「どうしたらいいかわからないこと」と向き合うための「私的プロデュース論」
クリエイティブサロン Vol.98 山納洋氏
大阪ガスの社員でありながら、勤続年数の大半を出向生活で過ごし、関西クリエイティブシーンで注目される数々のプロジェクトの種まきをしてきた山納洋さん(実はここメビック扇町の立ち上げに関わった張本人でもある)。プロデューサーの自覚もないままに、人がつながる場づくりを始めた日々と、そこからつかんだ、「どうしたらいいかわからないこと」と向き合うための心得とは? 自身のプロデュース論を地で行くように、会場からも多くの言葉や思いを引き出しては、それに応えていくさまが印象的だった。
プロデューサーとしての原点、Talkin’ Aboutとコモンバー&カフェ。
定義が漠然としているゆえに、とらえどころのない「プロデューサー」という仕事。これまで多くの人が持っていたプロデューサーのイメージといえば、演劇や映画、テレビといったエンターテイメント業界で「創造の場に君臨する王」として、人やお金を動かす人、だろうか。しかし今はもっと広い意味で「新しい価値観を持ってヒト、モノ、コトを統合し、新しいビジネスを創造できる」プロデューサーが求められている時代。そんな背景を共有した上で、山納さんの語りはまず2000年当時にさかのぼる。舞台は、大阪ガスグループ運営のもと、関西を代表するカルチャースポットとして名をはせていた扇町ミュージアムスクエア(OMS)。山納さんはそこに勤務しながら、場の活性化のため「扇町Talkin’ About」という企画を始める。
「5~10人ぐらいでテーマを決めてひたすらしゃべる集まりです。SNSもない時代なので告知チラシを作って劇場で配るだけで、集客というより3人集まればいいか、と“落とし穴を掘って待つ”感覚。それぐらいハードルの低いところから始めて700回実施しましたが、100回ぐらいやったところで新聞が取材してくれて、認知が広がりました」
映画・演劇・音楽・漫画などテーマは何でもあり。同好の士が集い語り合うスタイルから始まった「知を共有する場」Talkin’ Aboutは、OMS閉館後も舞台を変え姿を変え、今なお発展中だ。
さらにTalkin’ Aboutで生まれた人のつながりは、別の動きに飛び火していく。あるバーが閉店することになり、思い入れあるその空間をなんとか残せないかと考えた山納さん。有志による日替わりマスター制で店を回してみようと2001年に始めたのが「コモンバー・シングルズ」であり、続いて2004年に同じ仕組みを使って作ったのが「コモンカフェ」だ。演劇関係者や編集者、デザイナー、会社員、学生など、さまざまな人種が混じりあい運営をシェアする、本当の意味でのパブリックな空間が誕生した。
「こういった企画は、僕がプロデュースという言葉さえ知らないままにやっていたことでした」と、山納さんは当時を振り返る。
「ルーティンでないものを作る」山納流プロデュース論ができるまで。
Talkin’ Aboutやコモンバー、コモンカフェの影の立役者となった山納さんには、次第にさまざまなビジネスプロデュースの相談が持ち込まれるようになる。メビック扇町でクライアントとクリエイターの相互理解を促進することしかり。大阪府産業デザインセンターのもと、クリエイターや専門家の力を借りて、付加価値の高い商品づくりを志す企業をサポートする「デザインプロデュース向上委員会」の活動もしかり。ほかにも大阪市都市計画局からの依頼で「まちづくりの課題を話し合うラウンドテーブル」として「御堂筋Talkin’ About」を行ったり、一般財団法人大阪デザインセンターが主催するビジネスデザイン塾「co-design」で塾長のひとりを務めたりと、多岐に渡る活動を続けてきた。
山納さんは、プロデュースを「ルーティンではないものを作る」行為だと位置づけ、それゆえに「どうすればいいかわからない時に、どうすればいいかを見つける能力」が必要だという。
「最初からコンセプトなんて立派なものがあるわけじゃなく、まず困りごとがあるわけです。そのバグを解決する方法がわからないから、何か知ってそうな人に聞きに行く。そんなことを行脚のように繰り返して雑談を続けるうちに、ヒントのかけらが見つかるんです。これはOMS時代からそうで、“絶対面白いし可能性ある”と思ったアイデアは、とにかく口に出すようにしてました。賛成する人がいれば安心するし、“それにはこういう問題がありますね”という人がいれば、この人をうんと言わせる方法が見つかれば物事が進むんだな、と考える。とくに今は、納期とかコストを一番効率よくすればOKという時代ではなく、“そもそもどの山に登ればいいか”がわかりにくい時代。だから、そんなふうに小出しに見せて試していく。ルービックキューブみたいに、ひたすらPDCAを回しながら試して、揃った!という瞬間が来るまで続ける感覚なんです」
「何のために / 誰のために」。その生命線を見失わないために。
思考のルービックキューブを回しに回して、なんとなく方向性が見えてきたら、山納さんは「プロジェクトの6W2H」を明確にする。「いつ、どこで、どんなふうに」といった軸の中でもっとも重要視するのは「WHY(何のために)」と「WHOM(誰のために)」だ。
「プロジェクトや組織の規模が大きくなるほど、“予算があるから”とか“これをやることになっているから”という前提で物事が動いてしまうけれど、それでいいものができたりはしないんですね。だから僕は、プロジェクトの始まりにコピーライターよろしく“何のために / 誰のために”これをするのかということを、祝詞(のりと)のように書いておくことをよくやります」
そこさえ定まれば、プロジェクトを大きくするためにいろんなテクニックも駆使する。たとえば「〇〇さんが参加してるなら私も」という心理をつつくために、キーパーソンを見定めて口説いたり、マスコミに一目置かれるような情報発信をふだんから心がけたり。さらに、「人に任せるところ / 人任せにしないところ」のさじ加減にも気を配る。大枠を示したらあとは人に任せて、現場のモチベーションを引き出すことは大事だが、プロデューサー自身の肌感覚で「これは誰も欲しがらないでしょ」と言えるジャッジの余地も残しておくこと。
「プロデューサーってそんな微妙なバランスをとりながら、非常に細い綱の上を歩いてる気はします」
プロデュースは先天的な才能ではなく、基礎練習で身につく「体質」のようなもの。
トークのラスト30分は会場にマイクを渡し、山納さんが聞き役に。さまざまな業種・立場から集まった顔ぶれにマイクが回るうちに、彼らが日々抱える悩みや疑問も自然と飛び出してくる。「やりたいことと予算が折り合わない時はどうする?」「プロジェクトの進行にズレを感じて方向修正したい時はどうする?」など、あちこちから飛んでくる球を、次々言葉で打ち返していく山納さん、まさにコールアンドレスポンス状態。「プロデュースとは、基礎練習で身につく“体質”のようなもの」と語る通り、そのスピード感に、ふだんの思考のトレーニング量が垣間見えるようだ。
山納さんの真骨頂を感じたのは、「人を巻き込むのが苦手な私にアドバイスを」と話す参加者への答え。山納さんは「人を見るタイプですか、人に見られるのを意識するタイプですか?」と問い、こう続けた。
「僕も若い時は人に見られるのを意識する方だったけど、今は完全に“見る人”ですね。こういう場にいても、自分がどう見られてるかは全然気にならなくて“目の前のこの人は一体何を考えて、何をしたいんだろう”ってことばかりずっと考えています。だからもし人を観察するのが好きならば、その目線の延長線上に何かがあると思いますよ」
人への尽きない興味関心から生まれる、山納さんの「私的プロデュース論」。その姿勢は集まったオーディエンスを勇気づけ、今後の仕事に向き合う新たな視点を与えたに違いない。
イベント概要
私的プロデュース論
クリエイティブサロン Vol.98 山納洋氏
“プロデューサー”と呼ばれる人は、自分以外の人と協働して作品を作ったり、プロジェクトを進めたりという動き方をします。その現場では、気づく力、人のモチベーションを引き上げる力、物事を大枠でつかむ力、背景を踏まえてコンセプトを立てる力、シクミをつくる力、人を巻き込む力、などが求められます。しかし、つねに新しいものを作り出すためにもっとも必要なのは、「どうすればいいか分からない時に、どうすればいいかを見つける能力」です。今回はそんな“プロデューサー的能力”について考えます。
開催日:2016年6月13日(月)
山納洋氏(やまのう ひろし)
大阪ガス株式会社 近畿圏部 都市魅力研究室
大阪ガス株式会社 近畿圏部 都市魅力研究室長 / common cafeプロデューサー
1993年大阪ガス株式会社入社。神戸アートビレッジセンター、扇町ミュージアムスクエア、メビック扇町、財団法人大阪21世紀協会での企画・プロデュース業務を歴任。2010年より大阪ガス株式会社 近畿圏部において都市開発、地域活性化、社会貢献事業に関わる。
一方でカフェ空間のシェア活動「common cafe」「六甲山カフェ」、トークサロン企画「Talkin’ About」、まち観察企画「Walkin’ About」などをプロデュースしている。著書に『common cafe―人と人とが出会う場のつくりかた―』(西日本出版社)『カフェという場のつくり方』『つながるカフェ』(学芸出版社)がある。
公開:
取材・文:松本幸氏(クイール)
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