58歳の船出。のたりのたりと打つ波の向こうに見えるもの
クリエイティブサロン Vol.227 橋本ヒネモス氏

「ふざけた名前で、すみません」。サロンの冒頭、橋本ヒネモスさんは語り出す。広告代理店・大広で30年以上にわたり、ラジオやテレビのCM、グラフィック広告など、さまざまな業界の広告を制作してきたヒネモスさん。2020年4月、58歳の時に独立開業。屋号を、以前から好きだった与謝蕪村の句「春の海ひねもすのたりのたりかな」から拝借した。

「“のたりのたり”することに“ひねもす”つまり一日中かけるなんて、素敵ですよね。時間を忘れて好きなことに一生懸命になれればいいなという願いを込めました」と語る。そんな想いを受けて、この記事では「橋本さん」ではなく、あえて「ヒネモスさん」と表したい。

橋本ヒネモス氏

学生時代の友人の一言で広告業界に

1962年生まれ。本籍は京都。父親が万葉集を研究する国語学者で、子どもの頃から「自分も学者になるのだろう」と漠然と考えていたというヒネモスさん。大学は文学部に進学。ところが大学4年生の時に、「自分には学者は向いていないのではないか」と思い始め、書き上げた卒論を提出せずに、自ら留年の道を選んだ。

「卒論を書いている途中で、学者になるなんて自分には無理だと思えてきたんです。なので、あえて卒論を出さずに留年しようと思いました。5年生の時に大学に行ったのは、学費を払いに行った時と卒論を提出しに行った時、その2回だけ。それ以外の時間は映画を観たり、好きな音楽のライブに行ったり、旅行をしたり。アイルランドの小説家ジェイムズ・ジョイスに傾倒していて、彼の故郷ダブリンを旅行したのもいい思い出です」と、ヒネモスさん。自らの生き方について模索した一年だった。

そんな時、ある友人の言葉が心に刺さる。「あなたはウソをつくのが上手だから、広告業界に向いているのでは?」

この一言をきっかけに、コピーライターという職業に興味を持ったという。時は80年代の半ば。日本はバブル景気に沸き、仲畑貴志、眞木準、糸井重里などが次々と名作コピーを生み出していた時代だった。

音楽への敬愛の念は時代を超えて

1986年株式会社大広に入社。クリエイティブ局にコピーライターとして配属された。当時、広告の主役がグラフィックから電波へと移り変わっていた時代。入社後、ラジオCM部門の担当となり、年間200本以上もの原稿を書いた。

「グラフィック部門を希望していたのですが、担当を任されたのはラジオCM部門。来る日も来る日も、ひたすら原稿を書く日々でした。しんどい毎日でしたが、その時に培ったコピーを書くための筋肉と基礎体力は、後にとても役に立ちました」

その後、テレビCM部門へ。会場のモニタに映し出される作品は、思わず顔がほころぶダジャレを使ったものから、映像と音楽が美しいものまで、作風は実にさまざまだ。無類の音楽好きと自称するヒネモスさん。多くの仕事に、敬愛するミュージシャンを起用してきた。

「大広時代のおよそ35年間に起用したミュージシャンは、エイドリアン・ブリュー、コクトー・ツインズ、憂歌団、矢野顕子など、国もジャンルもいろいろ」と、ヒネモスさん。しかしそこには、音楽を愛するがゆえの、ヒネモスさんらしい流儀があった。

「仕事をするからには、“好き”というだけではダメなんです。ビジネスですから、そこにきちんとした理由がなければ。例えばそうめんのCMの曲を矢野顕子さんにつくってもらいたい。なぜなら矢野さんがそうめん好きだから、とかね。ちょっとしたことでいいんです。なぜこの人やこの曲を起用しようと考えるのかを、クライアントをきちんと説得できなければ、視聴者にも伝わらない」

ある時は予算の少ないローカルCMの歌を自らが歌い、その曲はその地方で育った人たちが大人になっても覚えている歌となった。あるCMは30年以上経ってから、同じ曲を起用したリバイバル版が制作された。音楽への敬愛の念と仕事への信念は、時代を超えて伝わっていた。

プランナー / コピーライター / クリエイティブ・ディレクターとして携わった和歌山JAグループたねなし柿のCM。歌はヒネモスさん自らが歌っている。

九州支社で出会った忘れられない仕事

大阪で約15年、鉄道会社、高級時計メーカー、家電メーカーなど、多種多様なテレビCM制作の経験を積み、2002年に福岡の九州支社(現在は株式会社大広九州)に転勤したヒネモスさん。九州支社では、念願だったグラフィック広告や、テレビCM、ダイレクトメールなど、あらゆる分野の広告制作に携わった。そこで、大広時代の仕事で最も記憶に残る案件に出会う。大分むぎ焼酎・二階堂の仕事だ。

二階堂酒造のテレビCMは、“初めてなのに懐かしい”というコンセプトで、私が九州に転勤する10年以上前から制作されていました。清水和郎監督を中心に、カメラマンや照明さんなどメインスタッフも変えることなく、1年間かけて1本のCMを制作するのです。私は2002年からの4年間この案件に携わりましたが、現在もその制作方針は続いています。30年以上にわたって同じ監督の下で、コンセプトを変えずに制作されるテレビCMって本当に珍しい……というか他にはないでしょうね」

清水和郎氏からは、仕事だけでなく、生き方まで影響を受けたというヒネモスさん。制作は、監督とスタッフ、クリエイティブディレクターのヒネモスさんら制作チームが集まって、この一年で気持ちに残ったできごとは何だったかを語り合うことから始まったという。

「この時間がとてもいい時間でね。みんなで話題を出し合って、そこから二階堂の世界観と合うものを選び、最終的には毎年3案ほどをクライアントにプレゼンしました。理解のあるクライアントで、こちらのやろうとしていることを汲み取ってくださるんです」

半年の制作期間を経て、CMのオンエアは毎年10月上旬。それからじわじわと世の中に浸透し、年末にはクライアントの元にたくさんの手紙が届いた。CMの率直な感想の手紙もあれば、「成人して初めてのお酒は二階堂にしたい」という16歳の青年からのファンレター、「私はお酒が飲めないけれど二階堂が好きです」というラブレターのような手紙まで、お便りの内容や差出人はさまざまだったという。

「長年同じスタイルで制作を続けられているので、二階堂というとあのCMを思い出してくださる方も多いんです。CMのファンクラブまであるんだとか。そんな企業や商品って聞いたことないですよね。2000年代に入って “ブランディング”という言葉がよく使われるようになりましたが、二階堂酒造さんが30年以上前からされていたことは、まさにブランディングということなのだと思います」

二階堂のCMでは、OAAA(一般社団法人大阪アドバタイジングエージェンシーズ協会)広告エッセイ賞で審査員特別賞を受賞。新聞に掲載された「街・道・夢通りシリーズ」、雑誌に掲載された「二階堂よりみち物語シリーズ」など、グラフィック広告も手がけた。

他にもさまざまなクライアントのテレビCM、DMやウェブサイトの仕事も経験し、2006年からは再び大阪での勤務となった。

代表作
大分むぎ焼酎二階堂グラフィック広告
左:街・道・夢通りシリーズ「転校生も、サーカスも、ドキドキするものは みんな 橋の向こうからやってきた。」
右:二階堂 よりみち物語

コロナ禍の中での独立開業、そしてこれから

戻ってきた大阪では、九州時代の経験を活かし、さまざまな業界のテレビCMやグラフィック広告、ウェブサイトの制作などに携わった。その後、DM局を経て、国内ネットワークという部署へ。制作現場から遠ざかっていってしまう寂しさを感じていた頃、2018年に病気が発覚する。それが大きな転機となった。

「その時私は56歳。定年退職後は、あんなことがしたい、こんなふうに過ごしたいと想いを巡らせていたのですが、もしかすると時間があまり残ってないのではないかと思い始めました。ちょうどその時に、大広が早期退職の説明会をしていて、これは背中を押されていると直感したのです。それに定年退職してから独立っていうのも、なんだか潔くないでしょう?」と軽やかに笑うヒネモスさん。30年以上にわたって勤めた会社を去るのは、大きな決断だったはずだ。2019年、57歳の時に退職。その後は「それまでやりたくてもできなかったことを全てやる!」と心に決め、行動に移した。

「観たかったライブや映画、展覧会、行きたかった場所にも旅行しました。やりたかったことは、ほぼ全てやりましたね。そして2020年、そろそろ本気で開業準備をしようかと始めた矢先に、未曾有のパンデミックが起こりました。それでも立ち止まるわけにいかないと、4月1日に開業届けを出したら、その一週間後に最初の緊急事態宣言が出ました」と苦笑するヒネモスさん。現在は少しずつではあるものの、映画の告知やライブの主催など、これまでできなかったような仕事や活動ができていると語る。

「橋本ヒネモス還暦記念LIVE PARTY『おにぎりよ!赤く染まれ』」フライヤー
ヒネモスさん自身のプロデュースで開催する、還暦記念LIVE PARTY「おにぎりよ!赤く染まれ」(2022年6月 ムジカジャポニカ)

「代理店の仕事というのは、どうしてもマス広告が中心になります。そこでは、常に“どれだけ多くの人に興味を持ってもらえるか”が最重要課題となります。しかし今は、自分が本当にいいと思うものを自分なりに深掘りし、そこに興味を持ってくれる人に届けばという想いで制作しています。このスタイルの方が、本来の自分に合っているような気もしますね。一つひとつのことに納得しながら前に進めますから」

文章を書くことと音楽を心から愛するヒネモスさん。若い頃から沖縄民謡に魅せられ、時間を見つけては沖縄に出かけて、現地の人の歌や語りに耳を傾けてきた。「好きだからこそ、音楽評論のような文章は書きたくない」そうきっぱりと言い切る。

「今後は旅行記やエッセイなども書いていきたいですね。肩書きはクリエイティブ・ディレクター……ではないですね。これからは個人が多様なスキルを持ってものをつくる時代。既存の肩書きがあてはまらなくなる時代になりつつあると思うんです」

サロンも終わりの頃、「これからもこんな感じで、ゆるく、のんびりやるんだろうな」と、ヒネモスさんはつぶやく。そうだろうか。これまでの作品群からあふれ出す優しさと大らかさ、そしてここだけは譲れないという哲学。ヒネモスさんが、ただ「ゆるく、のんびり」でだけであるはずはない。のたりのたりと波打つ海の向こうに、私たちが見たこともない世界を、きっと見せてくれるはずだ。

イベント風景

イベント概要

橋本ヒネモスと広告、これまでとこれから。チームの時代から、個人の時代へ
クリエイティブサロン Vol.227 橋本ヒネモス氏

コピーライター、CMプランナー、クリエイティブ・ディレクターとして、30数年、広告代理店に勤務し、COVID-19初の緊急事態宣言が出た2020年4月、自営業「橋本ヒネモス」として、荒波の中、船出。代理店時代はナショナルクライアントをはじめとする大手企業の広告を大人数のチームで制作、個人営業になってからは、小さな企業や団体の広告を、少人数で制作。その違いと、それぞれのメリット、デメリットについて経験をベースに語り、その中から見える、これからの広告の方向性と、橋本ヒネモスのこれから進むべき方向を語ります。

開催日:2022年4月25日(月)

橋本ヒネモス氏(はしもと ひねもす)

よろず文章

本籍は京都市、育ったのは大阪府枚方市、大学は京都。大卒後、大阪市内で広告代理店のクリエイターとして社会人キャリアを始める。2002年、福岡に転勤して、代理店時代、一番印象に残る「大分むぎ焼酎二階堂」の広告制作を担当する。音楽好きで、会社員時代から居酒屋やライブハウス中心に年間100本以上のライブに通い詰める。自営業になってからは、それに映画好き、美術好きが炸裂し、映画も年間100本以上、展覧会50本前後に行く、根っからの文系人間。それはそれで幸せだけど、もう少し、仕事が増えて、これらの数字がもうちょい減ってもいいかな、とも思ってる。あと、ここ2年、なかなか行けてないが、本来は、隙さえあれば、沖縄に行く。なのに、海には行かず、どこかで泡盛飲んだり、昼寝したりしてる。あだ名は「おにぎり」。

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橋本ヒネモス氏

公開:
取材・文:岩村彩氏(株式会社ランデザイン

*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。