イイ写真を制作者と一緒に考える、商業フォトグラファーでありたい。
福永 浩二氏:PHOTO BANDITS

福永氏

物撮り、料理、インタビュー、風景、どんな被写体でも撮ります——。写真スタジオのアシスタントや情報出版社の専属フォトグラファーなどの経験を活かして、雑誌記事や広告、Webなどさまざまな媒体で活動を続ける福永浩二氏。特に得意分野を限定せず、器用にあらゆる撮影をこなすスタンスはどうして生まれたのか。フォトグラファーを目指したきっかけから、写真に対するこだわりまでを聞いてみた。

軽いノリからフォトグラファーへ!?

出身は三重県。地元の工業高校時代、将来やりたいことはとくになかったという福永氏。学校の紹介で工場の作業員募集に応募するも、あまりピンとこなかった。そんな時、友人が大阪にある芸人養成所に行くことを知り「自分も大阪に行きたい」と思うように。そこでとっさに思い浮かんだのが、カメラで写真を撮る仕事だった。
「自分でも何でカメラのことが思いついたのかはわからんかったけど、よくよく考えると、小学生のとき京都の修学旅行で撮った金閣寺の写真を先生に褒められたことがあって。それが記憶に残ってたんかなあ」
就職情報誌で見つけた大阪の写真スタジオの面接日は工場の面接とかぶり、迷わず写真スタジオを選んだ。結果、採用になり、フォトグラファーへの道に進むことになった。
「当時は絶対にフォトグラファーになりたいというより、軽いノリみたいなもんでしたわ。どちらかというと、大阪で友だちと遊びたい気持ちのほうが強かった(笑)」

仕事とモラトリアムの狭間をウロウロ

高校卒業後、大阪の西成で1人暮らしを開始。4畳半、フロなし、クーラーなし、トイレ共同のアパートから写真スタジオに通い、カタログ撮影のアシスタントをするようになった。
師匠の指導は厳しく、撮影で徹夜することもしょっちゅうだったが、わりと最初のうちから撮影を任されることもあり、やりがいはあったという。
「自分が撮った写真が、カタログの隅っこに載ってるのを見つけるとうれしかったしね。しんどかったけど楽しかったし、カメラの仕事は自分に向いてたんやと思います」
しかし、プライベートで付き合いがあるのは定職に就いていない芸人の卵ばかり。彼らと遊んでいるうちに、自分だけ働いているのがアホらしくなってしまい、1年で辞めてしまう。
しばらく、アルバイトをしながら友人と遊んでいたが、やはりカメラの仕事がしたいと再び別の写真スタジオで働くことに。これが、現在の仕事の基礎となった。
「撮影のライティングなど技術的なものはもちろんやけど、師匠の撮影を手伝ううちに、別のフォトグラファーとのつながりができた。業界でのネットワークが広がり、その関係が今でも続いていて、仕事の受注にもつながってます」
ただ、当時もまだまだ遊びたい盛り。3年働くも、結局は友人との遊びを優先してスタジオを辞めてしまう。それでも、最初は知り合いのつながりでフリーの仕事がけっこう入り、金銭的にも潤っていた。ところが、仕事を断って遊んでいるうちに、貯金も仕事もなくなってしまう。
「前のスタジオにいたとき、女の子とスタジオの前を通ったら、たまたま師匠と鉢合わせて『お前、今日カゼで休んでたんちゃうんか!』って怒られたり(笑)。正直、仕事に対して真剣に向き合ってたとは、まだまだ言えない時代。20代前半で、とにかく若かったんですわ(笑)」
そのうち家賃も払えなくなり、アパートも引き払ってしまった。逃げるかのように長野県でスキー大会の撮影のリゾートバイトを見つけ、住み込みで働くことに。
スキーシーズンが終わると、結婚式や夏のテニス合宿の撮影。空いた時期に大阪に帰って、以前の仕事に対する姿勢を謝ることで再び仕事がもらえるようになった。

写真に新たな面白味を見出す。


撮影を担当したフリーペーパー

こうして長野と大阪を行き来する生活が3シーズンほど続いた後に、また転機が訪れる。
「情報出版社の、専属フォトグラファーの仕事を見つけてね。現状でも生活はできていたんやけど、仕事の幅が広がればと思ってやることにしたんです」
そこで、さまざまな媒体の写真を経験。写真スタジオ出身ということで、しっかりした写真の基本を見につけていたこと。さらに、ブローニーやシノゴ(4×5インチ)といった中・大判フィルムも扱えるということで重宝される存在に。そのため、物撮りやモデル撮影のほか、インタビューや建物、海外撮影などこれまで経験してこなかった撮影も任されるようになった。さらに、各媒体の制作担当者とディレクションをして写真を撮ることに、新たな面白味を見出すようになる。
「それまで自分なりに考えて写真を撮ってはいたけど、編集者や制作と一緒になって企画に見合った写真を撮る経験がほとんど初めてやってね。打ち合わせや現場で、こんな角度から撮ったらいい、こんな表情がいいんじゃないかとあれこれ意見を交わして撮るのが楽しくて。ただ言われたものを撮るのではなく、みんなで一緒になってイイものを作り上げていこうという仕事の進め方が自分に合ってたんやと思うわ」
仕事も人脈も広がった4年後に、再びフリーとして独立。長野のアルバイト時代から名乗っていた屋号「PHOTO BANDITS」を掲げ、知り合いのフォトグラファーと一緒に北区で事務所を立ち上げた。以来、一度事務所を移転するも変わらぬ活動を続けている。ちなみに屋号の由来は、海賊に憧れていたから。「盗る」「撮る」の語呂合わせもいいと思って決定したという。ただ、海賊の英語表記は「PIRATES」であり、「BANDITS」が山賊や悪漢を意味していると後に知ったのは内緒の話だ。

難しい注文にも応えたい。


東天満にある事務所

「自分はアーティストではない」と言い切る福永氏。個展を開催した経験もないし、休みの日はカメラを持ち歩くこともない。写真はあくまで、食べるための手段だ。だからこそ、商業フォトグラファーの職人として、周囲の期待に応える写真を撮っていきたいという。
「写真に対するこだわりがないというのが、こだわりかな。ただ、『こんなもの撮ってくれ』といわれてば何でも撮るし、難しい注文にも応えたい。やはり制作側といろいろ話し合うことでいいもんができると思うし、人の心を動かす記事や広告ができるんやと思う。昔よりは、多少マジメに仕事に取り組むようになったかな(笑)」

公開日:2011年11月18日(金)
取材・文:内藤高文 内藤 高文氏
取材班:有限会社ガラモンド 帆前 好恵氏