キャラクターはメッセンジャー
櫻井 均氏・櫻井 紀世美氏:(株)桜井デザイン
あちこちで目にする、愛らしく親しみやすいキャラクターたち。
これらのキャラクターは企業や商品、サービスなどのメッセンジャーとして重要な役割を担っています。
「言葉の壁を越えて、人々にHAPPYな心を届けたい」というポリシーで多くの人々に愛されるキャラクターを次々と世に送りだされています。
スタートはガス器具のデザイン
小学生のころ、自動車雑誌でデザインを公募するコーナーからカーデザイナーという職業と出会った櫻井さん。「自分の将来はコレや!」と目指す先を見つけました。結局、車のデザインは競争も激しく、幼いころの夢は諦めましたが、関連して工業デザインの方向へ進みます。その後、ストーブやコンロなどガス器具をデザインする会社に入ったのが、クリエイター人生の始まりでした。
ところが、その会社はあえなく倒産。縁あって100人規模の有名なグラフィックデザインの会社を紹介されますが、グラフィックデザインの経験のない櫻井さんは「自分にできるのかな」と不安でした。が、その会社の社長が先輩だったこともありすんなり採用されます。
首切りの立場が一転
しかし、それまで工業デザインの経験しかなく、グラフィックデザインについては「版下が何かもわからないほど」。そのうえ「あまり協調性がある方ではありません」と、何でも自分ひとりでやろうとするので仕事もなかなか覚えられません。そうこうしてるうち3ヶ月の試用期間が迫って、この先の不安も募ります。さらに、たまたま通りがかった会議室で自分の首切りの話を耳にしてしまいます。「凹みましたよ。自分はアカンのかなぁて」。
そんなおり、イラスト付きの新聞広告の仕事が舞い込んできます。「グラフィックデザイナーなら絵も描けるだろう」と思われがちながら、意外に絵が描ける人がいない。そこへ「テクニカルなイラストは描けます」という櫻井さんがササッと描いて見せ、みんなをアッと驚かせます。
それを機に去就が微妙だった立場も一転。「それまで『辞めさせようか』と言われていたのが『おってくれ』となったんです」と重用されるように変わります。
また転職、そして独立
それからはカンプの仕事が回ってくるようになり、同時にグラフィックのスキルも身に付けました。しかし、「週に3日は徹夜」というキツイ環境。あまりの激務で救急車で病院へかつぎ込まれたことも。「これはアカン」と2年半勤めて辞することになりました。
再度の転職に際してまたまた縁があり、工業デザイン会社のグラフィック部門からお呼びがかかります。その会社では、働く環境も仕事の内容も満足できるもので「いろんな仕事をさせてもらい、やりがいもありました」と、充実の日々を過ごします。
その一方、会社の仕事とは別に櫻井さんご指名の個人の仕事が増えてきます。だんだん個人の仕事のウエイトが高まって、「このままでは体がもたない」と独立に踏み切ります。奥様の紀世美さんも「私も手伝うから」とバックアップを申し出てくれ、以後、奥様との二人三脚で桜井デザインの歩みが始まります。
デジタル化が業界の曲がり角
その後、東天満にオフィスを構えて社員も雇うようになりますが、多くのグラフィックデザイナーがMacを使い始めた1993年ごろから仕事の中身も変化しはじめます。
デジタル化になじめなかった櫻井さんはアナログで、コンピュータはもっぱら社員まかせ。「発注者側もコンピュータを扱いますから、ちょっとしたものなら自分でやってしまわれます」と、だんだん仕事の質も量も変わりはじめます。さらに「メーカーさんの要求は厳しくなるし、ギャラは厳しくなるし……」と、業界内での淘汰も起こりだします。そういうこともあって体を壊し、方向転換を目指して今のオフィスに移られたのが6年前。「当時はいろんな面でしんどかったです」と振り返ります。
楽しい仕事だけをする
その後は「体を壊したら本も子もない」と、今までの仕事のほとんどを断って楽しい仕事だけをするスタンスに。「これで儲かれば、なお楽しいんですけどね」と、大好きなキャラクターデザインの仕事へと切り替える方向に。「これまでずーっと走り詰めという感じできましたので、今後は自分の好きな仕事でと思っています」と、団塊の世代の櫻井さん。今は明るい奥様と一緒に楽しくお仕事をされているのがうかがえます。
公開日:2008年07月28日(月)
取材・文:福 信行氏
取材班:株式会社ファイコム 浅野 由裕氏