快諾された。
このあたりから業界における東京さんの評判はうなぎ登りに。「やると決めたらトコトンやる」を実践に移し、27歳の年、ついにテレビ局から放送作家としての仕事を得ることになった。

放送作家集団・自由本舗から独立した博多さん率いる有限会社仕事場に籍を置く。
レギュラー7本を抱える売れっ子の煩悶
東京さんがブレイクを迎えたのは、それから約3年後。「かんさい情報ネットten.」「大阪ほんわかテレビ」「あさパラ!」をはじめ、7本ものテレビ番組に関わるようになり、自らも確かな手応えを感じたという。月収3万円の時代とは比べものにならない生活が送れるようになった。
ただ、売れっ子にも複雑な思いはあった。「放送作家の仕事は形に残らない」というものだ。台本は書くものの放送が終わればそれらは破棄されてしまう。このころの東京さんは過去の実績を問われても「僕の作品ってないんです」と返すばかりだったという。
そこで着目したのが、ドラマの脚本家という活路だった。大御所も出演するドラマとなれば、脚本はきちんと製本される。番組のエンドロールでは自らの名前も出る。思い立てばすぐに行動に移す東京さんは、「ごくせん」「1リットルの涙」などで知られる在京の脚本家・江頭美智留さんのワークショップに私費を投じて通い詰めた。
江頭さんのもとで脚本の土台であるプロットから学び、同じく脚本家を志望する多くの人と交流を持った東京さん。同時期に在阪局の東京支社でドラマを手がけるプロデューサーとも知り合った。大阪と東京の2拠点生活を開始し、41歳で篠原涼子さん主演の「愛を乞うひと」の企画とプロットを担当するまでになった。しかし、頼みの綱だったプロデューサーが人事異動で帰阪することに。「東京の街で途方に暮れた」とは、東京さんの偽らざる思いだった。
ところが、ここで人脈を大切にしていたがゆえの出会いが訪れる。知り合いの知り合いという遠いつながりで、業界では有名なアニメ脚本家を紹介され、それまでに経験のない世界に飛び込んだのだ。脚本づくりの基礎から学んだ東京さんは、なんと人気アニメ「おしりたんてい」の脚本を手がけるように。44歳にして放送作家だけでなく、アニメ脚本家としての仕事も軸をなすようになった。
放送作家にとどまらない未来を描く
活動の幅を広げた東京さんのもとには、新たに縦型ドラマの脚本執筆やイベントプロデュースの依頼も届くようになった。日本相撲協会が主催する「腹タッチ会2025 福岡」では、MCに好角家の谷原章介さんを招くことに成功。持病の尿管結石を押して、相撲ファンと力士をつなぐ役目を果たしてみせた。ここでも「やると決めたらトコトンやる」が貫かれた形だ。
もはや放送作家にとどまらない活躍を見せる東京さん。その背後には常に背中を押してくれる人たちの存在があった。おもしろがってくれる人々がいた。彼ら、彼女ら抜きにいまの東京コウ塀を語ることはできないだろう。東京さん自ら「よく分からない人生」「偶然、ここにいる」と話すように、巡り合わせこそが現在の彼を形づくっているのだ。
この先、東京さんがどのような活動を展開していくか、楽しみは尽きない――会場はそんな雰囲気に満たされていた。時にシニカルに、自嘲的に自身のこれまでとこれからを語る気鋭の放送作家が歩む道には、まだまだ多くの偶然が待っていることだろう。

イベント概要
テレビ番組を創る! 放送作家が考えていること!~クリエイターに大事な3つのこと~
クリエイティブサロン Vol.308 東京コウ塀氏
高校の進路指導で担任に「お前面白いから吉本に行ったら?」と勧められて、何となく漫才の世界に。漫才師として活動後、放送作家に転身して……アニメの脚本を書くことになって……縦型ショートドラマの脚本を書くことになって……気が付いたら「腹タッチ会」の総合プロデューサーをしていました。さまざまな人との偶然の出会いが重なって今の自分があります。もし生まれ変わっても、二度とこんな人生にならないはず……。そんな僕の人生と、25年間の放送作家人生で気づいた“クリエイターにとって大事な3つのこと”など、放送作家が頭の中で考えていることをお話しします。放送作家という職業に興味がある方! 興味はないけど、たまたま時間が空いている方! クリエイターに限らず、さまざまな企業や団体の方も、よかったら話を聞きに来て下さい。
開催日:
東京コウ塀氏(とうきょう こうへい)
有限会社仕事場
放送作家 / 脚本家 / プロデューサー
大阪の高校を卒業後、漫才師として活動。25歳の時に放送作家に転身し、関西のさまざまなテレビ番組の企画・構成を担当する。近年はアニメ「おしりたんてい」の脚本や、縦型ショートドラマ「マリア先生の復讐カウンセリング」「新人看護師は院長の孫娘?」の脚本なども手掛けている。去年からテレビ業界で培った経験を活かし、企業や団体、自治体のPRイベントにも力を注いでおり、先日、日本相撲協会主催の「腹タッチ会2025」の総合プロデューサーを務めた。

公開:
取材・文:関根デッカオ氏
*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。