機械漉和紙に新たな未来を築く、老舗問屋四代目の挑戦
クリエイティブサロン Vol.221 大上陽平氏

後継者不在で廃業に追い込まれる老舗企業が増えている。創業73年の和紙問屋「株式会社オオウエ」も、ほんの3年前までは同じ問題を抱えていた。しかし今年、廃業の危機を乗り越えて、大上家の次男である大上陽平氏に四代目が引き継がれる。大上氏が家業を継ぐ決心をするまでの悩み、葛藤や、和紙の魅力を活かした今後の事業の展開について語っていただいた。

大上陽平氏

尖りたいのに尖れない。悩みながら自分探しの旅に出る

株式会社オオウエは、和紙や特殊用紙の卸売販売と印刷加工を手がける天王寺の老舗和紙問屋である。越前の手漉和紙の行商として創業し、現在は、和紙の風合いを残しつつ印刷加工適性が高い機械漉和紙を扱っている。創業者は大上氏の父方の祖父だが、母方の祖父も洋紙問屋を創業している。双方の血を引く大上氏は、いわば「和紙問屋と洋紙問屋のサラブレッド」だ。

少年時代は勉強もスポーツもできるクラスの人気者だったが、思春期に入ると「優秀で発想豊か」という兄や周囲と自分を比較して悩みが増えていく。

「僕の人生にずっと共通することなんですが、尖りたいのに尖れない。よく言えばバランスの取れた人間だけど、悪く言えば中途半端。とにかく真面目で不器用な、普通の高校生でした」

大学受験では、早稲田大学でキャンパスライフを謳歌する兄に憧れ、自分も東京の大学を目指して脇目もふらず勉強。ところが合格ならず、一年の浪人を経て上京を果たした。

「初めて挫折を経験して、いろんなことを学びました。人と自分を比べることをやめようとか、目標さえあれば努力は持続するとか、失敗しても家族は無償の愛を注いでくれるとか。結果として本命の大学には行けませんでしたが、この頃は充実感に満ち溢れていました」

大学四年間は、バックパッカーに憧れて国内外に旅へ。「常識とは何か、普通とは何か」と青年らしく思い悩みながらも、タイ旅行では現地で出会った人と酒を酌み交わしたり、ニュージーランドで住み込みのアルバイトをしたり、鹿児島まで10日間かけて自転車旅に出たりと、フットワークの軽さは抜群。この時の経験と行動力は、後の仕事にも発揮されていく。

バックパッカー時代
バックパッカー時代の大上さん。世界のいろんな国でたくさんの出会いがあった

大手印刷会社を退職して一念発起、インドへ

就職活動を始める頃には、家業の後継ぎもすでに視野に入っていた。「兄が早々に『弁護士になる』とか『映画監督になる』などと言っていたので、おそらく自分にお鉢が回ってくるだろうという空気を察して、紙や印刷、広告関係の会社をたくさん受けました」

そうして入社したのが凸版印刷。1年目は金融証券部門に配属されるも、堅い業界の既存顧客を相手にした内勤営業で全く芽が出なかった。ところが2年目に商業印刷部門に配属されると、水を得た魚のように力を発揮し、飛び込みで新規案件をどんどん獲得。企業間の根回しも上手くなり、チラシやパンフレット、動画やWebなどさまざまな広告を作るようになった。ところが4、5年目になると、仕事の矛盾や忙しさにモヤモヤとした思いを抱えるようになる。

「一方その頃オオウエは、というと、兄が家業で『和紙田大學』という初の自社ブランドを立ち上げて、イベント出展などを行なっていました。ふらっと見に行って、その熱量に驚かされましたね。自分の仕事よりも圧倒的に楽しそう、とサラリーマン大上は思いました」

折しも海外出張に行く機会があり、現地で大いに刺激を受ける。加えて、それまでの仕事への鬱憤、兄への羨望がないまぜになって感情が爆発する。

「どうせ家業を継ぐのなら、その前に海外で働きたい。いろんな経験を積んでスキルを身に付けたい」

ここからの行動力は実に鮮やか。帰国後、すぐに海外への転職活動に着手し、国として勢いのあるインドに行き先を定めると、早速複数社と面接をしてインドの会計法務事務所の内定を獲得。凸版印刷を退職し、デリーとドバイを行き来する日常が始まった。

「天王寺とインドの雰囲気が似ていているし、デリーの人とも波長が合いました。テクノロジ分野も脱プラスチックなどの政策も日本より進んでいて、スピーディーで面白い国だと思いましたね。いまだにインドはすごく好きです」

50℃に達する夏、人が密集する市場、あでやかな結婚式。写真で見るさまざまなシーンはどれも躍動的で、インドでの2年間がいかに充実していたかがうかがえる。

インドでの2年間
躍動的な毎日を過ごしていたインド時代

家業を継ぐことを決心。そこで早々にぶつかった壁

インドから帰国すると、海外の難関大学の院に合格した兄が入れ替わるように留学へ発っていった。一方大上氏は、海外勤務の経験を活かして東京の貿易会社に就職しようと考えていた。

「父はそれに対して肯定も否定もしませんでした。ただ、後継者がいなくなってしまい廃業を考え始めたんです。さすがにそれはもったいないと思いました。そもそも海外に行った理由は、スキルを身に付けて海外に日本の和紙を広めたいという想いがあったから。それなのに、海外での仕事の楽しさに流されてしまっていたんです」

初心を思い出した大上氏は、家業を継ぐことを決心。株式会社オオウエに入社し、四代目社長候補としての仕事をスタートさせた。

ところが入社早々、機械漉和紙を扱うことに葛藤を感じ始める。手漉き和紙は、靭皮(じんぴ)と呼ばれる木の繊維を原料とし、日本固有の「流し抄き(ながしすき)」という製法で作られることで、独特のシワや強靭性を持つ。一方、機械漉和紙は手漉きの工程を機械化したものだが、流通しているほとんどが洋紙と同じパルプを原料としており、一見洋紙と見分けがつかない。

「伝統的な和紙のイメージとは全然違いました。工業化することで印刷適性や加工適性が高くなった反面、和紙の特徴はどんどん削がれていく。これを和紙と呼べるのか、自分達は中途半端なモノを作っているんじゃないかとすごく悩みました」

そこで、和紙の魅力を紐解き、和紙だからこそできる商品は何かを丁寧に考察し、事業のあり方を見直していった。

“お気持ちを添える”和紙の魅力を伝えたい

大上氏の頭には今、新しい事業を展開するためのアイデアが詰まっている。一枚売りもできるネットショップの構築や四天王寺の参道にある本社のショールーム化、和紙のワークショップ開催といった消費者と直接つながる場作り。海外への販売。和紙に天然繊維や化学繊維、リサイクル原料などを漉き込んだ自社開発商品。「それを和紙と呼べるのか」という問題は依然としてあるが、大上氏は晴れやかに語る。

「和紙です、と自信を持って言おうと思っています。プロダクトとして魅力があるものであれば、何も問題はない。洋紙や板紙などさまざまな素材とタイアップして、和紙が持つあたたかい雰囲気を付加するような仕事がしたいですね」

和紙の定義や問屋の領域にとらわれることなく、これまでの経験を土台に、ビジネスの可能性を広げたいという。昨年は、和紙でものを包むことに着目した「つつまし」プロジェクトを始動させた。これは、和紙の包装材を試作・開発する取り組みだ。

「つつましというのは、『包む』と『和紙』を掛け合わせた造語。和紙には高級感がありますし、相手にお気持ちを添える、敬意を表す力があると思います。それを伝えられる包装材を作りたい」

つつましプロジェクト
「つつまし」プロジェクトで生まれた、オリジナルの和紙包装材

正式に家業を継ぐのは、今年7月。不安がないわけではない。しかしサロンの冒頭、自身が「洋紙問屋と和紙問屋のサラブレッド」であることを最近知ったという大上氏は、こうも話していた。

「僕には商売人のDNAが流れていて、和紙の魅力を後世に受け継いでいく素養があるのかもしれない、と励まされました」

老舗問屋四代目としての覚悟ある言葉だ。挑戦は始まったばかりだが、さまざまな葛藤に正面から向き合い、道を切り拓いてきた大上氏だからこそ築ける和紙の価値、そして株式会社オオウエの未来があるに違いない。

イベント風景

イベント概要

和紙と家業のクリエイティブについて
クリエイティブサロン Vol.221 大上陽平氏

老舗和紙問屋の4代目候補として見てきた3年間の苦労話を中心に、日本の伝統産業である和紙の魅力と、それをいかに現代に沿った形で提案できるのかを対話します。また、家業後継者(予定)の目線から、事業を引き継ぐ過去からの経緯を紐解いて、私自身の内なる好奇心や興味関心ごとをいかに本業に結びつけられるかをお話しします。

開催日:2022年1月12日(水)

大上陽平氏(おおうえ ようへい)

株式会社オオウエ 4代目候補

大阪市天王寺区に本社を構える、創業73年の和紙、不織布専門商社の4代目候補。大学卒業後、新卒で凸版印刷株式会社に入社し、4年半、印刷物を中心とした企業販促・マーケティングの提案営業を経験する。その後、海外での就労経験を求めて単身インド・ニューデリーのMBグループにて2年強、アジア企業のインド投資支援の事業を行ったのち、オオウエに入社。和紙と不織布を介して、日本のもの包みをお手伝いしている。

https://washi-oue.com/

公開:
取材・文:山本佳弥氏

*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。