「好き」をあなどってはいけない。
クリエイティブサロン Vol.179 外賀寛子氏

「よりおもしろいと思えることを」と話すグラフィックデザイナー・外賀寛子氏がゲストスピーカー。決して平坦な道ではなかったが、自分の「好き」を大事にデザイナーであり続けている。好きなものを追いかけて今に至るまでの道のりを語ってくれた。

外賀寛子氏

やりたい仕事をするために大事な2つのこと

デザイナー歴18年。2016年に独立し、現在フリーで活動している。本題に入る前に印象深い最近の仕事として紹介したのが、朝日放送の人気番組『探偵!ナイトスクープ』のポスター。番組の名作回にまつわるアイテムが隠されていると話題になった。「普段番組で見えている場所の奥に局長の小部屋があって、思い出の小物がコレクションされている、という設定を思いつき表現しました」

もうひとつ印象的な仕事がテキスタイルブランド「ケイコロール」のロゴ。大学時代の友人から「山元染工場が新しく立ち上げたブランドをうまく軌道に乗せたい」という相談とともにリーフレット制作を頼まれた。時代物和装など舞台衣裳を専門に制作する型染め工場である、山元染工場の技術的な歴史は感じさせつつ、まったく違う新しいブランドとして根幹から考え直す必要があると考え、「コンセプトをはっきりさせて、ロゴづくりから始めましょう」と提案。山元家の家紋、橘をデザインしたロゴに「ただのテキスタイル作家じゃない」という意味を込めた。新しいロゴを使い始めると、風向きが変わる。百貨店から声がかかったり、大手アパレルとコラボしたり、目覚ましい活躍となった。

「ありがたいことに、最近はおもしろい仕事ばかりいただきます。そのために大事なことは、自分が好きだと思うことをあなどらないこと。それにフットワークの軽さも大事。行く先々で魅力的な人に出会うことに恵まれているので、その人たちから仕事が生まれたり、楽しいことに発展したりします」

『探偵!ナイトスクープ』ポスター
最近の印象的な仕事として挙げた番組宣伝ポスター。

人生を決める「好き」に会う、6歳~美大時代。

「今日はここに至るまでのことをお話しします」と言うと、年齢順に主な出来事と本などの画像が並んだ表が、スクリーンに映し出された。「私の中の知識やおもしろいと思うことは、好きなことや人から枝葉のように興味を伸ばしてインプットしたものです。今日はそういうことをお話しできたらと思います」

1978年、京都に生まれる。6歳のとき、隣の家から本をどっさり譲られる。その中にあった水木しげるの『妖怪100物語』が運命の一冊となる。「絵の細密さに衝撃を受け、妖怪自体にも心を打たれました。水木さんの影響力がずっと私の中に生きています」。この言葉どおり、“水木しげる”から興味のアンテナを広げ、世界妖怪会議、鳥山石燕(とりやませきえん)の妖怪画、『月刊漫画ガロ』など多くのものをインプットしている。

中学から中高一貫女子校へ。高校では1年生で美術部の部長に。「クラブの運営としては、つぶれかけていた部の部員数を3倍にできました」。17歳のとき、宇野千代にはまる。「小説家だけど雑誌編集したり着物をデザインしたり、マルチな才能。思いついたらパッと行動する人です。私もフットワーク軽く、何でもやってみようと思いました」。3年生のときは文化祭企画部に参加する。「企画を出すとポンポン通りました。夜遅くまでみんなでひとつのものを作るのは本当におもしろかった。将来こんな仕事ができたらいいなとぼんやり思いました」。この夢は広告の仕事で叶う。「みんなで同じ方向を向いてひとつの広告を完成させるのはおもしろい。今も文化祭みたいだなと思うことがあります」

美大に入りたかったが、両親の猛反対で大多数の同級生と同じように系列大学に進む。「あきらめきれず1回だけの約束で美大受験のチャンスをもらいました」。大学と並行して画塾に通う。当時、美大の競争率は高く、2浪は当たり前。画塾には浪人生が多く、彼らのマニアックな話がおもしろかった。先生に「お前はデザイン科」と言われ、素直にデザイン科志望に。その頃からコンセプトワークが得意で、入試の「地図を見て高台から海側を眺めた景色を描け」という問題に独自の設定で描き、競争率22倍をパス。念願の美大生となった。

入学すると、やったことのないことをやろうと格安切符とユースホステルを利用して一人旅へ。「あちこちで、世の中にはおもしろい人がいっぱいいると知りました」。今も思わぬ場所で著名人に出会うのは珍しくない。「沖縄の竹富島で小説家の綿矢りささんと本の話で盛り上がって一緒に朝日を見たこともあります。音楽、映画、文学、漫画など好きなものが合うと、話が弾んで仲良くなれます」。美大の4年間で、たくさんの友達ができた。映画をたくさん観た。サブカルチャーにはまった。ミシガン大学に交換留学、3日間ぶっ通しの大学祭……。混沌としつつ、羽目を外して好きなことに浸かった。

「ケイコロール」
「ケイコロール」ロゴ制作後に作られたポスター。モデルは代表者ご夫妻。

先が見えない方がおもしろい

大学卒業後、東京の広告プロダクションに就職。すべてが勉強で刺激的だったが、徹夜続きで腰を悪くし2年半で退職。京都に戻り派遣会社に登録し、化粧品メーカーや印刷会社などさまざまな会社でデザイナーとして働く。2007年29歳のとき、大阪の広告プロダクションに転職。「マス広告を作っている会社に入れてもらってうれしかった」。代理店の仕事ばかりで毎日忙しく3日徹夜することもあった。大量の制作物を2ヵ月かけて毎日朝まで作るなどキツイ仕事もあったが、憧れていた仕事を数多く手掛けることができた。

2015年11月、水木しげる氏死去。翌年1月、東京の青山葬儀所での「お別れの会」に参列した。「あんな人でもやっぱり死ぬんだな、と思いました」。その年、9年間勤めた会社を退職。「19歳で美大に入ったとき、先が見えない方がおもしろいとわかりました。それで、どうなるか見えない方を選ぼうと独立を決めました」

独立後の最初の仕事はタワーレコード苫小牧店のライブ告知のポスターだった。依頼主の店長は10年前に岡山に好きな作家の個展を見に行ったときに出会った人で、夜通ししゃべって仲良くなり、時を経て頼まれたという。仕事は人の縁から入ってくる。アイデアがいる企画もの、コツコツ進める職人的な仕事、7歳から続けている書道を活かした仕事など、外賀氏に合う仕事が舞い込む。「知らないところで誰かが私を思い出して、『この仕事は外賀さんがいい』と選んでくれていると思うと、ありがたいなぁと思います」

最後にタイトル「好きには、勝てない。」への思いを語った。「デザイナーって途中でやめる人が多い。やめるのは健康上の理由だけではなく、給料が安いとか、やりたいことができないとか……。私がそういうことを経てデザイナーを続けてこれたのは、『やっぱりおもしろいよなぁ』という気持ちがあったから。マイケル・ジャクソンのバックダンサーだった方がオーディションに受かったのは、『マイケルを誰よりも好きという自信があったから』というようなことを言われていました。まずは『好きかどうか』がとっても重要」

自分の「好き」をもっと好きになって追いかけたら、この先何が見えるだろう。思わず仕事や生き方を振り返ってしまう、熱いトークだった。

イベント風景

イベント概要

好きには、勝てない。
クリエイティブサロン Vol.179 外賀寛子氏

多くの人は、好きということを蔑ろにしすぎているように思います。
10代は周りが当たり前だと思っていることなどお構いなしに、考えるよりも早く行動するということを心がけていました。随分といろいろなものに憧れて、焦がれてきたなと思います。40代になった今、時々思い出すのは、その頃の自分に胸を張れるかということです。
他の誰でもなく、自由に自分の好きを信じてきたことを、たいへん僭越ながらお話ししたいと思います。

開催日:2020年9月24日(木)

外賀寛子氏(げか ひろこ)

SINWA GRAPHIC
アートディレクター / グラフィックデザイナー

1978年、京都生まれ。
2002年、京都精華大学ビジュアルコミュニケーション専攻卒業。
東京、京都、大阪のデザインプロダクション、メーカーのデザイン部などを経て、2016年、山の日に独立。
広告を中心に、VI、パッケージなどの企画、ディレクション、デザイン、時々イラストと書もかいています。

https://www.mebic.com/cluster/sinwa-graphic.html

外賀寛子氏

公開:
取材・文:河本樹美氏(オフィスカワモト

*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。