美術の世界から写真の道へ。やっとつかんだ確かな未来とは
クリエイティブサロン Vol.279 小西久実氏
今回の登壇者はフォトグラファー14年目の小西久実氏。絵の実力がありながら一時は美術の世界を離れるが、広告や撮影のスキルを得て独自の作品を生み出す。ときに迷いながら様々な道を歩き、自分らしい世界観、仕事観にたどり着くまでの道のりを語ってくれた。
美大受験で学んだ、対象の美しさを見出す力
幼少期から創作することが好きで、絵を描くことと、詩を作ることが心の拠り所だった。作品づくりは13歳から。本で絵の練習をし、アトリエにも通った。「絵本の優しい世界で寂しくてつらい感情が和らいだので、絵を描いて優しい気持ちを届けようと思いました」。高校生の頃には小説を書く楽しみを覚え、自分と似た境遇の主人公を想像することで、周りがドラマチックに見えたり、自分を客観視できたりするようになった。
「美術の道に進みたい」と高校2年から美術系大学の予備校に通い始め、1人の恩師と出会う。東京芸術大学油画科出身の講師で、「デッサンとは、見る眼を、感じる力を鍛え、手を通じて表現すること」だと教わり、基盤となる。心を静め、描く対象と一体になると、様々な感覚を受け取り、美しさを見出すことができると体感し、この感覚をのちの作品づくりや、撮影で瞬間を捉えるときも使っていく。
絵の練習にのめり込み、めきめき上達する。高校3年の春、予備校全体のコンクールで1位を獲得。夏には、関東の校舎を含めた3校の合同コンクールで自画像・手・静物のデッサンの3部門でトップ。手のデッサンでは審査員である講師全員から満点の評価を得た。先生からの勧めで、東京芸大1本に絞ることに。一次試験は合格したが、二次試験で落ち、浪人する。
「合格するには、自分の強みである“細かい描写力・美しさを見出すこと・繊細な色彩”で勝負しなさい、と先生からアドバイスがありましたが、当時の私は“内面世界・感情的・激しい色彩”で表現したかったんです。合格を目標にスタイルを確立することより、自分がしたい表現をすることが大事でした。結局どっちつかずの状態になり、2年目も不合格でした」
この経験から、自分にとっての目的は何かを明確にし、戦略を立てることの大切さを学ぶ。先生のアドバイスが、ビジネスで不可欠な、自分の強みを生かすブランディングだとわかるのは、かなり後になってからのことだった。
“幸福の源”に気づき、再び美術の世界へ
関西の芸術系大学に合格したが、東京でアートを学びたいと美術専門学校を選ぶ。しかし、学校には欲しい刺激はなかった。「自分がどうあるか自分で決めたい、強くなりたいと思いました。19歳の私にとって、“強い”イメージは海外バックパッカーでした(笑)」。まず夏に1カ月、北陸、北海道を旅し、翌年、3カ月かけてイギリス、スイス、フランスを旅する。美術教育を受けていない人のアウトサイダーアートに出逢い、「魂の熱が伝わる芸術に心奪われました」。自分で決めて実行できたことで大きな達成感を覚えた。
帰国後、広い世界で学びたいことを自分で選び学んでいこうと思い、専門学校を退学しフリーター生活へ。「英語が話せたらもっと交流できた」と、語学留学資金300万円を目標にアルバイトに励む。「毎日がつまらなくなってきて、美術の表現が私の“幸福の源”と気づきました」。貯めた300万円で美術の世界に戻ることに決め、村上隆氏主催のイベント「GEISAI」に参加する。「心が温かく明るくなるようなアートにしよう」と、絵と写真を組み合わせて作ったオブジェを出展。複数のオファーがあり、ニューヨークでのアートブック展示販売などの機会を得る。
「次は、アートに必要な技術を習得できる仕事をしたい」と思い、大手広告制作会社でアルバイトをする。デザインツールIllustratorや写真編集ソフトPhotoshopを習得し、イラスト制作、DTPデザインなどを行う。生活のためにアルバイトを掛け持ちし多忙だった。ある日、電話で母親から「やりたいことがあるなら大阪に戻っておいで」と言われ、甘えることにする。「戻る前の半年間、シドニーでの語学留学は、まさに人生のひと休み! 自由な空気が合って、学校生活を楽しみました。海沿いの家に住んだり、外国人の友人と小旅行したりなど、やりたいことを全部やって、幸せな記憶が増えて、悲しいことや挫折が押し出されていきました」
フォトグラファー修行と、撮影で大事にしていること
帰国後、「フォトグラファーの仕事で撮影の技術を身につければ、作品づくりに役立つ」と考え、28歳のとき、大阪市内の小さなスタジオに入社。高校の頃、ガールズフォトのHIROMIXが好きで、その影響からカメラを持ち歩き、祖父が遺してくれた一眼レフで作品も制作していた。しかし、カメラの知識はゼロ。基本を一から教えてもらう。撮った写真の接客販売もでき、喜ばれる写真がわかり面白かった。撮影技術や知識をもっと学びたいと思った。「仕事でこんなに楽しいのは初めてでした」。社長から「美味しそうな料理の写真は、美味しそうと思っていると撮れる。プロは、自分が思っていることが写真に出る」と言われ、「撮影は目と心がつながっている。デッサンと同じ」ということに気づく。
その後、婚礼衣装会社に転職。結婚式場の写真室の業務をほぼ一人で回し、撮影のほか、営業、経理、企画、カメラマン手配などあらゆる業務を担った。忙しい毎日が続き、体調を崩したことをきっかけに30歳で退職し独立。3年後には毎月10本以上断る状況になるが、「自分に依頼してくださった方のお役に立ちたい」とクライアントに合い、信頼できるフォトグラファーをコーディネートする業務を始める。
独立後は、ウエディングやファミリーの撮影のほか、企業の広告・Webサイト、取材撮影など幅広い仕事を手がける。数百件経験した結婚式の撮影では、あるままの風景を工夫しドラマチックに撮ることや、その場に流れるいろいろな感情と同調し写すことを大切にし、技術を磨く。また、自然な表情や綺麗なポーズを撮れるように知識と経験を積む。この頃から、父親が経営する会社のクリエイティブを担当。Webサイト用の撮影や似顔絵制作、デザイナーと協働しパンフレットやスタッフ紹介ボード制作を行った。特にショーウインドウのデザインでは絵や写真、オブジェを融合させ、自分らしい表現を生み出すきっかけになる。
限られた時間だから、本当にやりたい仕事をやっていく!
約2年前に出産。子育てしながら仕事をする中で、仕事に使える時間は少なく、限られていることを痛感。そこで、「本当にやりたい仕事に絞る、自分が持っている価値のあるところで勝負する、スケジュールを管理できる仕事をする」と決める。そして昨年、独立10年目にしてようやく屋号を“ユアメロディ”とする。この名前には「たくさんのきらめきをもった、あなたという音楽をのびのび奏でてほしい」という願いを込めている。
本当にやりたい仕事とは、自分を救ってくれた絵本のように、温かい、心の支えになるものを提供すること。そして、愛情、穏やかさ、幸せ、美しさなどを自分らしく表現すること。「“幸福の源”を思い出せたら、つらいことも跳ね飛ばせ、明るい未来を選べるはず。だから、撮られる方が、自分の輝き、愛おしい日々、大切な人を思い出せる写真を撮りたい」。
この考えから、「自分を宝物のように想い、明るい未来を思い描くためのお守りポートレート」が生まれる。花をモチーフにした複数の作品の中から、気持ちに合うものを選んでもらい、それを背景に撮影する。現在準備を進めており、撮影会やオーダーメイド、パパママ向けワークショップでお守りポートレートを広めてゆく。そして、共感してくれるフォトグラファーやアマチュア向けにもワークショップを開催し、「ゆくゆくはユアメロディ・フォトグラファーたちと一緒に、幸福感を感じながら、のびのびと、その方らしく生きるお手伝いをしていきたい!」と、やりたいことがあふれている。
イベント概要
天職を探して七転び八起きの物語
クリエイティブサロン Vol.279 小西久実氏
自分の素質を活かし、人の役に立ち、心地よく生きる。これが私が大切にしたいことです。そしてそれを仕事にできれば、私にとっての「天職」です。とにかく絵を描いた10代。クリエイティブを仕事にするためにもがいた20代。フォトグラファーとして私だからできることは何なのか試行錯誤した30代。そして40代に入り、今の時点での答えが見つかったように思います。天職を探して、転んで起きては壁にぶつかり歩んできた道のりと、これからしていきたいお仕事のお話をしたいと思います。
開催日:
小西久実氏(こにし くみ)
ユアメロディ 代表
フォトグラファー
大阪生まれ。美術を学んだ後、東京を拠点に国内外でアート作品の展示をしながら、広告代理店でDTPデザイン、イラストの仕事をする。その後、半年間語学留学。28歳でフォトグラファーになることを志し、スタジオと婚礼衣装の会社で経験を積み、2013年独立。主にポートレートで個人や企業の撮影や、撮影以外ではショーウィンドウデザイン、アピールツール用の似顔絵作成、企業パンフレット制作のディレクションなども行ってきた。現在は、「あなたとその日々を宝物のように想い、明るい未来を思い描くお守り」となるように心をこめてポートレート撮影をしている。1歳児の母。
公開:
取材・文:河本樹美氏(オフィスカワモト)
*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。