紙媒体のグラフィックに、もっといろいろ挑戦したい。
張本 勇氏:ハイ・グラフィーク

張本氏

西区京町堀のオフィス街。西船場公園の木漏れ日が外壁に映える古い建物「西船場ビル」に、多くのクリエイターが入居すると聞き、今回は2階に入居するデザイナーの張本氏にお話をお伺いした。外国語大学に入学したもののデザインの道をこころざしたのは、雑誌「ぴあ」がきっかけだったとか。

雑誌「ぴあ」演劇ページの編集担当だった。

「中学生の頃から雑誌ぴあが愛読書で、記事の端っこにある、はみだしコーナーまで熟読するぐらい好きでしたね」と語る張本氏。大学生の頃からアルバイトでぴあ編集部に在籍した。演劇ページの担当で、役者さんにインタビューして記事を書くこともあったという。雑誌の仕事が楽しく、大学を中退してまでのめりこんだ。

演劇ページの読者に舞台のチケットなどをプレゼントするページがあり、イメージにあわせてサムネイルを描いた。その描いたラフが良いデザインに仕上がる様子を見て、デザインの仕事に関心を寄せるようになってきた。デザインの経験はなかったものの未経験で働けるところを探し、20社ほど訪問した。ことごとく全滅だった。

企画、編集、デザインをまるごと担当した。

ぴあ編集部内の上司の紹介で、デザイン未経験のまま制作会社で働かせてもらう機会に恵まれた。そこではぴあの誌面デザインの仕事や、そこから派生した某商業施設のフリーペーパーなどを担当。
「デザインだけでなく、ページの企画書をつくるところから、編集など全部やっていました。夏なので水着特集やりましょうとか、そういうことを考えるのが好きでしたね」。

張本氏

デザインは現場で学んだ。雑誌はアートディレクターのポジションに立つ人間が、ページ単位でいろいろなデザイナーに割り振り、アドバイスをすることが多く、さまざまな現場でスキルを学ぶことができたという。たくさんの媒体に関わることで、他社のデザイナーのアドバイスを受けられる環境や、同世代のデザイナーからの刺激がデザインのスキルを向上させた。
「当時は働きながら、友だちといっしょにフリーペーパーもつくっていました。すごく成功している人たちも、その世界に踏み込んだきっかけがある。その話を聞きに行こうというもので、一色刷りで会社のパソコンを借りてつくっていました。デザイナーだけでなく、いろいろなジャンルのクリエイティブなことをしている方々から刺激を受けていたと思います」。

メインクライアント崩壊の危機!?

30歳で独立。当時、学生時代やぴあ編集部時代の友だちが、関西の有名な媒体で編集を担当するようになっていた。
「ファッション誌のカジカジとか創刊まもない頃から携わっていました。求人誌の仕事もよくやっていて、そこでいっしょに働くデザイナー仲間と食事中に事務所を立ち上げる話を聞いて、『ほな入れてや』と言ったら『いいよ』となって新しいデザイン事務所に入ったんです」。それが現在のカーソル。関西の情報雑誌を手伝うようになり、友だち経由などで仕事の幅がどんどん広がっていった。


一冊まるごと担当しているアウトドア雑誌。

しかし順風満帆だったわけでない。メインクライアントだった雑誌が突然休刊になってしまった。
「メインの仕事だったのでどうしよう!と思いました。でもちょうどそのタイミングで別の求人誌媒体のデザインを紹介されたんです。その仕事はカーソルでの仕事と競合するので、新しく事務所を一人で構えることになりました」。

ビル内で、クリエイティブクラスター?

事務所入り口

新天地は西船場ビル。入居するカメラマンさんの紹介で辿り着いた物件だった。
「ここのカメラマンさんが、ひとつの小さな仕事をするのではなく、ライターやカメラマン、デザイナーたちがユニットを組めば丸ごとのパッケージで仕事を受けれるので、ユニットとして大きな仕事を受けようと、いろいろ紹介してくださるんです。すごく面倒見の良い方なんですよ」。

一方、前述のファッション誌の編集者たちが東京でアウトドアファッション誌の編集を担当することになり、新しい媒体を一冊まるごと受ける仕事など経験した。
「一冊まるごとやるほうが、前後のページにどんな企画があって、どんなテンションのページがくるのかがわかるので、次のページはこんなふうにデザインしようと考えることができて楽しいです。これからも雑誌はもちろんやっていきたいけど、気持ちとしては書籍でもポスターでもチラシでも、紙媒体のグラフィックをもっといろいろやりたいですね」。

日々時間に追われてなかなか新しい分野に着手できなかったり、編集担当者と打合せするだけで他のクリエイターの知り合いが少なくなってきたと語る。今後はメビックを利用して、できるだけ様々な刺激を受けたいと語った。

公開日:2010年09月17日(金)
取材・文:狩野哲也事務所 狩野 哲也氏
取材班:株式会社ジーグラフィックス 池田 敦氏