紆余曲折だらけのデザイナー人生。40歳を機にスタンスを変えたら、面白さが増してきた。
クリエイティブサロン Vol.219 吉田透氏

個性的な人が多いと言われるクリエイターという職業。歩んできた道のりも波乱万丈、紆余曲折たっぷりという人も。今回のゲストスピーカーである吉田透氏もその1人だ。「ここまで自分の過去をさらけ出すのは最初で最後」と吉田氏が言うように自身の“すべて”を語ったクリエイティブサロンの中から、現在に至る転機となった出来事を中心にレポートする。

吉田透氏

デザインの道に進んだのは、子どものころの兄の徹底指導のおかげ

2009年にgraphic design studio Einsatz(アインザッツ)を設立し、フリーランスでグラフィックデザイナー兼イラストレーターとして活動する吉田透氏。テレビ番組のタイトル文字やオフィススペースなど、幅広い分野での仕事を手掛けている。

1974年、福井県鯖江市出身の吉田氏は現在47歳。専門学校を卒業した22歳からデザイナーとして活動し始め、今年はちょうど25年という節目の年だ。その足取りを振り返っていくと、まずたどり着くのが、少年期に兄から受けた絵の指導だ。

「4つ年上で現在は映像作家として活動する兄は、とにかく絵が上手でした。通っていた学校には兄の作品が飾られているし、プラモデルでジオラマを作ったら中学生の作品を上回るほどの腕前。そんな兄から、徹底的に絵を指導されたんです。おかげで僕も、絵がうまいと言ってもらえるほどになれました」

このとき芽生えた「絵が好き。絵が得意」という思いが、その後の人生を決定づけた。高校卒業後は、「絵を活かせる仕事に」という思いから大阪芸術大学附属大阪美術専門学校に進学。当初はインテリアコースで入学したが、1年後にイラストコースに転専攻。改めて1年生から学ぶにあたっては、「周囲より1年多く通うからには、何らかの成果を出さないと」という思いから、2年生の夏から個人の作品作りに没頭。学内のコンペで大賞を受賞するまでになった。この頑張りを先生が高く評価し、学内の芸術研究科に進学し、さらに1年学ぶことを勧められる。

「父親は進学に反対でした。すると先生方が実家に手紙を送って、考え直すように説得してくれたんです。これにはさすがの父親も折れ、進学を認めてくれました」

期待を集めた研究科時代には、様々なコンペにチャレンジをした。しかし「鳴かず飛ばず」だったという。このことが逆に吉田氏の思いに火をつけた。

「学生生活を楽しく過ごさせてくれ、かわいがってくれたたくさんの恩師の思いに報いるためにも、『必ずデザイナーになる!』と決意して卒業を迎えました」

当日のスライド表紙
サロンで用いられたスライドには吉田氏によるイラストが随所に散りばめられ、波乱万丈の足取りを際立たせた

お世話になった人の思いに応えるためにも、デザイナーの道は諦められない

熱い思いとともに社会人になった吉田氏。ここで少し時間を将来まで早送りして説明すると、吉田氏はこの後、独立までのおよそ10年間で8つの会社に勤務する。職場を移っていった理由には、朝から深夜までの過酷な労働環境、社長からの突然のクビ宣告、会社が準自己破産、会社が解散などなど、普通の人が一生に一度経験するかどうかという出来事が並ぶ。吉田氏自身が「紆余曲折が山ほどありました」と語るゆえんだ。そんななか、唯一の円満退社となった会社こそが、吉田氏がデザイナーとしての基礎を築いた会社だ。

「印刷会社の子会社で、デザインの企画制作をする会社でした。この会社で、デザインのことも印刷会社とのやり取りに必要なデータの作り方などの知識も、すべてを学びました。僕は上司であるディレクターとデザイナーの2人のアシスタント的なポジションからスタートし、最終的には独り立ちしたデザイナー兼ディレクターとして仕事を任せてもらうようになりました。2人のうちのディレクターである女性上司が退職するとき、『あなたにはすべてを教えた。今のあなたなら、どんな企画でもカタチにすることができる。女性向け商品だって大丈夫』と言ってくれたことは、いまだに僕にとっての一番の褒め言葉です」

激動の会社員時代でももう1つ思い出に残っているのが、クビを宣告された会社での出来事だ。社長には嫌われていた吉田氏だが、先輩たちはかわいがってくれたという。突然会社を去ることになった吉田氏に対しても、送別会を開いて励ましてくれた。

「この先輩たちのためにも、必ずデザイナーになるという思いを改めて強くしました。デザイナーとして独り立ちできた企画制作会社に転職するのはこの直後ですから、先輩たちの励ましのおかげと言えるかもしれません。ちなみにこのときの社長とは、数年後に再会。僕の仕事を見て一人前のデザイナーとして認めてくれたことは、いい思い出です」

デザイナーとしての独り立ちを果たした吉田氏は、企画制作会社を退社してレコード会社のデザイン室に入社。かねてから興味があったCDジャケットのデザインに携わるチャンスを得る。しかし道理に合わない出来事の数々に直面し、体調を崩してしまう。結果、5カ月で退職。その後、飲食企業や化粧品・健康食品会社を経てアジアのエンターテインメントを発信するプロジェクトに参画し、デザイナーや雑誌編集、トータルビジュアルなどを担当した。

「このプロジェクトが事務所を構えたのがメビック扇町でした。僕とメビックとの関わりはこのときからなんです。また偶然にも、レコード会社時代の上司が独立してメビックと関わりを持っておられ、再会を果たすことになりました」

「ネオ・ウルトラQ」各話タイトル
岐路の1つとなったテレビ番組「ネオ・ウルトラQ」のタイトル文字。放送回によって異なる文字デザインが用いられている

納得できる金額の仕事だけを受ける! 方針転換から3年目で、新たな仕事が広がり始める

2009年に満を持してフリーランスになった吉田氏は、時間の許す限りどんな仕事でも受けるという姿勢で取り組んだ。そして1年が経った頃、手掛けていた仕事の1つが兄の目に止まる。手書き文字を用いたロゴマークが認められ、テレビ番組のタイトル文字制作を任されたのだ。

「毎週放送される番組だったうえ、それぞれの回の内容に合わせて書体も変えることになっていたため、忙しさは尋常ではありませんでした。必死になって提案し、結果を残すことができました」

当時の吉田氏は39歳。40歳という節目の年を目前にして、「このままでいいのだろうか」という思いもよぎり始めていた。今後衰えていくであろう体力のことや、東京と大阪での金額の差が気になっていたのだ。そしてたどり着いたのが、「先方の言い値では仕事をしない。必ず交渉をして、安いと思ったら受けない」という今に続く判断だ。

とはいえ、実現への道は平坦ではなかった。行動を始めた1年目はクライアントと頻繁に揉めた。2年目の41歳のときには、既存のクライアントからの仕事が激減した。このとき、生活費を賄うために生まれて初めての派遣の仕事も経験した。思いが形になり始めたのは3年目。金額の折り合いのつく新規のクライアントが現れ始めたのだ。

「おかげ様で今では、楽しく仕事ができています。嬉しいのは、『この人と一緒に仕事をしたいな』と思っていたら実際に仕事が入ってきたり、自由が効いて楽しい仕事ができるようになったことです」

株式会社Prime Lifeキッズスペース
株式会社Prime Lifeと共に取り組んだ新オフィスのキッズスペース

そんななかで、仲垣友博氏(株式会社ユハク代表取締役)や笹井猛弘氏(株式会社Prime Life代表取締役)との「運命の出会い」に遭遇する。仲垣氏とはnoteで連載中の社長コラムに挿絵を提供し、笹井氏とはオフィスのキッズスペースづくりで共に仕事をした。仲垣氏のnoteは書籍化をめざしており、笹井氏とは2022年以降に大きなプロジェクトに取り組む予定があるという。

最近はイラストを取り入れた仕事が増えているという吉田氏。面白さや楽しさを取り入れたデザインに興味があるなら、ぜひ声をかけてほしいと語りつつ、「面白い提案しまっせ!」と言ってトークを締めくくった。

イベント風景

イベント概要

クリエイターとして25年間続けてきた話、続けてこられた話
クリエイティブサロン Vol.219 吉田透氏

22歳の時にデザインの専門学校を卒業してこの業界に入り、四半世紀の25年の月日が経ち、今年で47歳になりました。25年の間に紆余曲折&七転八倒な事が沢山起こり、僕の前を通り過ぎて行きましたが、雲外蒼天を信じ粉骨砕身することで、何やかんや続けることができました。当日は、今の僕を形成した幼少期から、25年間続けてきた&これたお話を、面白おかしく多少毒を混ぜながらできればと思っております。

開催日:2021年12月3日(金)

吉田透氏(よしだ とおる)

graphic design studio Einsatz
グラフィックデザイナー / イラストレーター

1974年生まれ福井県鯖江市出身。2009年にgraphic design studio Einsatz(アインザッツ)という屋号でフリーランスとなり、グラフィックデザイナー兼イラストレーターとして活動中。お固いものから柔らかいものまで幅広く仕事をこなす。

https://www.mebic.com/cluster/graphic-design-studio-einsatz.html

吉田透氏

公開:
取材・文:松本守永氏(ウィルベリーズ

*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。