目指すのは、クライアントにとって必要不可欠な存在になること。
植田 由貴子氏:(有)ユース

植田氏

グラフィックデザインやムービー制作、動画や音声でより高い訴求効果を発揮するデジタルサイネージなど、幅広い媒体での広告制作を行う有限会社ユース。フリーのデザイナーとして2004年に独立して以来、「いろんな可能性に挑戦したい」との姿勢を貫く代表の植田由貴子氏。そのスタンスは2010年に法人化、中国企業とパートナーシップを組み、拡大路線を歩み始めてからも変わることがない。
根底にあるのは、旺盛なチャレンジ精神と“機”を逃さない柔軟性。
風に揺れる柳のように、環境にしなやかに順応しながら、新緑を芽吹き続けるその生き方、これからを伺った。

「何かしなければ」の思いで巡りあわせたチャンス

絵を描くことが好きで、高校はデザイン科に進学。机上の勉強より、デザインすることが楽しかった学生時代を過ごす。しかし、芸術大学や専門学校への進学は両親の意向で断念。
「当時、私のあまりに漠然としていた目的意識を両親は悟っていたのだと思います。」
進学して学生生活を謳歌する同級生を横目に、デザインとはまったく関係のない製造業の会社に就職した。自分の望まない状況を不本意に感じながら、「日々のなかで悶々と、とにかく現状を変えたい、自分のやりたいことに挑戦したいと思いは募るばかり…。でもそれが何なのかわからないまま、社会人として1年目を過ごしました」と植田氏は当時を振り返る。

そして退職。気ままにアルバイトをしながら、自宅にあったパソコンを使いデザインの真似事をはじめた。

「学生のときは進路について物言いをした両親も、社会人になった私には何も言いませんでした。自分の好きなようにしなさいという意味だったんでしょう。でも、それがかえって無言のプレッシャーとなって…。何もしてない自分に、ますます焦りました」。
そんなとき、アルバイト先の同僚との世間話でインターネットを知った。Windows98が全盛のころのこと。
「驚きました。パソコン上の掲示板を通じて、会ったこともない人同士が交流している。不思議な感覚だったけど、現状が変わるかもと期待しながら“何かがしたい”と書き込みました」。数多のレスポンスがついた中にあった企画制作会社に面談を申し込んだ。遊園地やテーマパークを主なクライアントとするベンチャー企業で、場内のサインや広告、ソフトウエアの企画・開発を行っている会社だ。
「面接では何ができるか?と聞かれました。学歴も知識も経験も何もない、でも何でもやりたいと熱意を訴えました」。結果、思いのほかすんなりと就職が決定。かくして、植田氏のクリエイターとしてキャリアがスタートを切った。とは言え、当初は事務兼雑用係から。現場のことは何もわからないながら、ただクリエイター集団の中に身を置くことからの出発だった。

現状に満足せず、つねに前進

入社当初は雑用のみだったが、次第に仕事を任されるようになり、やがてクライアントと直接やり取りできるほどに成長。
「学んでから取り掛かるのでなく、学びながら仕事を進める。そんな状態でしたが、周囲にはさまざまなクリエイティブワークのプロフェッショナルがいて、その気になれば何でも学べる。分からない、できないからやらないと言うのは、通用しない職場でした」。そんな環境で鍛えられながらグラフィックデザイナーとして成長した。仕事の内容はグラフィックの画面デザインもあれば、商品プロモーションのためのチラシやポスター、テーマパーク内の来場者動線のためのサインなど、「デザインと言われるものは、なんでも対応しました」と植田氏。デザインソフトの使い方すらわからないところから始まり、自分流ながら仕事をこなせるように。しかし一方で、「何か物足りない」との思いも。
「さまざまな仕事を任してもらうようになり、自分でも自信がついてきたんですね。もっといろんな世界を見て、経験してみたかった」。
元来の好奇心の強さとチャレンジ精神がムクムクと膨らんできたのだ。

植田氏が次に挑戦したのは、海外で働くことだった。


ハワイでのインターンシップ時代には、数々のイベントTシャツのプリントデザインを手がけた。

「アルバイト時代、海外で働きながら暮らしたいと思ったことがあって。ある程度、仕事ができるようになったら、こんどはそれを実現してみたくなりました」。
そう思ったら即行動に移すのが植田氏のスタイル。調べた結果、海外インターンシップを利用して渡米することに。
「明確な理由はありませんでした。でも、仕事をおぼえたからといって、会社が私の一生を面倒みてくれるわけでもない。経験できることはチャレンジして、自分のひきだしを増やしておくべき。迷っている私を見て、そうアドバイスしてくれる人がいて」。
その言葉に背中を押されて退職。オリジナルTシャツ制作会社での仕事を得てハワイに渡った。英会話に自信があったわけではなく、多少の不安もあった。でも、未知の世界への期待に、躊躇なく選択できたと言う。

独立、そして法人化

ハワイでの1年半の暮らしでさまざまな経験を積んだ植田氏は、帰国後に広告制作会社に就職する。しかし、組織のしばりの中で仕事することの窮屈さを感じ、その職を辞することを決意。「自分の仕事スタイルを貫くためには、もう独立するしかない」と創業を果たした。
「正直、独立するのには不安がありました。まだ経験が不足してるんじゃないか、もっと学ぶべきことがあるような気がする。そんな漠然とした思いもあり、就職も考えました」。
そんな植田氏の背中を押したのが、実家で製造業を営む父親だった。
「迷うヒマがあるなら、さっさと次のアクションを起せ。自分で地に足をつけて前に歩むことに注力すべきだと言われました。創業者として、事業を継続させてきた父だからこその助言に、踏ん切りがつきました」。
創業した後もこの言葉は植田氏の仕事に対する姿勢に影響をおよぼす。
「できることを掲げて仕事をもらうのでなく、何でも相談してくださいというスタンス。人と人とのつながりのなかで、“こんなことして欲しいんやけど、できる?”と声を掛けてもらえる。そうしてジャンルや媒体、スタイルに関わらず、いろいろな仕事に携わらせてもらうことで、自分の可能性もどんどん広がってきたと実感しています」。
グラフィックデザインではチラシからポスター、リーフレットやノベルティの制作、ムービー制作など、さまざまなスタイルで商品や企業、業態のPR活動をサポートしている。また、2010年には事業の拡大を見据えて会社を法人化。パートナーと二人三脚でますます活動の場を広げている。
「永くおつき合いしているクライアントには、新たな価値を求めてもらえるような提案を心がけています」。形としてのデザインだけでなく、その根拠を掘り下げて明確に提示。「お客さまにとって、今必要なことは何か。そのことを一番に考え、企画を提案するのがモットーです」と続ける。そして、クライアントにとってなくてはならない存在になること。それが継続的な関係を構築すると植田氏は考え、取り組んでいる。

ニューヨークで触発され、目標は世界に


ニューヨークのギャラリーで開催された展覧会にアート作品を出品。

フリーランスとして活動し、やがて法人化して有限会社ユースに。その過程で、植田氏は大きな展望を描くようになった。それは海外の企業と仕事をすることだ。
「ハワイからの帰国後に行ったニューヨークで、現地のクリエイターのアグレッシブさに衝撃を受けました。創作意欲の高さと、それらを発信するバイタリティ、そして受けての感度の良さにも」。その刺激に触発されて作品づくりに取り組み、ニューヨークでのグループ展にも出品。さまざまな人との交流を拡大して帰国した。
仕事の場所は日本だけじゃない。そう考えたときに視野に入ってきたのが、日本に近い中国だった。幸い植田氏の父親が中国でも事業を展開していることから、現地で展開する態勢も万全だ。
「中国は世界中にコネクションを有して、日本にも近い。自分の可能性を試す環境が整っていた。今、やみくもにニューヨークに進出しても、よい結果を得られる確証はない。デザイナーとしての実績をもっと積み上げてこそ、次の展望を描けるはず。中国で大きなビジネスをする事が到達点ではなく、将来を見据えたその足がかりとして、中国での可能性に挑戦したいんです」。

今、やるべきことをコツコツとこなしながら、決して現状に満足せず、次のステージを展望する。マイペースに“自分流”を貫き、歩んできた植田氏の挑戦は続く。


ブランディングを担った中国・蘇洲の海鮮レストラン。ロゴから広告まで、販促デザイン全般を担当。

公開日:2012年07月30日(月)
取材・文:植田 唯起子氏
取材班:クイール 松本 幸氏