安定を捨てフリーランスへ、仲間と出会い世界が広がった
クリエイティブサロン Vol.297 荒井千織氏
297回目を迎えるクリエイティブサロンのゲストは、グラフィックデザイナー・荒井千織さん。
幼少期から小学校時代にかけては、父親が転勤族だったため頻繁に転校していた。6年生のとき4回目の転校で大阪へ戻って来たのを最後に、中学・高校時代を大阪で過ごしたあと大阪デザイナー専門学校(現、大阪デザイナー・アカデミー)グラフィックデザインコースで学ぶ。卒業後はデザインの仕事には就かず1年ほどのフリーターを経て、調理・飲食用資材や衛生用品などのOEMを行う会社にデザイナーとして入社。部署の責任者を務めるまでになったが、故あって退社しフリーランスとして独立。
安定した生活から敢えてフリーランスの道を選んだ理由と、将来なりたい自分について語る。

4度の転校を経験し高校卒業後はデザイン専門学校へ
母親が郷里の東大阪市で里帰り出産をしたため、生まれは東大阪だが、自宅は神奈川県横浜市だったという荒井さん。2歳半まで過ごしたのち、東京都町田市へ移って小学校の1学期までを過ごす。体育と本と漫画が好きで、とくに国語の教科書は内容を暗記するくらいまで読み込んだという。
小学校時代は1年生、4年生、5年生、6年生で、4度の転校を経験。入学時の東京都町田市から始まって、埼玉県越谷市、愛媛県松山市、愛知県名古屋市を転々とし6年生のとき東大阪市へ戻って来た。おかげで、転校先での友達づくりは上手くなったそうだ。
進路は、いつの頃からか漠然と「デザイナーの仕事をする」と決めていた。高校を卒業すると大阪デザイナー専門学校(現、大阪デザイナー・アカデミー)グラフィックデザインコースに進み、2年間デザインを学ぶ。卒業後はデザイナーとしての第一歩を踏み出すはずだったが、実際は「フリーターになったんですよ」という荒井さん。
コンタクトレンズの検査員やパン屋など、1年ほど様々なアルバイトを経験した。そんな荒井さんを変えたのが、求人誌に掲載されていた広告だった。
「その会社は『みんな違う制服で働いてます』っていうようなコピーで、すごく興味を惹かれたんです」
しかも、募集していた職種はデザイナー。荒井さんはすぐ応募を決めた。
デザインした製品にフィードバックがないことがしんどい
入社したのは、調理・飲食用資材や衛生用品などをOEM生産する会社だった。
配属されたのは、50代半ばの部長がひとりで切り盛りするデザイン部。仕事を手取り足取り教えてくれるわけではなかったが、荒井さんにミッションが与えられた。
「私が入社する前に、約100人いる社員から紙コップのデザインを募集し、50以上の応募が集まっていました。すべて手描きや文章だったので、それをデータ化する作業でした」
いま考えると、紙面から情報を読み取ってパソコンの操作を覚えられるように、実際の作業をやりながら習得させるためだったのではないかと、荒井さんは振り返る。
また、あるときは、ひたすら箱をつくる作業を指示された。
「その箱を使って、部長がデザインを考えるんです」
その作業からは、手に取れる形で提案するほうが、相手へイメージが伝わりやすいことを学んだという。
数年が過ぎ、部長が突然「漫画家になる!」と宣言して退職した。そのあと部長より年長の社員が入ってきたが、荒井さんのほうが社歴は長い。必然的に荒井さんがデザイン部の責任者として、社内の他部署との折衝をする場面が多くなった。
「そうなると、今まで見えてなかったことが見えるようになってきました。前から感じていたけど、この会社にはフィードバックがないんです」
製品に対する評価が伝わってこず、つくりっぱなしになっている状態がしんどかったという。

母の死を迎えて安定には保証がないことを悟り独立を決意
2019年、母親に胆管癌がみつかった。その翌年にはコロナ禍の影響で、デザイン部がリモート勤務になった。相変わらず、製品に対するフィードバックがない。効果が分からない仕事に、違和感が募っていたが、会社を辞める選択肢はなかった。
「安定を取るか、自分が求めるものを取るかといったら、迷わず安定を取っていました」
そんな悩みを抱える中、母親の病態が急激に悪化していく。
「すごく元気だった母がそんな状態になったり父の健康も心配だったりして、日ごろは大丈夫だと思っていたことに何ひとつ保証はない。だったら後悔しないよう、自分でやってみようと思いました」
母親が勤めていた会社の社長と、仲の良かった元同僚が2人で見舞いに訪れたことがある。母親は荒井さんの仕事や独立を考え始めていることなどを、その2人に話してくれた。
「それがきっかけで、お仕事をさせていただくことになりました」
2人が帰った後、荒井さんが母親のベッドの傍らで「ありがとうね」とお礼をいうと、母親から「すこしは役に立ったかな」という言葉が返ってきた。母親が30年間積み上げた信用を、荒井さんが代わりに受け取ったのではないかと思っているそうだ。
母親を見送った年の年末に、荒井さんは独立。だが、すぐ壁にぶち当たる。
「営業の仕方が分からないのです。営業職だった父に訊いても、しっくりくる答えが得られないし」
一緒に仕事をする仲間、相談したりヘルプを頼んだりする相手がいない。とにかく仲間が欲しくて、大阪デザイン振興プラザ(ODP)の「独立クリエイターのプロデュース力アップ塾」に参加してみたところ少人数制ミーティング「ODPAL(オデパル)」に誘われ、そこでメビックを紹介された。
「そしたら世界が変わって、本当にあんなに悩んでた状況が一変しました」

メビックの活動に参加するようになってからは交流範囲が広がり、相談やお願いできる人が増え、ジャンルの異なる人の話を聞く機会も得た。
現在は、企業に対し、自社で使用している広告やチラシなど販促ツールの情報を使いながら、見るポイントやキャッチコピーを刷新するなど発信するメッセージを最適化するサービスの提案をしている。
業務のメインは企業相手だが、将来的にはもっと広い範囲で悩みや困りごとの解決に役立ちたいという荒井さん。そのモデルケースとして感銘を受けたのが、広島県庄原市東城町にある「ウィー東城店」という書店だ。深刻な赤字経営が続いていたが、年月をかけて地域との信頼を築き、顧客のニーズを捉えてCDや化粧品なども扱うようにした結果、黒字経営に転換したという。ときには家電製品の修理を頼まれるほど「なんとかしてくれるお店」として認知されているそうだ。
「解決してくれるだろうと思うところへ相談しますよね。そんな場はどうしたらつくれるのかを考えたときに、私が好きな本を組み合わせたら最高だと思ったんです」
そうして見つけた形が「まちライブラリー」だという。本棚を玄関先に置くだけでもいい。本を介して人が集まり、交流が生まれる場がまちライブラリーの魅力だ。
さらに荒井さんには、夢によく出てくる理想のオフィスがあるという。イメージが鮮烈すぎて、パースに起こしてもらったそうだ。

「書店をやるのは現実的に難しい。でも、本があって人が集まる場は、まちライブラリーしかない。そこが私のオフィスだったら最高じゃないですか」
独立した直後は右も左も分からなかったが、環境や周りの人間で状況が変わることを体感し、相談できる人がいるだけでメンタルも落ち着いたという。
メビックを訪れたことは、荒井さんにとって大きな一歩だった。その一歩をなかなか踏み出せない人もいるかもしれない。荒井さんは踏み出して仲間をつくったからこそ、将来の夢を具体的にイメージするようになったし、その夢を語れる相手もたくさんできた。
まちライブラリーを併設した荒井さんのオフィスが、いつか本当に実現するかもしれない。「まずは物件探しから」と明るく語る荒井さんだった。

イベント概要
安定志向の私がインハウスデザイナーをやめてフリーランスになったワケ
クリエイティブサロン Vol.297 荒井千織氏
デザイン専門学校を卒業後、企業のインハウスデザイナーとして20年間勤務しました。ど素人の新人デザイナーだった私も、気付けば部署長となり、社内でも社歴の長い1人に数えられる存在になりました。しかし、変化を好まなかったはずの私が、周囲を驚かせるほどのスピードであっさりと独立を決断。安定志向だった人生をひっくり返したきっかけは何だったのか。独立してから変わった考え方や周りの環境、プライベートを含めたこれまでと現在。そしてはっきりと描いている未来について、お話ししたいと思います。
開催日:
荒井千織氏(あらい ちおり)
nico.design 代表
グラフィックデザイナー
デザイン専門学校を卒業後、企業のデザイン企画室でグラフィックデザイナーとして活躍。ロゴや商品パッケージ、販促チラシ、展示会用広告物など、幅広いデザイン業務を手掛ける。独立後は、「デザインは作って終わりではなく、活用してこそ価値が生まれる」という信念のもと、クライアントとの対話を大切にし、商品の魅力を最大限に引き出すデザインを提供。現在は、ゼロからのデザイン制作だけでなく、企業の社内デザイン力向上をめざしたスキルシェアをチームで提供しており、中でも既存の販促物をより効果的にアップデートする活動を支援している。

公開:
取材・文:平藤清刀氏(創稿舎)
*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。