誰かの焼き直しではなく、オンリーワンの写真が必要
安田 行宏氏:ESCAPE

天神橋筋六丁目の交差点をさらに北上したところに、工場が立ち並ぶ長柄地域がある。淀川の堤防はすぐそこの場所。この界隈は倉庫の一角を改造した写真スタジオが多い。撮影事務所ESCAPEの安田さんもその一角で、日々シャッターを切っているカメラマンのひとりだ。どんなふうに仕事をはじめたのか、現在の活動内容などをおうかがいしました。


カメラマン2名、レタッチャー1名、営業&プロデューサー1名でシェアしているオフィス。

「具体的にカメラマンになろうと思ったのは高校三年生ぐらいからですね。小学校の頃から遠足とかにカメラを持って行ったりしていて撮影することを楽しんでいました。高校のときに写真部に入って、ほとんど風景ばっかり撮影していましたね」と語る安田さん。高校生に一眼レフは金銭的に辛い。実家の看板屋の手伝いで小遣いを稼いだ。

そして大阪芸大に入学し、風景写真を撮るゼミに入る。当時の憧れは山岳写真家の水越武さん。モノクロの写真がものすごくきれいだと語る。
「それで機材を担いで、いきなり立山に登ったんですよ、同期の者とふたりで。アホですよね。季節的には夏でした。けっこう涼しかったんですけど、初日に台風がやってきて(笑)、結構苦労して崖を鎖で降りていくようなところを経験しました」。そのうちの一枚が卒業制作になる。しかし、卒業後の山岳カメラマンの道は考えていなかった。「関西では山岳ではご飯は食べられないからです。大学に入ってから現像所でアルバイトしました。

現像所の営業さんの紹介でカメラマンさんのアシスタントを探しているから、ということで何件か修行に行きました。一番最初に紹介されたところがピアノの発表会とかを撮影しているところでサブカメで入りました。ギャラは5000円。その当時としては、現像所のバイトの時給が600円でしたのでうれしかったですね」

朝8時半から夜終電までの仕事を経験して、次のステップアップを考えた。

「大学を卒業してフリーアシスタントしていた時、現像所の所長さんからの紹介で、関西のレンタルポジ(ストックフォト)のカメラマンで売り上げ的に10本の指に入るような方を紹介していただいたのですが、アメリカ西海岸やモルジブまで撮影に連れて行ってもらいました。バブルでしたね?、バブってました(笑)。

アメリカの現地にそのカメラマンさんの知り合いがおられたんですけど、60年代のアメ車を借りてきて、ビバリーヒルズの豪邸に車を止めてイメージの写真を撮ったりするんですよ。こんな風なカメラマンになりたい!って思いましたよ」


印刷屋の倉庫を改装した撮影スタジオ完備。

湾岸戦争が始まり景気の先行きに不安を感じて就職を考えた頃に大学で同期だった方から制作会社に誘われる。待っていたのはチラシの商品撮影。スーパー、ホームセンター、食品、ブランド関係、ありとあらゆる撮影を経験する。チーフに昇格してから一番多いときで外部を含めて8人のスタッフを指揮した。

「もう缶詰状態のスタジオでした。やりがいっていうか、発展性はすぐになくなりましたね。我慢強さと、段取りのつけ方が身につきましたね。年末になってくると朝8時半に出社して、終わるのが12時ぐらいかなという感じでした。ほぼ工場でした。クリエイティブではなかった。そこの会社で技術的に得るものがなかったですから、もうちょっと違うことやりたいなと思いましたね」

マジメに取り組んできたことが、後の評価につながった。

退職を考えたころ、足を手術することになる。「次にどうしようかなと思っていたときに、前の制作会社のほうでやっていたクライアントをまかせるので、撮影を外部でやってくれへんかなと頼まれたんです。今もその仕事は自分のペースでやらせてもらっていて。実はあんまり営業まわっていないんですよ。辞めた会社の仕事がベースにあって、デザイナーさんが辞めてほかのとこに行ってそこから仕事がきたり、て感じで回ってましたね。

僕らがいてた制作会社の当時の支店長さんに言われたことがあるんですけど、同じように辞めたカメラマンたちは、友だちづきあいはできるけど、仕事は出されへん。でもお前は仕事に関してはマジメに取り組むから仕事を出せる、と言ってもらったことがあるんです。制作会社在籍当時、なるべく早く仕事を終わらせようというのではなくて、忙しい中でどうやってクオリティをあげるか、ということを念頭に働き続けたから今の評価があるのかな、と思います」。

とはいえずっと調子がよかったわけではない。「一番仕事量が減ったのはこの場所に事務所を構えた頃。そんなときにリクルートさんの社内部署でのカメラマン募集を見つけて、そこからじょじょに増えだしたんです。でも失敗もたくさん経験しました。言えない様なものもあります(笑) デジカメにうつって2年目ぐらいの頃には、ロケに行ったらデジカメが壊れてたこともありましたね(笑)」

誰かの焼き直しではなく、オンリーワンの写真が必要だと感じた。

改めて写真に取り組もうと思ったのは2008年の夏。憧れの写真家の撮影現場に立ち会ったことで、今までの考え方を大きく揺さぶられた。

「大阪の写真家の方で野波浩さんという方がいらっしゃるのですが、撮影とかどういう感じでやっているのか興味があって、知り合いの紹介で見に行くことができたんです。そこで野波さんの作品に対するものの考え方を聞いて改めて写真に取り組まないといけないなと思ったんです。今まで作品というのを撮ってきたけど、どっかで見たものを自分で焼きなおしているだけじゃないか、そうじゃなくてオンリーワンを出していかな、あかんのちゃうかな、と考えるようになったんですよね」

そして安田さんは動き出した。現在、仕事の合間に作品撮りに勤しみ、個展を開催する準備を整えている。

安田氏

公開日:2008年12月01日(月)
取材・文:狩野哲也事務所 狩野 哲也氏
取材班: 福 信行氏