建築家志望からの方向転換。“やり残し”だったプロダクトデザインの世界で、独り立ちを果たすまで。
クリエイティブサロン Vol.246 百田俊一氏
定員を超える参加者が集まり、百田氏の人望の厚さがうかがえる集いとなった今回のクリエイティブサロン。建築デザインのおもしろさにのめり込む大学時代を送るも、突如、方向転換して大学院でプロダクトデザインの世界へ。ムラタチアキ氏率いる「ハーズ実験デザイン研究所」から独立して約2年。手先の器用さ、愛嬌のある人柄、生まれ持った強運を武器に、道を切り拓いてきたこれまでの道のりについて語っていただいた。
「手先の器用さ」に救われ、劣等生からものづくりの道へ
広島出身。やんちゃで勉強嫌い。かといって、スポーツが得意というわけでもない。劣等生を絵に描いたような子どもだったという百田氏。小学生時代には漢字の宿題をため込んで先生の怒りを買い、やり終えるまでは教室に入るなと机と椅子を外に出され、参観日すら廊下で授業を受けたという逸話も。しかし、幼少期から絵を描いたり、プラモデルをつくったりと、手先はずっと器用だったとか。
中学に進学後も成績はずっとふるわないままだったが、この“手先の器用さ”という長所を常に評価してくれる大人が百田さんの人生にはいつも側にいて、重要な決断をすべき時期に助言を与えてくれることになる。
いざ高校進学を考える時期がきたときも、技術の先生から、「広島県立工業高校の機械科を受験してはどうか」というアドバイスがあったという。そこで担任の先生と進路相談をしたものの、インターネットもない時代で情報を集めることもできず、どうすべきか判断がつかなかった。
「そこで、『先生は僕よりも僕のことを考えていると思う。だから、とりあえず先生の言うこと、聞いてみるわ』と答えたんです。そうしたら、隣の教室にまで先生の怒号が響き渡るほどに叱られてしまい……。僕としては『先生を信頼している』というニュアンスで言ったつもりだったのですが」
そんな一悶着がありつつも推薦入試で受験し、なんと3人の受験者のうち、1人だけの合格者に。入学後は溶接、鋳造、旋盤といった専門分野をみっちりと学び、ここで得た知識が現在も役立っているという。
プロダクトデザインに惹かれつつ、建築設計の道へ突き進む。
高校卒業の時期が近づいたある日、百田さんは友達の付き添いで行った進路指導室で“デザイン”の文字を発見する。「横文字ってかっこいいから、大学へ行こう」と安易な考えで先生に相談するも、どん底に近い成績がハードルに。
「即座に行けるわけがないだろう、といわれました。ところが、そのやりとりを見ていた別の先生が、『今、広島工業大学がAO入試やってるよ』って教えてくれたんです。もう、これしかないと思いましたね」
折しも総合的な成績ではなく、突出した能力を評価するAO入試が始まったところで、運が良いとしかいえないタイミングだったという。
模型をつくるなどの実技試験のほか、面接やディスカッションがあったが、手先の器用さと人当たりの良さが功を奏し、みごと突破。晴れて、大学生になることができたのだった。
3年になるタイミングで「インテリアデザインコース」と「建築デザインコース」のいずれかを選ぶことになるが、それぞれのコースについて調べていたところ、ふと“プロダクトデザイン”というワードを見つけ心惹かれたという。
「今思えば、インテリアデザインコースにいた学生が、たまたまプロダクトデザインのコンペに出品した事例があっただけなのですが、僕はインテリアコースに行かないとプロダクトはできないんだ、と思い込んでしまった。なので、インテリアコース希望と書いたところ、建築設計の先生に呼び出されました。『バウハウスでも建築がトップだから、建築をやっていればなんでもできる!』と力説され、希望を勝手に書き換えられちゃったんです。今思えば、1、2年の頃から図面がきれいに描けたので、僕に目をかけ、期待していてくれていたんですね」
そんな経緯ではあったが、百田氏はやがて建築のおもしろさに開眼。この頃までは将来、自分は建築家になるものと信じ、疑っていなかったという。
関西での新生活とともに、プロダクトデザインの世界へ。
やがて、大学卒業の時期が近づくも、不景気ということもあり、就活にはあまり積極的になれなかった百田氏。大学院に行って勉強を続けようと決めたものの、ふと、このまま建築の道に突き進むことが、本当に望みだったのか?と立ち止まることに。
「建築は好きでしたが、なんか、流されていないか?と。よくよく考えたら、僕は建築がやりたかったわけじゃなくて、建築が得意だったんですよ。上手にできることが楽しいだけだったんだ、とやっと気づいたんです」
そこで浮かんできたのが、前述の“プロダクトデザイン”というワードだった。初めて自分で関心を持った分野にもかかわらず、極められずにいたことで、学生生活の“やり残し”という感覚があったという。そこで、百田氏は両親にもゼミの先生にも伏せたまま、先輩がいた京都造形芸術大学のプロダクトデザインコースに願書を提出。当然ながらプロダクトの作品はないので、畑違いの建築のポートフォリオを見てもらうしかなかったが、無事に合格を果たす。のちに師となる、ムラタチアキ氏のコースが初年度の募集で、志願者がほかにいなかったことも功を奏したという。ここでも絶妙なタイミング、運の良さが百田氏に味方したのであった。
京都で初めてのひとり暮らしがスタートしたが、大学院は本人の自主性に依る部分が大きく、1年を無為に過ごしてしまったという。見かねたムラタチアキ氏から「ハーズ実験デザイン研究所」を手伝うよう言われ、事務所のある大阪へ転居。週4で事務所を手伝い、1日は大学に行くという生活がはじまった。
「今思えば、ムラタさんは事務所の所員が、僕にプロダクトのいろはを教えてくれるだろうと思ったのでしょう。思惑通り、3Dソフトの使い方や、プラスチックや金属といった素材についてなど、制作に必須の知識を学ばせてもらいました。この頃には院にも後輩が入ってきて、彼らからはもう少し夢のあるクリエイターのことなどを教えてもらい、すごいスピードでプロダクトの知識が身についたのでありがたかったですね」
いよいよ就職の時期となるが、百田さんは在学中から通っていた「ハーズ実験デザイン研究所」へそのまま入社。
「プロダクトデザインの力を蓄えつつはありましたが、他の学生と比較するとやはり劣る、という自覚がありました。普通に就活をして企業のインハウスデザイナーになるとか、どこかのデザイン事務所に入るというのは自分には無理だろうと。だからもうここしかない、良いツテだ、と思っていました(笑)」
入社後は着実にキャリアを積み、「無線LANアクセスポイント」や、倉庫や物流倉庫で必須の「ハンディターミナル」、病院や介護施設で役立つ「起床・離床センサー」など、さまざまな分野のプロダクトデザインを次々と手がけていった。
自らデザインしたベビーカーに、我が子をのせた感動
そうして2020年、常に目をかけ、助言とともに導いてくれる存在がいる環境から、個として勝負するフリーランスへ。32歳だった。もともと強い独立志向があったわけではなく、講師のオファーが相次いだことや、付き合いのある企業から独立について聞かれることが増え、「そういう時期にきたのだろう」と自然に後押しされた感があったという。
また、プライベートでは結婚し、父親になるという変化も。独立前にたまたまデザインを担当したベビーカーが、子どもが生まれるタイミングで発売になるというサプライズなできごとも体験した。
「自分のデザインしたベビーカーに息子をのせて、あちこち出かけられるわけです。プロダクトデザイナーとして、こんなに嬉しいことはなかったですね。こういった喜びを糧にがんばっていきたい、という思いはあります」
恩師であるムラタチアキ氏に就職を頼む際の緊張感あふれる駆け引きをユーモラスに語るなど、終始、参加者の笑いを誘った今回のトーク。そんなところにも、百田氏が先輩デザイナーや、おそらくはクライアントからも、「この人と仕事がしたい」と思わせ、愛される理由が滲み出ていたのではないだろうか。
イベント概要
行き当たりばったりな人生で、時間をかけて学んだ当たり前のこと
クリエイティブサロン Vol.246 百田俊一氏
正直、深く考えて生きてきたわけではないこれまでの人生。それはまるで小学生の帰り道のように、無計画でとりとめのないものだった気がします。道草を食って、近所の犬に挨拶して回り、知らないおじさんの家に上がり込んで、酒屋さんの倉庫で遊んで怒られて……そんな人生。行き当たりばったりに生きてきたからこそある「過去・現在・未来」について。そして、そんな人生の中で時間をかけて学んだ当たり前のこと。僭越ながらそんなお話をさせていただきます。
開催日:
百田俊一氏(ひゃくだ しゅんいち)
プロダクトデザイナー
1988年生まれ、広島県出身。高校で機械工学、大学で建築を学んだ後、京都造形芸術大学大学院デザイン領域を専攻。卒業後はHers Design Inc.にてプロダクトデザイナーとして活動。2020年フリーランスとして独立。各分野で学んだ専門知識を活かし、プロダクトデザインを始め、コンセプトメイキング、グラフィックデザイン、インテリアデザイン等、多様なプロジェクトを手掛けています。
京都芸術大学プロダクトデザイン学科非常勤講師 / 大阪電子専門学校非常勤講師
公開:
取材・文:野崎泉氏(underson)
*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。