「何もない」から20年。走り続けて得た大切なもの
クリエイティブサロン Vol.193 竹広信吾氏
193回目のクリエイティブサロンに登壇したのは、デザイン事務所「STRiPES」代表の竹広信吾さん。ロゴやVI、Web、空間のブランディングを手掛けるアートディレクター兼グラフィックデザイナーで、国内外のデザインコンクールで多数の受賞歴を誇る。約20年をデザインに捧げてきた竹広さんが、最近になって大切に感じ始めたのが、人との距離。その考えに至るまでの半生を振り返る。
クラブカルチャーに魅せられた10代の頃
少年時代からクラスの牽引役で、高校ではバレーボールの強豪校で試合の司令塔であるセッターとして活躍し、すでにアートディレクターの片鱗を見せていたという竹広さん。ファッションに強い憧れを抱き、高校卒業後はファッションの専門学校に通った。この頃に夢中になっていたのが、高架下で行われていたクラブイベント。二色刷りのポスターが無造作に貼られ、クロスオーバージャズが鳴り響き、壁面にモーショングラフィックスが映し出される。「空間も、表現も、そこに集う人も輝いて見えました。これが僕。イキってるでしょ?」と写真をスライドで映しながら笑う竹広さん。
卒業後はアパレル会社に就職するが、希望していた本社勤務が叶わず、ほどなく退社。服やレコードを売って食いつなぐ生活を2〜3ヶ月送った後、フリーター生活が始まった。ジャズが流れる、お洒落なカフェのオープニングスタッフだ。「内装からスタッフの手作りでした。ペンキを塗ったりビスを打ったりして、ものづくりの楽しさを感じはじめていましたね」。作業に店舗のデザイナーが加わると、現場を仕切るその姿に「かっこいい」と憧れた。カフェも大繁盛だったという。しかし、他のアルバイト達は就職までの短期バイト。春になり、それぞれの夢を抱いて羽ばたいていく背中を見送りながら、「俺には何もない」と痛感した。
月収7万円。それでも楽しかった下積み時代
落ち込んでいた時、印刷会社のデザイナーだった父親から1本の電話が入る。大企業の新商品ラベルの発表パーティーへの誘いだった。参加してみると、そこに並んだラベルの中に自分と同い年のデザイナーの作品があることを知って衝撃を受ける。見透かすように父親が言った。「本当はデザインをやりたいんじゃないか」。その言葉に背中を押され、デザイナーという新しい目標に向かって歩み出した。
就職活動を始めたとき、竹広さんは21歳。胸ポケットにタバコを突っ込んだ、敬語も知らない若者だった。面接はことごとく不採用だったという。ただ一社だけ、思いを受けとめてくれた会社があった。デザイナーが二人だけの小さな事務所。見学した場でMacを触らせてもらい、初めてのキーボード、初めてのIllustratorに感動した。そこで、「お手伝い」として雑用をすることになる。
「9時から17時まで無償でお手伝いをして、18時までMacを教えてもらった後、夜の1時までカフェでバイト。カフェの収入が一ヶ月7〜8万円で、光熱費が払えず何度も電気やガスを止められました」。外から見れば苦労の下積み時代だが、竹広さんはこの時を「楽しかった」と振り返る。一年後には正式にアルバイトとして働き始め、小さなチラシの制作も任せてもらえるように。「俺もデザイナーだ、と胸を張って、日本橋で総額50万円弱のMacを最長ローンで買いました。めちゃくちゃうれしかった」
学歴へのコンプレックスを乗り越えて
その後は、フリーランスを経て制作会社に勤務する。畑違いからのスタートで、デザインの進め方もアイデアの生み方も学んだことはない。それでも前に進み続けられたのは、努力の積み重ねに他ならない。「やり方は人から盗んで、トライアンドエラーで覚えていきました。でも、一発で成功することはありません。初めはボロボロに負けます。それでも人の2倍、3倍やっていたらだんだん近づいていくんです」
もちろん、大学への憧れがなかったわけではない。デザインを学んでいないことにコンプレックスも感じていた。制作会社で深夜まで仕事をしていたとき、後輩が放った言葉は今でも忘れられないという。「どこの大学も出ていない人に、指図されたくない!」。ショックで何も言い返せず、その言葉はしばらく心を苦しめた。しかしここから快進撃が始まる。
制作会社を30歳で退職後、デザイナーの友人が立ち上げた新しい事務所に参画。35歳での独立を毎日イメージしながら走り続けた。「もともと何も持っていないから、捨てるものも守るものもない。怖いものなしでした」。界隈ではクリエイターの交流会が盛んに行われていたが、「みんなが遊んでいる間に出し抜いてやる」と全て断っていたという。しかしあるとき、断り切れずに参加した交流会がその後の仕事を大きく変える。広告だけでなく、さまざまな業種の仲間ができ、そこから新しい仕事が生まれていったのである。ペーパーアイテム、立体サイン、空間とデザインの領域が一気に広がった。
人とのつながりで挑戦のフィールドが広がっていった
2014年、予定通り35歳で独立し、2016年に株式会社STRiPESを立ち上げた。この頃から、JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)での活動も活発になる。展覧会「BODY WORK」への出展だけでなく、第11回では実行委員長として、尊敬するデザイナーの三木健氏を招いてのクロストークショーや、会場にケータリングを用意した交流会を企画。オープニングパーティーは大いに盛り上がった。この活動が評価され、平和紙業が主催する「紙の展覧会」のアートディレクションも任された。「それまでは企業価値を上げるためのアカデミックな展示をされていましたが、それを僕がやってもコケる。真逆をやろうと、クリエイティブに関係のない職業の人や子どもにも分かりやすい展示を企画しました」。一年目は約350種類もの白い紙だけを使った展示を企画、二年目は色紙、三年目は紙のテクスチャを活かしてクリエイティブの楽しさを表現し、自らのデザインを創りあげていった。
2017年からは、デザインコンテストにも挑戦し始め、タイポグラフィ年鑑、ニューヨークADC、広告賞などで多くの賞に輝いた。デザイナーとしての大きな成功である。しかし、何より嬉しかったのは、クライアントが自分のことのように喜んでくれたことだった。サロンの冒頭には、こんなことも言っている。「仕事の規模が大きくなるほどエンドユーザーとの距離が広がる。それが寂しくて、最近は人との距離について考えるようになりました」。
これからの20年で叶える本気の夢
現在、竹広さんは本業と並行して、大阪芸術大学短期大学部で非常勤講師として講義をしている。大学への憧れが、思ってもみない形で現実になった。「学生たちは乾いたスポンジみたいに教えたことを吸収してくれます。でも、一方通行じゃなく僕も学びたい。ボールを投げると打ち返してくれる、そのコミュニケーションが楽しいし、気持ちいいんです」
「笑われるかもしれないけど」と前置きをしながらも、真剣に語った今の目標は、教授になること。地位がほしいからではなく、自分で授業を組み立て、学生たちに伝えたいことがたくさんあるからだ。そして、20年前に強烈に憧れたクラブカルチャーのように「何かとんでもないもの」をデザインを通して発信したい、とも。
「何もない」場所から走り続けてきた20年。父親に励まされ、心強い仲間を得て、世界は大きく広がった。これからは、大好きなデザインを通して自分の目標と人に本気で向き合う20年が始まる。最後に、竹広さんはこう話してくれた。「昔は大きな仕事に憧れていましたが、今は違う。この仕事が人のため、社会のためになっているかをよく考えるんです」。その熱い気持ちは、参加者の胸にも深く響いたはずだ。
イベント概要
あれから20年。
クリエイティブサロン Vol.193 竹広信吾氏
90年代後半のクラブカルチャーに強い影響を受けた。
若者の熱気とタバコの煙が渦巻く薄暗い高架下のクラブ。会話ができないほどの音量とそのリズムに合わせ、ヤニで黄ばんだ壁面にはモーショングラフィックスが大きく映し出される。無造作に貼られたフライヤーやポスターがとにかくカッコよくて夢中になった。そこに集う人々とその場の全てが光り輝いて見えた。
あれから約20年の時が経ち、僕は大人になった。コムデギャルソンもマルジェラも買えるし、こうしてゲストスピーカーとして招かれるようにもなった。遠回りもしたし寄り道もしたけれど、憧れてやりたかった「デザイン」を仕事として生きている。
当日は、安定を捨て、デザインを通して少しずつ大人になっていく過程と、等身大の僕を話そうと思う。
開催日:2021年1月29日(金)
竹広信吾氏(たけひろ しんご)
株式会社STRiPES
アートディレクター / グラフィックデザイナー
1978年大阪府生まれ。大阪文化服装学院卒業後、アパレル会社、デザイナー見習い、デザイン会社を経て2014年に独立。2016年、株式会社STRiPES設立。
グラフィックデザインを主軸に様々な領域を横断しながら活動中。
日本タイポグラフィ年鑑2019ベストワーク賞、第98回ニューヨークADC(2019年)メリットアワード、第16回アジア太平洋デザイン年鑑(2020年)ノミネート・ファイナリスト、日本タイポグラフィ年鑑2021ベストワーク賞、日本のアートディレクション(ADC年鑑)、東京TDC賞、JAGDA年鑑など多数受賞、入選。
公開:
取材・文:山本佳弥氏
*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。