逆境を力に、未来を切り拓く。そして中小企業診断士へ。
クリエイティブサロン Vol.307 飛松由紀子氏

「おまえは吉本に行け」といわれた学生時代。高校時代は受験勉強から逃れるために、デザイナーの道を選んだ。やがて海を渡るも、挫折して帰国。32歳で「私は社会不適合者です」と名乗りつつ、デザイナーとして独立を果たす。その後の人生は穏やかではなく、結婚、離婚、借金——。荒波にのまれながらも、転ぶたびに何かをつかみ取り、必ず起き上がってきた。そしてついに、難関で知られる中小企業診断士の試験をストレートで突破する。「すべての経験は、次の一歩のためにある」。そんな飛松さんが、迷走の果てに見つけた答えとは……。

飛松由紀子氏

人との違いに気づき、自分で選ぶと決めた。

満席の会場で、飛松さんは「私は低空飛行で続けてきたタイプです」と語り出した。自虐めいて聞こえるその言葉は、どこか誇らしげ。長い助走の果てにたどり着いた中小企業診断士という現在地が、ひとつの答えなのだろうか。

小学生の頃、自分の思いとは裏腹に、授業で描いた絵が評価されるが嬉しさはなく、自分と他者との評価の違いに戸惑ったという。もう一方で、レースやフリルなどの女の子らしい装飾には興味がなく、むしろ拒否反応すらあった。やがて出会ったのが、無印良品の世界観。そこに感じたのは、装飾のない美。それは、彼女が一貫して追い求める感性の核となった。高校では、美術の授業を週5コマ選択。担任教師や両親には大学進学を勧められたが「どうしても大学受験のための受験勉強がしたくなかった」と笑って振り返る。結果、自らの意思で大阪デザイナー専門学校(現:大阪デザイナー・アカデミー)への進学を選択し両親を説得した。

待っていたのは、現実という名の挫折。

専門学校では建築やインテリアの基礎を学び、卒業後は店舗設計事務所へ。図面を引き、現場で鍛えられながら、実践を通してデザインを身につけていった。やがて、大手メーカーの環境デザイン部に移ることとなる。それは今から25年前。当時ではまだめずらしかった3DCGやVRを手がけ、離れた拠点と連携する体制もひと足早く導入。いまならリモートワークと呼ぶ働き方のはじまりだった。この頃、飛松さんは勤務先の大手メーカーで最先端の技術を学びながら、独学でホームページ制作も習得。順風満帆な日々を過ごしていた。しかし、さらなる挑戦としてニュージーランドでの永住権取得をめざし、ワーキングホリデーで渡航。日本で培った経験を武器に現地の会社でWebとタウン誌の制作に関わるが、時給に直せば日本の学生のバイトのほうが高い。「日本で良い給料と待遇で働いていたこともあって、海外での自分の価値の低さという現実に愕然とした」。そう悟った飛松さんは、友人にも恵まれ、毎日が楽しかったニュージーランドでの生活に別れを告げ、一年で帰国を決意した。

楽しかったニュージーランド生活

自分の人生は終わったと思って、人のために生きよう。

帰国した2005年、彼女は迷わず独立の旗を掲げた。「私は会社勤めができない、社会不適合者だと分かっていました」。その自己定義を逃げ道ではなく出発点へと反転させ、屋号を「design×link」と名づける。design と link のあいだに置いた「×」は交差=クロスの印。「デザインで、人と世界が交わる場所をつくる」という宣言だ。やがてこれまでの人脈を土台に、大学や学会の案件が次々と広がっていった。

2009年にはクリエイターの男性と結婚。夫の事業を販促やブランディングで支え、雑貨店まで立ち上げた。ところが商品は良かったが、2人とも経営を知らず、商品価格の設定もわかっていなかった。全国からワークショップの依頼が絶えず、人気は確かにあった。それでも、やればやるほど赤字が積み上がっていく。誰にも相談できず、借入はふくらみ、心はすり減っていった。「苦しい。けれど、死ぬこともできない。ならば自分の人生はここでいったん終わったと思って、これからは人のために生きようと思いました」。このときが、彼女が人生の暗部にもランプを向ける覚悟を決めた瞬間だった。だが、そこまで腹を括ったにもかかわらず、状況は悪化の一途。出口が見えないまま、彼女は離婚を決意する。話し合いを重ねた末、お互いの道を生きていこうと円満に別れ、離婚届は笑顔で提出した。

離婚後は、自分名義の借金を背負い、昼は本業のdesignxlinkを再稼働させ、夜と土日はアパレルのアルバイトの二刀流で再スタートを切った。「アパレルのアルバイトを選んだのは一週間、ほとんど誰とも話さない日が続くこともあり、あえて接客に挑戦しました」。お客様と交わす会話、歳の差も感じないくらい、仲間と楽しく仕事をした。そして古いクライアントの「待っていたよ」。そのひとつひとつが、薄れていた彼女の輪郭を、もう一度くっきりと描き直していった。

はじめて挑戦したアパレルバイト

老後の不安が、未来を変える原動力になった

時はコロナ禍。友人と運動不足解消の散歩をしていた折、友人の「老後が不安」というひと言に驚かされる。「自分の未来を見ていなかったと気づきました」と振り返る。年金記録に並ぶ「将来受給見込み」の数字に背筋が冷えた——「このままでは暮らせない。ならば資格を取ろう」。選んだのは中小企業診断士。学歴要件に縛られず、これまでの創業・販促支援の経験を体系知につなげられる国家資格である。資格の学校TAC 梅田校に駆け込んだ瞬間、壁の高さに息を呑む。想像をはるかに超える難関だということがわかった。それでも「離脱だけはしない」と腹を括り、予習→講義→復習→自習のループで学びを深めていく。最大の壁は財務会計。計算が苦手だった彼女は、小学校の算数からやり直し、納得しない限り先へ進まないと決め、自分の特性に合わせて積み上げていった。

「そこへ父の喉頭がん(ステージⅣ)、声帯摘出という現実が襲いました」。病院や在宅看護の調整を一手に担いながら、心が折れそうになった時は、映画『ビリギャル』を繰り返し観て心を立て直し、学習の軌跡をnoteで「ビリオバ」として記録していった。一次試験の合格率は約2割、二次も2割弱。「受験予備校の講師にも大穴だと思われていましたよ」と笑うが、どちらもストレート合格を果たした。試験に受かるためだけでなく、自分の人生の舵を取り戻す力も得た。

中小企業診断士に1年で合格するまでの学習の軌跡を記録したnote「ビリオバ

目標は「楽しかった」と言って人生を終えること。

2023年に中小企業診断士として登録。designxlink創業当初からある理念は「お客様の成功をサポートする」。この思いには、ベストセラー『夢をかなえるゾウ』との出会いと松下幸之助氏の思想が息づいている。「誰かが一歩踏み出す瞬間をサポートするのが好きなんです」。現在は“デザインのわかるコンサルタント”として、ブランディング設計からマーケティング戦略、販促ツール、展示会・イベント運営までを一貫支援。さらに、自らの経験を振り返りながら、「悩む前に、ひとりで抱え込まず相談してほしい。糸口は必ずあります」と語る。誰かの再起動に伴走できるような、そんな支援もめざしている。

個人としての方針も、シンプルで力強い。この先、結婚はしない。できるだけ人に迷惑をかけずに生きる。そして最後は楽しかったと言って死ぬ。そのために、必要な分だけ稼ぎ、計画的に貯蓄し、健康を大切にしながら、仕事も私生活も楽しむ設計を続けている。そして、飛松さんは静かに付け加える。「自分の人生に、ちゃんと責任を持ちたいんです」

イベント風景

イベント概要

中小企業診断士になったデザイナーの迷走人生
クリエイティブサロン Vol.307 飛松由紀子氏

「おまえは吉本に行け」と言われていた学生時代。勉強嫌いだった私は、逃げるようにデザインの道へ。運よくデザイン事務所に就職するも、「ウルルン滞在記」に憧れて海外へ旅立ちます。夢破れて帰国後は、「社会不適合者」として32歳で独立。幸いにも多くのお客様に支えられ、仕事を続けてきました。結婚と離婚、借金苦を経験したある日、老後の暗さに愕然とします。いつも楽しいほうへと生きてきた50年。そんな私が、なぜデザイナーから中小企業診断士をめざしたのか──これまでの迷走と、これからの展望についてお話しします。

開催日:

飛松由紀子氏(とびまつ ゆきこ)

designxlink
デザイナー / 中小企業診断士

1975年宇治生まれ、寝屋川育ち。クラスに1人はいる、冬でも半袖で走り回る子どもでした。地元の公立高校から大阪デザイナー専門学校インテリアデザイン学科へ進学し、卒業後は店舗設計のデザイン事務所へ就職。その後、大手企業で環境デザインのCG制作などに携わり、海外生活に憧れて渡航。帰国後にグラフィックデザイナーとして独立し、現在に至ります。2023年に中小企業診断士資格を取得。現在は「デザインのわかるコンサルタント」として、企業のプロモーションや新規事業、売上向上の支援に取り組んでいます。

https://designxlink.com/

飛松由紀子氏

公開:
取材・文:小林希実子氏

*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。