情熱のある人たちと限界まで知恵を絞り、汗をかいているのが好きなんです。
浅香保 ルイス 龍太氏:(株)ジョーのガレージ

浅香保氏

文学サークルをつくるほど文章を読むことや書くことにのめり込んだという高校時代のルイス氏。一方で自分のことをわかってもらえない疎外感を感じ、反抗的なものに惹かれてロックミュージックと長くつき合っていた。高二で劇団維新派に出入りし、世の中の真ん中とは外れたところにいたと懐かしむ。慶應大に入学したものの、学ぶことはここにはないと考えて3週間で退学した。大阪の知り合いのツテで文章を書く仕事を手伝うようになった19歳。その後のルイス氏の人生は、常に激動だった。

リクルートの企業文化が、働くことの楽しさを教えてくれた。

19歳でリクルートの専属コピーライター兼ディレクターとなったルイス氏。新卒者向けリクルートブックを制作するのが最初の仕事だった。
「世のお父さんたちは毎日会社に行って何をしているのかすらわからなかったですね。そんなときにまっさらな状態でリクルートの企業文化を一身に浴びました。会社の人たちと飲みに行った先でも『担当している企業がこんな悩みを抱えているんやけど知恵貸して!』とか仕事の話が盛りだくさんで、仕事が楽しくて楽しくて仕方がなかったんです」。

取材風景

体力気力とともに限界まで仕事をした。毎月、見開き2〜4pの企業広告を60〜70社分、動かしていた。
「多くの企業経営者から直接話を聞くことができました。今思えば19、20歳の若造がそんな方々と採用計画の話ができる状況自体、ラッキーだったと思いますね」。

空前絶後の忙しさ。夜12時に打合せして次の日の朝7時に3本アップするなどよくあることだった。月に1回自宅に帰ることができるかどうかという生活で、楽しかったけれども、身体が持たなくなっていた。

海外での生活が、生きる意味よりも生きる術に興味の対象を移してくれた。

ちょっと休みたいと思って2週間ほどインドに行くと宣言し、海外旅行に出たという20歳のルイス氏。少し休みたい、仕事を離れたくない、というないまぜの気分を抱えたままの旅だった。出国前夜はリクルート事件がニュースに流れる前夜でもあった。
「海外にどっぷりはまってしまって2週間のつもりが3年半の地球横断旅行になりました(笑)。世界はあちこちで矛盾していて、でも矛盾しているからこそ豊かなんだろうと実感した旅行でした」。

生きる意味よりも生きる術に興味の対象が移っていたという。
「アジアの路上で石を売っている人を見て、どうやっても生きれるんだと思いました。自分のおならに自分でむせってしまうような観念の自家中毒に陥りそうになるところを、押しても引いても手応えのあるリアルなリアクションと付き合うことでタフになったような気がします」。

旅の最終沈没地はペルー。すでにスペイン語をマスターしていた。バックパッカーが集まる宿で6代目の管理人となり、インカの財宝を探してる冒険家や、鉱山を買って一山儲けようとしている人など、ぶっ飛んだ夢を持った人たちと多くの出会いがあった。日系人のコミュニティでは後にお世話になるフジモリ氏とも出会った。そして現地の女性と結婚し、名前にクリスチャンネームが加わった。22歳のことだった。ペルーの農業大学でアンデスアマゾンの有用植物を研究し、卒業後も地元の農場で働いた。
「仕事場の研究室のボスであったフジモリ氏がペルーの大統領になりました。日本の花博にもフジモリ氏が呼ばれていたのですが、彼が忙しいので代わりに代表で行ってほしいと言われ、ペルー政府代表代理として一度帰国しました(笑)」。

西区のドンが、商売人にしてくれた。

取材風景

畑仕事に専念していた27歳の頃、父親が亡くなった。日本に帰国し、父親の経営する業界紙出版業を継ぐことになった。父は3000万の借金を残していた。そして広告制作、雑誌編集などの仕事を再開することになる。この窮地に運命的な出会いがあった。
「飛び込み営業で西区のドンのような社長と出会いました。当時70歳ぐらいの方なんですが、仕事をするようになって、一緒にご飯を食べるようになり、親父の借金の話を聞いてから実の息子のように厳しくかわいがってもらいました。毎朝9時に社長室に帳簿を持ってこいって言われるんです」。

そこで帳簿のつけ方や銀行へのお金の借り方、役所との付き合い方など、商売人としてのいろはを叩き込まれた。
「ぜんぜんうまくできないと、泣いて怒ってくださるんです。大阪の財界人の寄り合いに連れられて、片っ端からオレの最後の息子ですねん、と紹介されるんです。なんでこんなに良くしてくださるんだろうと思って、一度聞いてみたことがあるんです。そしたら、『ひとりで頑張っている奴には限界がある。ある程度まで昇ってきたら、そこからもう一段上に上げてやるのは先輩の務めやねん』と言ってくださって。今でも感謝しています」。

街の人々の、情熱のある人たちとのおつきあいが楽しい。

ペルーで出会った奥さんは看護婦だった。帰国すると日本で働くための免許がなく、震災時はボランティア活動に専念されていた。その後、国境なき医師団に入り、アフリカのニジェールで看護活動をした。そして現地で内戦に巻き込まれて帰らぬ人となってしまった。
「もう茫然自失。なんもやる気が起こらなくなって仕事をせずにぼーっとしてました。あの時、一度、自分も死んでいたかもしれません」。

半年後、西区の自宅を引き払い、心機一転で北区へ引っ越しした。細々と仕事を再開し、徐々に仕事量を増やしていった。代理店との付き合いが増えていき、黙々と仕事をこないしていた。父親の借金も返済できた頃、代理店が相次いで倒産した。売り掛け未収が増え、支払いが滞るようになった。完済した借金なのに、再び借金を背負うはめになる。


大阪市北区商店会総連合会

直接クライアントとお仕事しなければと思っていた頃、商店街の人たちと出会った。
「地域をもりあげたいという商店街の会長さんに出会いました。会長さんの活動をもっとオープンにし、北区の中で存在感を出そうと頑張りました」。

梅田の芝田商店街を広報する活動に専念し、1年で結果が出て、全国から問合せが来るようになった。そこから地域の商店会、町会など、今までクリエイターが入り込んでいなかった領域の手助けが楽しくなった。
「地域の情熱のある人たちとおつきあいをし、限界まで知恵を絞り、汗をかいているのが好きなんです。結局リクルート時代からさして変わっていません。笑ってくれる人たちのために働くのが楽しいんです」。

お客さんを徹底的に観察し、公私混同するくらいにつき合って、お客さんが抱えている課題を見つけ、広告や広報の立場から課題を克服する手助けしていきたいと語る。
「西区のドンもそうですが、自分自身、オジィやオバァが好きなんです。昔の話を聞くことや、ワイワイするのが楽しい。放置自転車や防犯のことなど、まちづくりに関する仕事に今、力を入れています。新御堂筋を2日おきに掃除しているシルバー世代の方とか、地味だけど大切なことをもっともっと広報していきたいんです。やっと自分の居場所を見つけたかなあと思っています」。


放置自転車問題に取り組む活動は、行政と協働で行っている。

公開日:2010年09月22日(水)
取材・文:狩野哲也事務所 狩野 哲也氏
取材班:株式会社ジーグラフィックス 池田 敦氏