「好きなことをして生きていく」それは幸福につながる道
クリエイティブサロン Vol.210 眞田健吾氏

「好き」を仕事にすること。クリエイティブの世界に携わる多くの人がそうであるように、「好き」だからこそむずかしいこともある。今年、創刊から50号を数える季刊紙『cycle』の副編集長にして、フリーランスの編集者・ライターである「STUDIO amu」の眞田健吾氏。今回は独立して現在の仕事につくまで、学生時代に抱いた夢を実現するまでの紆余曲折、そして迂回したからこそ見える風景について語ってくれた。

眞田健吾氏

いくつもの「好き」が萌芽するはじまりのとき「あすなろ編」

雑誌からWebサイト、広告などの仕事を手がけ、いっぽうで自転車にまつわるライフマガジン『cycle』の副編集長として、街を駆け巡り活動する「STUDIO amu」の眞田健吾氏。古い漫画の収集が趣味だと語り、これまでの道のりを藤子不二雄Aの名著『まんが道』になぞらえ、「あすなろ編」「立志編」「青雲編」と章立てて語りはじめた。

まずは「あすなろ編」たる学生時代から。高松でのびのびと育った小学校時代、遊び道具は色鉛筆にカッター。絵を描いたり工作をしたり、ものづくりに楽しみを見出していた。中学では美術部に入部し、同人誌をつくる友人の影響でオタク道にも足を踏み込んだりも。

美術系高校への進学を夢見るが、ふんぎりがつかず普通科高校へ。放課後は本屋に毎日通い、音楽からファッション、アニメ、サブカル、洋書まであらゆる雑誌をザッピングするがごとく立ち読みする日々。しかし進学の時期が近づくと再び美術系に進みたいという想いがもたげ、京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)へ進学。同時に京都での一人暮らしもはじまった。在籍した情報デザイン学科は当時、授業単位でさまざまなメディアが選択できる自由な環境で、デザインからWeb、立体造形に版画や写真までひと通りを学べたという。

高校まではマニアックな趣味を隠してキャラをつくっていたという眞田氏、ここでは誰もそれを拒絶しないというか、みんな自分以上にマニアック。素のままでいられる環境が楽しかった。「とはいえ田舎でちょっと絵が上手かったレベルで、いざ大学に入ってみると井の中の蛙状態を思い知った。都会との文化度の違い。技術面、センス、どれをとってもかなわない。正直、2年目ぐらいまでは何度やめようかと思ったことか」。ある時期を境にそんなコンプレックスからも開放され、自由な空気に感化されながら20代に突入していく。

大学の卒業制作
大学の卒業制作。スピーカーから流れる微かな音が近付くと消えてしまう、記憶をテーマにしたインスタレーション作品

初心に立ち返り、編集者の道へ。日々是修行の「立志編」

楽しかった学生生活も終わりが近づく。先のことは何も考えていなかった。卒業後の進路について「ちょっとゆっくりしたい」と答え教授を絶句させ、フリーターとしてモラトリアムを継続する。そんな生活も1年が過ぎたころ、さすがに働かねばと考えるようになった。「やりたい仕事ってなんだろうと考えたとき、本屋に毎日通って雑誌を読んでいたこと、大学時代から続ける古本屋のバイトが結びついて、本をつくりたいと。それなら編集者だとなって」。しかし出版関係の仕事は首都圏に集中しており、倍率も高い狭き門。

想いはままならず、結局デザイナーとして就職する。そこでは繊維関係のハンガーポップ、下げ札、織りネーム、パッケージなどを手がけるも、デザイン性よりスピードが重視される現場。もやもやした気持ちを抱えていた頃、大学時代の友人と会う機会があった。小さいプロダクションながら、楽しそうに編集の仕事をしている友人の姿はまぶしく映った。

そこで初心である編集者をめざそうと、情報誌を中心に制作する編集プロダクションに入社。「この期間がいちばんの成長期」と語るように、この会社でみっちりとしごかれる。漠然と編集がしたいという想いだけで飛び込んだが、いきなり洗礼を受けた。「編集者は企画を考える仕事だと思っていたんですが、ここでは原稿も自分で書かなきゃならなくて」。しかも書いた原稿は、先輩からの修正で真っ赤になってつき返される。そんなライター修行を経て、情報誌で20~30ページをまかされるまでに成長。リサーチ→ネタ出し→アポ入れ→取材→デザイン出し→原稿→校正までをひとりでこなせるようになっていた。

「完璧超人」と崇める上司からは数々の金言をもらった。取材のノウハウも分からず話が弾まなくて落ち込んでいたときには「結果、取材になればいい」という言葉で肩の力が抜けた。「何を話しても取材になるなら、おしゃべりを楽しもうと。取材する側とされる側、お互いにがちがちになってたら聞きたいことも聞けないですよね。これは今も肝に銘じています」。眞田氏の語りは終始、落ち着いたトーンで、さぞかし聞き手はリラックスして饒舌になることだろう。

編集プロダクション時代に手がけた雑誌
編集プロダクションでの修行時代に手がけた情報誌

自分の想いを確認するためにあった、4年間の「まわり道」

情報誌を中心とする会社で編集者としてのスタートラインに立った眞田氏。3年半ほど務め、30歳を前に退職。ここで独立し、いよいよ「青雲編」に突入するのかと思いきや……。じつは眞田氏には悪い癖がある。「次の仕事が決まる前に辞めちゃうんですよね(笑)」。その結果、「暗黒時代」に突入してしまう。転職活動をするもうまくいかず、ニート期&ブラック企業派遣など経て、「自転車によるまちづくり」をめざす彦根市のNPO法人へ。大学時代からの趣味である「自転車」というワードが引っかかったという。ここではメンテナンスからレンタサイクル事業の立ちあげまでを手がけた。聞いていると楽しそうだが、当初めざしていた「編集」からは遠ざかる。これが10年前のこと。

その後はさらに意外な方向へ進む。産業機器メーカーでセールスエンジニアの職に就いたのだ。「クリエイティブ方面の転職活動もままならず、疲れ果ててしまったんですね」。脱クリエイティブな日々。自分を押し殺し、大好きだったクリエイティブの情報も封印した。北は北海道、南は鹿児島まで全国を飛びまわり、あっという間に約2年半が過ぎていく。しかしある日、心がポキっと折れた。それは先輩が放った「社内営業は大事だよ~」という言葉。「大きな企業に勤める方なら、社内での根回しはあたりまえかもしれません。でも自分には立ち回りという感覚がなく、衝撃を受けてしまって」。そして考えた。この仕事を続けて見える風景は、美大にも進まず地元で就職した自分の、「もしも、の未来」ではないかと。

まわりまわってたどり着いた結論は、「どんな仕事もしんどいんなら、 好きな仕事で苦労するほうがいい」だった。「遠まわりの末に、やっぱり自分は編集という仕事が好きなんだと気づいたんですね。好きでもない仕事を定年まで続ける人はふつうにいます。それは全然悪いことじゃないけど、自分は好きな仕事を知っている。それは幸福なことじゃないかと」。年齢や経験を重ねると、なかなか自分の仕事を素直に好きとは言いにくい。しかし眞田氏はストレートに好きと表現する。それはとても素敵なことで、だからこそ眞田氏のまわりにはハッピーな空気が漂っている。

cycleバックナンバー
フリーペーパー・Webマガジン『cycle

自分たちの想いを発信する場を持てた「青雲編」

そして2015年1月、ようやく独立を果たす。同じタイミングで大学時代の友人も独立することになった。彼女が勤務先から引き継いだ媒体が『cycle』で、こちらを「一緒につくろう」という話から現在の体制に。『cycle』は生活に密着した「文系」自転車カルチャーを扱う、今までになかったフリーペーパーだ。創刊から現在では50号を数え、全国約900ヶ所で配布されるまでになった。

お決まりの型を使いまわしているフリーペーパーが多いなか、『cycle』の構成や見せ方はとても「雑誌的」だ。自転車にまつわる情報をきちんと編集して読者に届けている。特集やインタビューも雑誌のコンテンツのためではなく、編集者が今、会いたい人と接している、そんな空気が伝わってくる。「今、自分たちの媒体を持ち、そこで面白いと思うこと、自分たちの想いを発信する場を持てて、とても満足しています」

ここで驚くような告白が。「じつはぼく、情報誌の仕事しかやったことがなくって。独立するまで人物にフォーカスしたロングインタビューとか、長い文章って書いたことがなかったんですよね(笑)」。ちなみにはじめての長文原稿は、今まさに自身が登壇しているクリエイティブサロンのレポート。そんなことは微塵も感じさせない読み応えのある内容だ。「広告と雑誌の違いにも戸惑いましたね。雑誌はつねに客観視点で書くのに対して、広告は主観的に書くので」。今では関西の雑誌から行政の冊子、Webサイトまで、着実に仕事のフィールドを広げている。

現在、眞田氏の名刺の肩書は「編集 / ライティング」とある。今後はスキルをさらに積んで、本当にやりたかった編集に舵を切っていきたいという。「この仕事をするほどに自分はコンテンツをつくること、つまり編集が好きなんだと実感しました。これからも気負わずに、おもしろいコンテンツづくりをやっていけたら幸せです」

イベント風景

イベント概要

いろいろあったけど、結局は好きなことで食ってます
クリエイティブサロン Vol.210 眞田健吾氏

独立して今年で7年目。中途半端なスキルと経験しかない自分が、本当によく生きてこれたなと思います。コンプレックスだらけの学生時代、“取りあえず”でなったフリーター、上手くいかなくてクリエイティブから離れたこと……。独立まで少し遠回りしてきた分、いろんなことを感じられた気がしています。胸を張れるような道のりではないですが、その中で考えたこと、忘れられない言葉なども交えながら、独立後のお仕事や「cycle」のことにも触れたいと思います。失敗談が多くなると思いますが、「こんな人でも生きていけるんだ」と誰かの自信になれば!

開催日:2021年9月9日(木)

眞田健吾氏(さなだ けんご)

STUDIO amu / 季刊紙「cycle」副編集長 / 編集者・ライター

1981年、香川県高松市出身。アニメとゲームとマンガで構成された青春時代を経て、京都造形芸術大学(現京都芸術大学)へ進学。卒業後はフリーター、繊維系企業でSPデザイナー、編集プロダクションで編集・ライター、NPO法人で事業運営、広告制作会社でディレクター、産業機械メーカーでセールスエンジニアなどの職を転々としながら、2015年に「STUDIO amu」として独立。フリーランスの編集者・ライターとして雑誌や広告の制作に携わる。また、独立と同時に自転車のフリーペーパー「cycle」の編集部に参加。ネタ出しから取材、執筆、撮影、広告営業、発送まで、媒体運営にまつわるあれこれを行う。

https://cycleweb.jp/

眞田健吾氏

公開:
取材・文:町田佳子氏

*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。