オモロいか、オモロくないか、まずはそこです。
中島 淳氏:(株)140B

雑誌やガイドブックの編集者として15年以上、出版社の営業マンとしても5年のキャリアをもち、現在は、「ななじゅうまる」の編集長をされている中島さん。これまでのこと、これからのことをお聞きしました。

エルマガジン編集部で、1日3000通のハガキ整理からはじまった。

中島氏

大学は神戸外大イスパニア語学科。6年間、山に登ったりしてぶらぶらし、最後の2、3年間は酒場で働いていたそう。「そこのお客さんに当時神戸新聞出版センターの常務がいて、紹介してもらったのがエルマガジン編集部。アルバイトで入って、朝10時に会社に行って毎日3000通ぐらい届くハガキの整理をしていました。午後からは電話をかけて、欄外の下のほうを埋めたりするような仕事なんですけど、あるテーマで120種類の原稿を書かなければいけないんです。そこで知らず知らずのうちに仕事を覚えさせてもらいました」。

当時の関西の雑誌で人気を分けたのはプレイガイドジャーナル(=通称プガジャ)とエルマガジン。後にぴあが台頭する。「プガジャは映画の感想をジャズ喫茶でボショボショと話しているような、読者と親密でマイナーなものを載せることを恐れないような空気があったんです。それに比べてエルマガは、若い子が難しいことを言うというよりは、もっと楽しいことをしようというナンパな空気でした。でも編集してものをつくるのにワイワイがやがやという空気じゃなく、ちょっとおとなしい雰囲気でした。それを知ったのは会社が84年にシティマニュアルというエルマガの別冊を出したんですが、その編集者で、めちゃくちゃ声がデカくて政治のことも音楽のことも店のこともよく話をする人間が一人おったんですね。なんじゃこいつは? と。あとから聞くと同い年。江(弘毅)は4年で卒業しましたから、私の二年先輩やったんですよね。まさかその20数年後に、一緒に会社を辞めて独立する相手になるとは思いませんでした」。

「今までにない本」には「今までにないタイトル」。

「ミーツに移ってからは、最初に旅の特集を担当しました。どこかへ行きたい96年夏というテーマだったんですけど、色校正のときになんか違うなと思って、近場の極楽というタイトルに代えたんです。2年後には別冊になりました。ネーミングの面白さもこのあたりから実感できるようになりました。後に販売に移ってからのことですが、『行楽ブック』として出した本が惨敗してしまうんですね。そのときに今の行楽ってなんやろとみんなで考えました。朝からお弁当をつくったりして、気合入れてテーマパークに出かけたりするのではなく、思い立ったその日の午後、ちょっと行って楽しめるような、そういうものをつくろう、と。それに『日帰り名人』というタイトルをつけて出すと大ヒットしたんです。面白いもんですね」。

取材風景

2000年の秋、エルマガの編集長を辞めて、広告部の次長になる。「広告営業担当になると、取引先から『中島さんには騙されたわ、効果ないやん』とかはっきり言われるんですよ。編集者に言わないことを言ってもらったことは、私としてもうれしかったんです。広告部の時から、販売部数を左右する、販売部の仕事も面白そうだと思っていました。スポンサーさんより読者から支持されるのはムチャクチャ楽しそうに見えましたからね。日帰り名人、京都本、大阪本、阪神間特集、北摂特集などを提案できたのも販売に移ってからでした。例えば阪急山田駅前の書店で、いつものサヴィなら実売15冊ぐらいなのに、サヴィの北摂特集では800冊も売れたんです。取次店はそんな数が売れるとは思わないですから、エルマガジン社で配本+8000部を刷って手元で持っていたんですよ、いつでも売れるようにね。社内では相当反対されましたが(笑)、これが販売の力です。結果全て売り切りましたから」。

今、面白いものはこれだと提示できるかどうか。

「販売部は10万部売れるものを30万部積んで売り切る、そんなダイナミックな仕事だと思うのです。販売と編集の息があうかどうかで本の部数UPに大きく影響する。そのポイントは、編集の時、販売とよくケンカしたことを思い出して学んでいました。この表紙では売れない、このフレーズでは、といくら販売が編集に感性の違いを主張しても伝わってこなかったし、編集としても理解できなかった。『今、実際に売れている表紙はこれだし、こんな方向でつくればこれまでにないものができる』と提示できるかどうか、それがすべてなんです。だから自分が販売担当になって、編集に具体的に提示してきたつもりですけど、伝わったかどうか(笑)」。

中島氏

2006年2月にエルマガジン社を退職。「140Bではフルタイムの従業員は当初自分だけだったから、机拭きも、お茶出しもしましたよ。もちろん企画書を作って、タイトルをひねりだすことはずっと変わりません。当初は、病院の入院患者向けの通販カタログ付き冊子『ほすピタ!』を編集したり京都の大学の冊子を編集したり、古巣のエルマガの仕事をしたりと細々とやっていたので、最初のバランスシートはマイナス続き(笑)でしたね。『ななじゅうまる』は宣伝会議の生徒さんに勉強の一貫として課題を出したら、こんなすごいタイトルがあがってきたんです。やられた! って思いました。この媒体のおかげで取次コードも早々にとれましたし、すごくありがたかったです。でも、今後は、早く自前の出版物を出したいですね」。

何を書いて何を書かないか、それがもっとも大切。

「先日、京都の錦市場で取材したのですが、これはもう言葉抜きに面白い。そこの人間関係もすごいわけですよ。私もやっぱり現場が好きですね」。

140Bの社内には縦1m20㎝、横4m50㎝の特注ホワイトボードがある。「タイトルはいつもここで決めていきます。その試行錯誤の段階を、お客さんにも書いたものを見てもらえばいいと思っているんですよ。タイトルを決めるときに大切にしているのは、“ひき算でモノづくりをする”ということ。何を書いて何を書かないか、それがもっとも大切なんです。『三度目からの京都通本』(エルマガムック)というのも、リピーターでも2回目まではよくあるけど、3回目、4回目はあるのかなあ、…そんな話をしていて辿り着いたんです。何を目指して、何を目指してないのか、を考えてね。これからも街系だけにこだわっていません、いろいろ面白いことをやっていきたいですから。オモロいか、オモロくないか、それが弊社の生命線ですし」。

公開日:2008年12月04日(木)
取材・文:狩野哲也事務所 狩野 哲也氏
取材班: 真柴 マキ氏 / 株式会社ビルダーブーフ  久保 のり代氏