荒波を漂う「笹船」がたどり着いた、人を支え、支えられるコトの大切さ
クリエイティブサロン Vol.236 西川将史氏
「ちょっといい、間のプロデュース」をコンセプトに、企業の新規ビジネス、ブランディング、マネジメント、マーケティング、クリエイティブなど、幅広い分野における戦略立案、企画・制作を手掛ける合同会社mano。そのCEOであり事業プロデューサーである西川将史氏が、荒波に揉まれてきた自らの生き方を「笹船」に喩え、波瀾万丈の人生を振り返る。次々と遭遇する出来事や困難、人との出会いが、自分という人間をどうつくりあげ、モノづくりの仕事にどうつながっていくのか――。時に懐かしみ時に笑いながら、想いのままに語っていただいた。
精神世界、笹船、球撞き――自身の土台をつくりあげたものたち
幼い頃から、仏教や神社に縁のあった祖父・祖母や母親の影響で、座禅や寺の掃除、説法など目に見えない世界や精神性に触れる、物静かな幼少期を過ごしたという西川氏。11歳の時、叔母よりプログラミングを学び、13歳の頃にはオーディオ機器やラジオづくりに夢中に。おこづかいを握りしめて日本橋でんでんタウンに通う、立派な“オタク”へと成長する。
そんな西川氏が、「笹船のように生きていこう」と決めたのは、大学受験に失敗した高校卒業時。同窓会の場で、有名国立大学に合格した同級生が「俺らは勝ち組やからな!」と叫ぶ声を聞いたとき、自分が求める“居心地の良さ”とかけ離れた“現実”に幻滅を覚えたのだという。そのときに頭をよぎったのが、「人生を川の流れに喩えるなら、君たちはどんな船で歩むか」という恩師の言葉だった。
「それならば、僕は笹船で行こうと。流れの上に浮かんだあとは、肩の力を抜いて静かにゆったりとたゆたうように、自然体で生きていこうと決めたのです」
そして、ただ家が近所、学校が一緒という幼馴染みより、価値観を共感し合える人とのつながりを大切にしていこうと決め、生まれ育った堺から距離を取り自活の道を歩き始める。
独り立ちした西川氏を待ち受けていたのは、その後の人生の激流に乗るきっかけとなった「球撞き」との出会いだ。ビリヤードの面白さにはまり、女性ハスラーに師事してアマチュア大会に出場。日本橋通いで知り合ったオーディオメーカーの紹介で東京の企業からスポンサーの内定をもらうも、プロテストはあえなく惨敗という結果に。スポンサーからは怒声とともに灰皿が飛んできて、身が竦むほどの恐怖を経験したという西川氏だが、一度極めようとした道のイメージが、他のビジネスの分野で今も生き続けていると話す。
「球撞きは、全体の配置と自分の位置や状態を俯瞰で見るマクロの視点と、手球を打つ瞬間に集中するミクロの視点の両方が必要。3手先を考えたり、自分の有利や相手の不利を仕掛けたり、戦術が勝敗を決めるスポーツです。動かない球をクライアントに喩えたなら、盤面のどこにどんな課題があり、どうスキマを縫うか、どんなアプローチを仕掛けたら球は動くかなど、メタファーのように先を読むことができるんです」
多種多様なバイトで知見を広め、多額負債で人生の挫折を味わった学生時代
ビリヤードの道が断たれた西川氏は、スポンサー企業にアルバイト雇用され家電量販店でのセールス支援を行うことに。そこで、その後の仕事観に大きな影響を与えてくれたイスラエル人の上司と出会う。「お金を動かすのが仕事」「仕事は自分でつくれ、待つな、探せ」などの価値観を、社会に出て最初に学べたことはラッキーだったと当時を振り返る。
その後もさまざまなアルバイトを通して、社会の現実を学んだという西川氏。派遣会社では幅広い職種を経験し、大学進学後は家電量販店での歩合制販売応援に携わり、大学で学んだ心理学を実際の売り場で検証。人気のイタリアンカフェで調理修業を行いながら店舗運営の難しさを痛感するなど、貴重な経験を得る。
大学卒業後はフリーランスのカメラマンになり、夜間の専門職大学院に入学。TV局の制作現場やファッションイベントを撮影しながら、デザイン経営研究科でワコールやカネボウ、大広など大手企業の実業家を講師に、マーケティングやブランディングなど、現在の仕事につながる基礎を学んでいった。インターン先の広告会社では、プロのクリエイティブの厳しさを目の当たりにしたと話す。
そして、大学院生だった2005年、旧知の仲間とユニットを設立。ここでユニットは、4000万円の負債を背負うという、過去最大の試練に遭遇する。
「商店街に印刷会社をつくろうと、出資を募ってドイツから印刷機を購入することになったのですが、仲介人が資金を持って逃亡。泣く泣くインターンを早期に切り上げて、デイトレードで返済をめざすことになったのです」
毎日毎日、元証券マンのボスの指示を受け、機械のように数字とチャートを追う日々。精神的に追い込まれる地獄のような生活で、1ヶ月で完済したものの身も心もボロボロ状態。「2度と金に群がる人を信用するまい」と誓いつつ、もう一度生まれ直そうと決意したという。
自らの専門性と向き合いながら、存在価値を求めて貪欲に学び経験を積む
新たな出発を迎えた場所は、1971年創業のブランディング会社、株式会社TCDだ。当時の副社長が西川氏のこれまでの人生を「おもろいがな」と気に入り、本気の下積み生活がスタート。執行役員に根性を叩き直され、2007年、山田崇雄会長の50周年展の準備の際、黙々と窓ガラスを拭く西川氏の姿を見た会長に認められて正社員に。以後13年間続く、長い旅が始まった。
まず西川氏がめざしたのは、TCDでの自身の立ち位置をつくることだ。グラフィックデザイナーたちがやりたがらない仕事や雑用、ネットワークの構築を一手に引き受け、彼らに気持ち良く働いてもらうことでプロジェクトマネジメントというポジションを確立する。
次に配属となったプラニングセクションでは、リサーチャー・生山久展氏の下につき、定量分析、定性分析、行動観察などリサーチの実務面を見様見真似で学びながら、ワークショップ開発やデータサイエンス事業開発など、さまざまな仕事にも自由に挑戦。「おまえはファシリテーションが向いている」など、要所要所で指針を示してくれる生山氏は、自分にとって羅針盤のような存在だったと話す。
もう一人、西川氏にとってのキーパーソンが、TCDの顧問だった高橋正広氏だ。元SONY のコーポレートブランドマネジメントを務めていた高橋氏は人生の経験が濃い大先輩で、1日2~3時間、ほぼ毎日電話が掛かってきて、脱線しながらさまざまなことを語り合う日々。
「そんな毎日が約10年間。仕事観、家庭観、人生観、文化観、経済観など、いろんな話しを通じて、経験をビジネス文脈に束ねる礎を作っていただきました」
そのほか、企画者として初めて担当した松下電工をはじめ、日東電工、ブラザー、京セラなど大手企業に育てられ、そこで得たノウハウを中堅企業に活用。また、さまざまな活動を通して、大阪北梅田ロータリー倶楽部や海外のプログラム開発者、オランダのコピーライター、スペインの美術修復士など、自身のつながりも拡大していった。
人と出会い支え合うなかで、シゴトは豊かに生まれ広がっていく
多くの人と出会い、さまざまなプロジェクトを手掛け多忙を極めていた西川氏は、2019年、突如右眼の視野がほぼ消失。さらに、年明けには全身が腫れ、蕁麻疹の症状も。「会社に迷惑はかけられない」とフリーランスに戻ることを決意したのが、2020年2月だった。
時まさに新型コロナウイルス感染症が日本を脅かし始めた頃。当初、まだまだ浸透していなかったテレワークの導入支援という事業を考えるも、感染拡大で一気にテレワークが普及。目まぐるしく変化する状況に右往左往するなかで「自分は笹船や」というかつての決意を思い出したという西川氏は、「無理に動こうとせず、いろんな人に助けてもらいながら道筋を立ててみよう」と自らのスタンスを変更。「クリエイター同士がつながって、お互いに微妙なかゆいところを助け合ってやっていく作戦」で、2度目の生まれ直しをスタートさせる。
2020年4月、個人事業主としてmano planningを始動し、8月に大阪デザイン振興プラザ(ODP)に入所。すぐに法人化して淺田依里氏と合同会社manoを設立。以来、多種多様なプロジェクトを立ち上げ、クリエイターとのコラボや新たな人との出会いを拡大させていった。
そんな自身のスタンスを、「自分からヒトにぶつかっていくアタリ屋みたいなもの」だと笑う西川氏。「しごとづくりのアイデアは球撞き。自分から動き、行き先を決めるのも自分次第。スキマを縫って、ぶつかって、裏にかくして……最後は相手の腑に落としてあげればいいんです」と話す。
相変わらずの多忙のなか、一時、回復を見せていた右眼は失明のタイムリミットに近づいているという。そして、「人の役に立ちなさい。価値観の合う人たちと出会い続けるために、人の世話になろう。人の世話をしよう」という、TCD山田会長の言葉を胸に、3度目の生まれ直しに向け始動。笹船の旅は、新たな章に向けて動きだしているのだ。
「見えなくなったらおしゃべりで、いろんな人にぶつかっていって仕事をしていくでしょう。そして、履歴書の最後には、20XX年オシャベリクソヤロウって入れるでしょうね」と、大らかな笑いでセミナーを締めくくってくれた。
イベント概要
自分は笹船。アイデアは球撞き感覚。片目で覗く、事業プロデュースのしごとづくり道
クリエイティブサロン Vol.236 西川将史氏
ハスラーをめざして夢破れ、大学で人間の奥深さを学んだものの専門分野から外れ、カメラマンとして独立しながら夜間に大学院に通いつつ、事業の立ち上げを試行錯誤して失敗した大学院時代。広告会社のインターンでは「おもろさ」の壁にぶつかり、軌道修正。ブランディングファームに入って「人が嫌う仕事を率先してする」と掲げてからも、専門分野を持たずに紆余曲折。長年勤めてようやく自分の流れが定まるかなと思った矢先に、片目の視野を失うことに。今回のクリエイティブサロンでは、紆余曲折のなかで自分が見て感じた流れが、どう事業プロデュースのしごとづくりと関わっているのかを雑多にお話しできたらと思います。
開催日:
西川将史氏(にしかわ まさふみ)
合同会社mano 代表
事業プロデューサー
1980年生まれ、大阪府堺市出身。大学では臨床心理・芸術療法の分野を軸に、哲学・環境学などを学び、その後フリーランスのカメラマン・フォトレタッチャーとして独立。その傍らで大学院にてデザイン経営研究を行う。2006年冬に兵庫県のブランディングファームに所属し、ファシリテーションを活かしてブランドプランニングやデータサイエンス、情報管理業務などを行う。2020年にmano planningとして再独立。同年9月に合同会社manoとして法人化し、事業構造の変革を求められる経営者の「かかりつけ相談員」として創業支援、事業相談、経営戦略、ブランド戦略、広報・販売戦略など総合的に事業プロデュースを行う。
公開:
取材・文:山下満子氏
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