ファンと、社長さんと、「どう、恋愛するか?」
クリエイティブサロン Vol.144 徳田憲治氏

異業種からクリエイターにキャリア・チェンジする人は少なくない。そんななか、ギターを抱えて会場にやってきた徳田憲治氏は大手レコード会社からメジャーデビューを果たした後にウェブクリエイターに転身した奇特な存在だ。職種の壁をいかに乗り越え、能力を現職に活かせるようになったのか? ライブのMCのような和気藹々とした雰囲気のなかトークがはじまった。まずは、音楽アーティストとしての話題から。

徳田憲治氏

27歳でメジャーデビュー、9枚のオリジナル・アルバムを発表

徳田憲治氏が所属したのはスムルースという4人組のロックバンド。担当はボーカルだった。メンバーと出会ったのは出身校、京都精華大学。その才能は学内でも伝説となっていたが、巷でのライブの動員は一段一段、階段を登るように徐々に伸びていった。「10人、20人、30人と呼べるようになり、30人になったとき、マネージメント会社の方と出会いました」

レコード会社が広告代理店だとすればマネージメント会社は制作プロダクションにあたる。アーティストを育成し、活動に投資、利益をシェアする。いわば一緒にビジネスをするパートナーだ。「よく拾ってくれたなあと思います。結婚相手というか、最初に付き合った人と結婚するような感じです。僕らはその会社と契約し、ともに育っていきました。2004年4月7日に1stシングル『帰り道ジェット』をキングレコードから発売。27歳でメジャーデビューし、僕自身も『社会人』になりました」

メジャーデビューまでの道のりは容易ではない。結成して6年目という彼らは比較的スムーズだったといえるだろう。つまり、才能と実力は充分に備わっていたのだ。「1stシングルはけっこう売れました。半年後にアルバムを出し、合計9枚のオリジナル・アルバムをリリースしました。ジャミロクワイと共演するという晴れ舞台もあり、1年で100本ものライブをこなした時期やハプニングに見舞われた時期もありました。メンバーもよくついてきたなあと思います」。全曲の作詞・作曲を担当していた徳田氏だが、ジャケットやチラシに使う絵も担当。当時からマルチな才能が垣間見られていた。

4人組のロックバンド
スムルース

致命的な病に侵され、バンドとしての活動が白紙状態に

しかし、2015年、徳田氏、そしてバンドに悲劇が訪れる。「自転車をこいでいたら、急にからだが動かなくなって……。ギランバレー症候群という急性の多発性神経炎だったんです。いつ、回復するのかわからない。何もできなくなって、ツアーなど1年間のスケジュールを全て白紙に」

そんな状況においても、徳田氏はめげることはなかった。「検査中、とんでもなくオシッコがでて『病気って、面白いなあ』と思ったくらいで(笑)。楽しむしかないので脳天気に過ごしてたら『明るい患者さんやなあ』といわれてました」。長期化すると思われた病気だが、なんと2ヶ月で完治。ただ、スケジュールは白紙状態、金銭的にも難しく、バンドとして収入がゼロになったことから2016年1月、やむなく休止宣言。「まず家族を養えるようになろうと。でも、諦めたわけではなく、体制が整ったら、もう一回、音楽に戻ろうと」

そして、同年4月に現職の株式会社ガハハを起業。じつは、スムルースとして活動する傍ら、徳田氏はウェブクリエイターとしても活動していた。「2014年頃、船井総研のウェブチームの面接を受けました。面接の際、担当の方から『音楽活動も社会人経験として見なします』と言われ、次の日に採用されました」。船井総研と聞くとストイックな印象があるが、実際に入職すると「愉快な人ばかりだった」という。「先の担当の方から『音楽は、“やっている”と“やっていた”は全然違う、続けろ』っていわれたんです。そんなことを、会社で習うなんて予想外でした」。同社に3年間勤め、フリーランスのウェブクリエイターとして独立。「お客さんはいませんでした。でも、何も考えず、営業さえしなかった。まず、ナカノアツシ君という友人が主催する『高槻魂』という音楽イベントのサイトを作りました。その後、10万円くらいでサイトの制作を請けて実績を作り、気がついたら自信をもって50万円と言えるようになっていた」

ウェブクリエイターに転身、商店街に株式会社ガハハを設立

華やかなロックバンドから地道な作業が求められるウェブ制作へ、スキルも文化も異なる業種への転身に苦労したと思われがちだが、「音楽を作ること」と「ウェブを作ること」は、「全く同じ」と語る。
「ライブで何千人のファンに喜んでもらうのも、目の前の社長さんに喜んでもらうのも同じです。めっちゃ誉められたり、怒られたり……。ファンとも社長さんとも『どう、恋愛するか?』ということです」。つまるところ、「ぜんぶ本気」で向き合うことだという。また、スタッフワークの点でも音楽制作もウェブ制作も似ているという。マルチな才能を携える徳田氏が超然としてバンドや関係者を牽引してきたイメージがある。「一人でやってきたように見られがちですが、強いメンバーに支えられてきたからこそ出来た。自分の力だけでは限界があります。実は周りの人がスゴイんです。起業して3年目になりますが、いまも、周りの人達に支えられています。これが全てといってもいい」。周囲の人達の力があってこそ、前進することができるのだ。

起業については、こんなエピソードも。フリーランスの時期、地元である高槻市の北部にある山手一番街商店街の会長さんから、夏祭りのチラシ作りを依頼された。「何度も呼ばれるうちに、だんだん、面白くなって。病気が回復し、会社を立ち上げることを告げた。すると『隣の家、空いているで?』と言われまして。その空き家の家賃は5万円。ウェブの仕事なら、どこでもやれると思い、そこで株式会社ガハハを立ち上げました」。ところが、その人が一年後に体調不良でリタイア。すると、なんと徳田氏自身が商店街の会長になってしまう。「『任天堂のゲーム機が当たる!』というふれ込みでイベントを開催、すごい反響がありました。『山手一番街商店街で何かが起こっている』と地元メディアでも取り上げられるほどの盛り上がりに」。来る物、拒まず、何でも受け入れる。ノリだけで進めているようで、「どこかで、何かを感じている」。結果的にシンパシーを感じる人と組み、新たな展開を果たしているのだ。

直感力と行動力、そして情熱こそが「徳田憲治」の圧倒的な力の源なのだ。これは、やはり音楽アーティスト独特の資質だといえるだろう。

徳田憲治氏
昨年の山手一番街商店街のハロウィンイベントでは、コスプレで場を盛り上げた。

「逢いにいかなくちゃ。」 歌になったメビックの合言葉

メビック扇町の所長堂野智史氏が徳田氏と出会い、メビックの活動の合言葉がコピーライターの村上美香氏考案の「逢いにいかなくちゃ。」だということ、そしてメビック周辺のクリエイターが結成した「メビックランニングクラブ」では、この合言葉をプリントしたTシャツをユニフォームにトレーニングに励んでいることに話がおよんだときのこと。「マラソンで30キロ地点になると、必ず別の自分が現れます。『今日はまだまだイケる!』という前向きな自分だったり、『しんどいからやめようや』という後ろ向きな自分だったり。そんな別の自分に逢いにいくことが楽しみなんです」と堂野氏が語ると、「じゃあ、『逢いにいかなくちゃ。』」という歌を作ります!」と即座に徳田氏は言った。その歌がトークも後半を過ぎた頃、披露となった。

逢いにいかなくちゃ 走れ 走れ
僕らはゴールを知らないランナー
いかなくちゃ 走れ 走れ
夢と呼んでるのは、その一歩のことさ

(「逢いにいかなくちゃ」作詞・作曲 徳田憲治)

「いかなくちゃ 走れ 走れ」というサビの部分が熱く心に残るこの曲は、本人にとっても「自問自答の歌」だという。「僕自身は、あきらめたくなるということはなくなってきてます。それでも、ダメかな? と思ったときは……『寝たら治る』。一子相伝、父が教えてくれました。『風邪も、怪我も、心の怪我も、寝たら治る』」と、ガハハと笑った。

徳田憲治氏

イベント概要

音楽も社長もやることはまったく同じ
クリエイティブサロン Vol.144 徳田憲治氏

音楽では、作詞と作曲と歌を担当してましたが、ギターがうまいわけでもなく、ドラムができるわけでもなく、できる人とかけ合わせて一つのチームとしてやってきたのが私の音楽人生でしたが、いざ会社を起こしてみても、やることは同じで、大事な仲間に支えられて、それぞれの仲間で乗り越えています。制作を通して目の前の人に喜んでもらうことは、音楽でもデザインでも全く同じでした。会社作りもエンターテインメントです。今後もエンターテインメントを追求したいと思います。

開催日:2018年6月11日(月)

徳田憲治氏(とくだ けんじ)

株式会社ガハハ

1976年 香川県生まれ
2000年 京都精華大学美術学部デザイン学科卒業
2004年 キングレコードよりメジャーデビュー
2008年 ヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍
2011年 株式会社船井総合研究所ウェブチーム入社
2014年 フリーランスウェブクリエーターとして独立
2016年 株式会社ガハハ設立
2017年 山手一番街商人会会長就任(任期限界まで)
2018年 娘の幼稚園のPTA会長就任(任期1年)
座右の銘「寝たら治る」

http://gahaha.co.jp/

徳田憲治氏

公開:
取材・文:櫻井一哉氏(Solaris)

*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。