創造的な生き方~人との関係性の中で広がる可能性~
クリエイティブサロン vol.78 林弘樹氏

息子を政治家にしたいという父の意向には添わず、医師を目指していたという少年時代。中学3年で映画に「出会ってしまった」という林弘樹監督が語るクリエイティブの世界は、過去から未来へと続く“ものがたり”だった。ターニングポイントとなった映画「ふるさとがえり」と、「人生ごっこ!?」。作品の映像とともに、林弘樹氏の世界に魅せられた90分だった。

林弘樹氏

「自分は何をやったら死ねるんだろう」そのとき「映画」という答えがふと浮かんだ。

2011年にメビック扇町でも上映会を実施した「ふるさとがえり」は、すでに全国1100か所以上で上映されている稀有な作品だ。監督を務めた林弘樹氏が映画に出会ったのは、中学3年のとき。イタリアの「ニュー・シネマ・パラダイス」を観て、それまでにないぐらい感動したという。とはいえ、政治家の選挙の参謀を務める公務員の父のもと、政治家ではなく医師を志していたという林少年。難病の母を喜ばせたい、自分が医師になって治したいという夢があったため、この時点で職業として映画を選ぶとは全く思ってはいなかった。
「高2でいよいよ進路を決めなければ、というときに、“何をやったら死ねるだろう”と考えた。そのときふっと心に湧いてきちゃったのが映画でした」と林監督は語る。息子を政治家にしたかった父親、医師ならば、と諦めていたところに、映画。ぶん殴られた。
「救いだったのは母の言葉。“人の命を救うのは医者だけじゃない。映画も人の命を救うことがあるかもしれないよ”と」。「大学も行かせない」と頑なな父の態度に、学費を自分で稼ぎながら大学に通い、8mmカメラを購入。誰も映画の撮り方なんて教えてくれなかったから、見よう見まねでとにかく撮りはじめた。

「ふるさとがえり」予告編

大きかった父の呪縛。そこから解き放たれたときがクリエイターとしてのスタートに。

学生をしながら見習いで映画の現場に入った。あるとき助監督が来ず、“お前カチンコ打て”と言われた。道が拓けていくのかな、と思い始めた頃、父の糖尿病が悪化し、足を切断。透析も必要だった。介護しながら1日3〜4時間働く、そんな生活が始まった。「いずれ映画を撮るにせよ、営業力は必要だと思い、教材販売や家庭教師派遣の営業をしました。営業もストーリーだと、売り上げるためのシナリオを何パターンか作って回ったら、どんどん売れて。月に百数十万の稼ぎになった。そんな生活をしながらも、一日一枚は脚本を書くもんだ、と先輩にいわれた言葉を守っていました」。映画のために、と稼いだお金は貯蓄し、結構な額が貯まっていた。そんな頃、父親が亡くなった、当時26歳。
「自分の中で父親の存在は、やっぱり大きな呪縛だったんだな、と。父が亡くなって解放された僕は、“本気でものづくりをしたい”という仲間を集めてチームを作りました。小説家やデザイナー、芸人やミュージシャンなど。でも、なかなかうまくいかなかった。そういう動きの中で、今も僕の映画で脚本を書いている栗山と出会った。当時、日本映画を上映する映画館なんてミニシアターしかありませんでした。そんな状況下で、どうやったら多くの人に自分たちの映画を見てもらえるか、そういうことを考えていました」

「ふるさとがえり」と「人生ごっこ!?」ターニングポイントとなった2つの作品。

天からの知らせか、栗山氏が、エンドロールに日本中の商店街の名前の入った映画の夢を見たという。「たくさんの人に見てもらうには、映画作り自体にたくさんの人を巻き込めばいいんじゃないか。20万人に観てもらいたかったら、少なくとも5万人から10万人を巻き込めばいい」。アイデアを実現するため、全国の商店街組織を調べると、1万8千の商店街組合があった。2000~3000の組合を回って、企画を説明した。応援してくれる人が増えていっても、“自分たちで作る”意識はなかなか持ってもらえない。“自分ごと”としてとらえてもらうよう、予告編ムービーを作った。必死で人を巻き込みながら完成させたのが「らくだ銀座」、28歳でのデビュー作になった。
その後の2005年から6年半がかりで制作に取り組むことになった作品、それが「ふるさとがえり」である。
「“自分がこういうことをやりたい”だけではだめとわかった。“誰とやっていくか”が一番大事。それに気づかされた。この変化は大きかったです」
同じ時期に、東京都東大和市の映画プロジェクトで「人生ごっこ!?」を制作。映画で地域の誇りを取り戻そう、という取り組みだった。「現場費が『らくだ銀座』から比べても1/25位しかしかなくて。最初は予算に合せて自主映画っぽくやろうかと思ったのですが、それってクリエイターの仕事としてどうなんだ、と思っちゃった。仕事の条件に合わせていく仕事のやり方でいいのかと。“頼まれごとは試されごと”と思って安易な方法を取らず、それまでの人脈とノウハウをつぎ込んで取り組みました」
そんな姿勢が伝わってか、世界各地の映画祭で好評を得た。世界中の人たちに受け入れてもらえたことで、クリエイターとしてどう仕事をしていくのか、見えた気がしたという。ターニングポイントを乗り切る中で、屋号を「ものがたり法人FireWorks」と変えた。

みしまびとプロジェクトMOVIE3分バージョン

創造的な生き方って自己完結しないこと。関係性の中で可能性が広がる。

地域と関わるプロジェクトを通じて、“地域を担う人材を育てる”という日本最大の課題とそこに内包される問題についても、自分なりの答えがなんとなく見えてきた。静岡県三島市の映画プロジェクトが現在進行中だ。「つぎは、その答えに一歩踏み込んでいこうと思っています。戦前戦中戦後を支えていた美しくも力強い女性たちの物語で、8月下旬にクランクインします。こちらは久しぶりのフィルム作品。衣裳として黒澤和子さんが参加下さったり、熱い魂を持った映画人たちが続々とプロジェクトに手をあげてくれています」
先がわからない中で切り拓いていく未来。創造的な生き方には、自己完結ではない難しさがあるが、関係性の中でこそ可能性が広がることを、身を持って実感してきた。
「自分たちだけでは何もできないと思っていて。これを機会に皆さんも仲良くしてください」。そう締めくくる林監督の“語り”の世界に、参加者たちはどっぷりと引き込まれ、魅了されていた。

会場風景

イベント概要

未来は誰と創るのか~ものがたり法人の挑戦~
クリエイティブサロン Vol.78 林弘樹氏

この世に存在する全ての物にはストーリーがある。ストーリーとは「人と世界」をつなぐもの。だからこそ、日々の生活の中で誰もが無意識にストーリーを求めてしまうのだ。しかし、答えのない、未来への物語が見えにくい時代の中で、クリエイターはどんな物語を描いていけるのだろうか。僕らが「ものがたり法人」として、模索しながら取り組んだその仮説と検証についてのお話と、皆さんとの対話の中からその在り方を模索する、クロストーキングセッションを行いたい。

開催日:2015年6月19日(金)

林弘樹氏(はやし ひろき)

ものがたり法人FireWorks代表
映画監督

1974年生まれ、さいたま市出身、大学卒業後、助監督として黒沢清、北野武監督等の元で働く。28才の時に、映画「らくだ銀座」にて監督デビュー。国際映連・A級世界十大映画祭にも招待され、評価をうける。
全国各地で、今まで数十万人の人を巻き込み、日経地域情報化大賞、地域づくり総務大臣賞受賞。映画「ふるさとがえり」は公開から4年たった今もなお、全国1100ヶ所以上でロングラン公開中。準備中の最新作「惑う 〜After The Rain〜」は、時代の流れと共に失われながらも満たされていく「家」の物語を、女性たちを中心に描く。

林弘樹氏

公開:
取材・文:漆垣美也子氏(ユーモア株式会社

*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。