手でさわれるデザインの中に、次世代を生き残るヒントがある
クリエイティブサロン Vol.282 藤脇慎吾氏
今回の登壇者は、1980年代からデザイナーとして活躍し続ける有限会社フジワキデザインの代表でありアートディレクターの藤脇慎吾氏。デザイナーになるまでの話をはじめ、まだインターネットやメールのない時代に、個人事務所がユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)オープニングや兵庫県立美術館の仕事を獲得したストーリーなどについて語った。
あきらめてデザイナーへ、芸大受験
両親がともにグラフィックデザイナーの家庭で育った藤脇氏。父親の代表作が「どん兵衛」のパッケージデザインだったことから、同級生からは「毎日どん兵衛食べてるんか」とからかわれたりしていた。また、父親からはデザイナーの親にありがちな「絶対にグラフィックデザイナーになってはいけない」と言われていたそう。そんな親の顔色を見た藤脇少年は、受験ブームに乗るかのごとく、ガリ勉少年として勉強に邁進し、高校進学では大阪府内有数の進学校に入学した。
高校に進学して、ふとしたきっかけから美術部に入部すると、顧問の先生は後にスタジオジブリの映画『耳をすませば』などの背景画を担当することになる人で、とてもユニークな先生だった。
「高校の美術部で初めて『先生』と呼ばれる人に褒められたんです。それまでの小学校や中学校では、先生から問題児扱いされていたから、褒められたことが嬉しくて。だから高校時代は、作品のパネル作りを手伝ったりしてずっと美術室にいました」
そんな高校時代の中で「自分がやりたいことはやはりデザインだ」と考えた藤脇氏は、芸術大学への進学をめざすことに。母親に「勉強でトップになる頭はないけど、デザインならなんとかやれるかも。だから芸大に進みたい」と告げると「お父さんが知ったら、あんたシバかれるよ」という答えが返ってきたそう。
「母親が『お父さんには言うな』と言うので、父親には合格するまで芸大受験のことは教えませんでした。京都市芸に合格したときに電話で伝えたら、しばし無言のあと電話を切られて……。その後、何回電話しても話し中で『ヤバい! ホンマにシバかれるかも!』と焦っていたら、実際には仕事場の同僚に息子の芸大合格を自慢する電話をしまくっていたらしい(笑)」
技術よりも感性が主役となったMacの登場
芸大を卒業した藤脇氏は、企業や商品のブランディングの戦略策定やロゴやツール制作などをトータルに提供したりサポートしたりする企業に就職。社会人としてクリエイター人生を歩みはじめた1980〜1990年代は、企業がロゴマークのリニューアルなどに取り組む「CI」全盛の時代。藤脇氏自身も約9年在籍する中で、さまざまな大手企業などのロゴマークデザインなどに携わった。
「当時憧れていたアメリカのデザインオフィスから送られてくる国際宅配便の中身は、荒削りなシンボルマークの清刷りだったりしてね。デザイン原稿のトンボがボールペンでひかれていたりして、日本とは随分違う版下だったんですよ。でもそこから発せられるオーラがスゴくて、すぐにその虜になりました。あのアメリカからのロゴやデザイン原稿を手にしたことが、技術や精度よりも感性が大事なのだ、と気づかせてくれたんですよね」
そしてこの9年間の中でデザイン業界に大変革が訪れた。それがMacintoshの登場だ。
「Macの登場で、それまでデザイナーに必須だった『手の器用さ』や『ロットリングでまっすぐな線を引ける技術』が無用になりました。その上、海外からはインターネットの素になるソフトや、データ通信を行えるソフトが送られてきたりして。Macの画面の向こう側の世界に、強烈にドキドキするものが見えたんです」
思いをカタチにする原動力は「人のつながりと行動力」
今回は代表的な実績にまつわるストーリーが披露された。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)のオープニングは、石川県小松市にあった業界では有名なデジタルスタジオで出会った人たちの繋がりが大きい。白山を望むそのスタジオには世界中のデジタルクリエイターが集っていた。そのうちの1人が藤脇氏に興味を持ってくれたのがきっかけだという。
「大阪にあるATCのデザイン拠点(現:ODP)にあった事務所を訪れてくれたんです。『ここガラガラじゃない、いいねー』と言ってくれて。次に現れた時は、大柄な外国人を大勢引き連れて来て、『ここにUSJ準備室を作るから』と言いはじめたんです」
そこから話はどんどん進んでいき、約350アイテムのオープニングアイテムのアートディレクションを担当することになった。
丸福珈琲店の新店CIでは、初回の打ち合わせで先代女将から「あんたみたいな髪の毛の長い男が無駄遣いすんねん」ときつい一撃をもらった藤脇氏。それでもプレゼンでは、道頓堀本店を触らないことと、オリジナルのロゴにリスペクトを持たせた案を提出し、なんとかOKをもらえたという。
「このCIを使った丸福珈琲店がドンドン売上を伸ばして、コンビニスイーツを出すなど、快進撃が続いたんです。しばらくして女将さんに会った時に『センセ』と呼んでくれたんです。あの瞬間、ホッとしたのを覚えています」
藤脇氏自身もファンだという安藤忠雄氏が設計した兵庫県立美術館では、ロゴマークを選定するコンペに参加した。参加のきっかけは、丁稚時代の藤脇氏をよく知る人が初代館長となることが決まり、藤脇氏が無類のアート好きだということを知っていたことが大きいという。
「その初代館長になる人が『おまえが最年少だ、思い切りやれ』と言ってくださったんです。それから数多くの安藤建築を巡り、美術館の建築現場にも毎週足を運んでアイデアを練りました。コンペまでの9カ月で100案作りました」
ほかにも、さまざまな実績のストーリーの中で自身のコンペ必勝法やすべての仕事で貫き続けている「マイルール」などが披露された。
「意味がわからないこと」は、AIにはできない
最後の質疑応答では、オーディエンスから多くの質問が寄せられた。
「Macの存在が大きく絵が描けない人もデザイナーになれる時代だが、デザインの仕事で生き残れるか」という質問に対し、藤脇氏は「文章も写真もデザインもいずれAIに取って代わられるでしょう」とシビアな答え。だがこの答えには続きがあった。
「AIに取って代わられないためにはどうするか。あなたのグラフィックに『意味がわからないこと』をプラスするのはどうか。例えば、Macのソフトでは作らず、手描きやいたずら描きをプラスするとか。全部手描きじゃなくて一部分だけでもいい。『意味がわからないこと』はAIには理解できないから。『なんで? それいる?』と思われるような『あなた』をプラスするのはどうか(笑)」
また、今のデジタル全盛の時代に逆行するが、デザインが手で触れる時代には当たり前だった、依頼にはメールではなく電話で返事する、打ち合わせはZoomではなく相手のもとに足を運ぶ、プレゼン資料は郵送ではなく直接持参する……といった行動が必要だと説いた。さらには質疑応答を通じて、自身の視点から見える東京と大阪のクリエイターの違いなど、約40年のクリエイター生活での経験や気づきを語った。
自身がコロナ後の新しい時代に対応しきれていないのでは?という思いと同時に、還暦を迎えて自身の世界が狭まりつつあると感じたからこそ、メビックからの講演依頼を快諾したと語る藤脇氏。この日は「今日は30名の新しい友達をつくりに来た」と語っていた通り、イベントの最後ではオーディエンスとの距離が縮まり、会場の一体感を感じた。
イベント概要
デザインを手でさわれる時代からのラストメッセージ
クリエイティブサロン Vol.282 藤脇慎吾氏
昔の話はするなと言われる。私がデザイナーになった1980年代は、関西に本社があり個性的で活気のある大企業がまだまだたくさんあった。巷はCIブームでPAOSやランドー、日本デザインセンターのデザインを手でさわれるそんな時代だった。インターネットやメールのない時代、個人事務所がユニバーサル・スタジオ・ジャパンオープニングや兵庫県立美術館をカタチにしたストーリー。なぜ、どうやって、どのように、どうなったかをリアルにお話ししようと思う。それから40年、激変した社会で生きる今のクリエイターたちがどう感じるのか聞いてみたい。私はそのリアクションを胸にこれからのデザインの方向性を決めたいと思う。これで昔の話は最後にする。
開催日:
藤脇慎吾氏(ふじわき しんご)
有限会社フジワキデザイン
アートディレクター
両親ともにグラフィックデザイナー、父親の代表作は「どん兵衛 きつねうどん」という家に生まれる。京都市立芸術大学ビジュアルデザイン卒業。1986年フジワキデザイン設立開業。兵庫県立美術館シンボルマーク(安藤忠雄選)、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンオープニングビジュアル、六本木ヒルズ TOKYO CITY VIEW オープニングビジュアルを担当。近年は母校京都芸大で非常勤講師としてZ世代にもまれている。また、同校の先輩、遠藤秀平氏が関わるパリ・セーヌ川に沈んだコルビュジエ設計の船浮上プロジェクトのビジュアルを担当している。
公開:
取材・文:中直照氏(株式会社ショートカプチーノ)
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