それほど好きじゃなくても揺るがなかった「写真を仕事にする」決意
クリエイティブサロン Vol.242 矢野健紳氏

今回のサロンは「カメラと写真はそれほど好きじゃない。でも現在カメラマン。」というインパクト大なタイトル。ゲストスピーカーは、広告から学校イベントまでオールジャンルの撮影に対応しながら、大阪を拠点にフリーランスカメラマンとして活躍する矢野健紳さん。国内外に暮らしの拠点を変えながら成長してきた矢野さんの半生を赤裸々に語るトークとなった。

矢野健紳氏

映画の世界に憧れた学生時代

矢野さんの故郷は宮崎県。本人いわく、小学生時代は一年生と二年生がひとつのクラスで学ぶような田舎町の小さな学校に通っていた。その後、宮崎県延岡市内の高校に進学し、親元を離れて一人暮らしをスタート。高校時代に興味を持ったのは映像で、高校時代の文化祭では監督となり撮影した映画を上映するほどのめり込んだ。いつしか映像の世界で仕事をしたいと考え、高校卒業後は大阪にある大阪写真専門学校の映画科に進み、映画制作について約2年間学んだ。ただ、あまり映画と真面目に向き合えていなかったという。

「映画の世界の魅力を感じつつも、遊び半分の気持ちがあったかもしれません。作品を撮影している時は楽しいのですが、あくまで課題のために作品を撮る感じで。今思えば、もっと必死になれたんじゃないかと思います」

それでも映画の世界への憧れや働きたい想いは抱き続けていた。だが、周囲の人から「映画の仕事は生活できないよ」といった話ばかりを聞かされてしまう。さらに、映画科で学ぶ同級生たちの多くが映画関連ではなく、写真撮影関連の会社や事務所に就職する現実を見て、矢野さん自身も就職活動について考えるように。

映画の世界を諦めて、写真撮影の世界で東京へ

就職を真剣に考えた結果、矢野さんも映画ではなく写真の世界での就職を選ぶ。

「映画の世界を諦めて就職するなら東京で、と考え、東京で就職活動をしたところ、六本木に事務所を構える写真事務所に就職できました。当時はまだ独立する気もなく、アルバイト感覚でしたね」

ボスのカメラマンはオーディオやオートバイといった、いわゆる「ブツ撮り」主体のカメラマン。助手的な役割を担う中で写真の奥深さや自身の勉強不足を実感しつつも、当時はなかなか「ブツ撮り」に面白さを見いだせなかった。

「大手レンタルスタジオに就職した同級生は芸能人の撮影現場に立ち会うなど、とても華やかで楽しそうに仕事をしているのに自分はブツ撮りばかり。いつの間にか自分にこの仕事は向いていないと思ってしまったんです」

やがて矢野さんは、華やかそうなレンタルスタジオへの転職を決める。ボスからは「そこで学びは得られないよ」と言われたが、決意は変わらなかった。

「今思えばボスの言葉は正しかった。レンタルスタジオでは仕上がりの写真は見られませんから。でも、当時の自分はそんなことすら知らなかったんです」

結果的にほどなくレンタルスタジオは退職。無職となって「次」が見いだせない中、自分探しのつもりで約1カ月かけて長距離バスでアメリカを旅行した。英語が上手く話せず情けない気持ちにもなったが、「もう一度ここに戻ってきて、英語も写真もアメリカで学びたい」という決意が生まれ、日本に戻って1年間工場で働きながら留学費用を貯めた。そして今度は「留学して学ぶ」ため、再びアメリカの土を踏んだ。

料理
レストランのWebサイト用の撮影。アートディレクターやシェフと話し合いながら撮影した一枚。

苦い経験もしながら、何かを掴んだアメリカ留学

アメリカ留学が始まって語学学校に通いはじめたものの、日本人コミュニティに染まってしまい、なかなか英語が上達しない。2年以上掛けてようやく現地のコミュニティカレッジの写真科に入学し、写真を学び始める機会が到来した。苦労して異国の地で写真を学ぶ環境に身を置くことができたにもかかわらず、積極的に学ぶ姿勢を見せられなかった、と矢野さん。

「異国の地で恥をかきたくない、失敗したくないという想いが強かった。授業は楽しくて好きでしたが、英語力が低くて内容が理解できない不安もあり、目立たないように授業を受けていました」

それでも卒業が近づくと、アメリカに残って働くか日本に戻るかの決断を迫られる。矢野さんは、最終的に日本に戻ること、さらに最後はアメリカ中を憧れのワーゲンバスで旅することを決意した。

「アメリカでワーゲンバスも購入し、アメリカ横断の旅をしました。いろいろトラブルもありましたが、なんとか旅を終えて帰国することができました」

ワーゲンバスは、個人輸入という形で日本に持ち帰り、故郷の宮崎で車を修理しながら次の一歩の準備を始めた。

ワーゲンバス
留学からの帰国直前、ワーゲンバスでのアメリカ最後の旅行での一枚。

前向きな気持ちで人とつながれた大阪

修理が完了したワーゲンバスで就職活動のため宮崎から東京に向かった矢野さんは、制作会社の社員カメラマンとして採用されて東京での暮らしをスタートさせた。

「約3年勤務しましたが、人間関係がギスギスし、そのストレスは自身の心身に不調を感じるほど働くのが辛い会社でした」

しかし東京暮らしも厳しいことばかりではなかった。ワーゲンバスを通じて知り合った女性と結婚。その後、精神的に厳しい職場に身を置くよりも、実力不足でもフリーランスの方が今の自分には良いと考え、2011年に念願だった独立を果たす。しかし、これからという時に東日本大震災が発生し、期待していた多くの仕事がキャンセルに。その時、ある想いが頭をよぎった。

「妻が大阪出身で、私自身も大阪で学生生活を送った経験があります。今なら大阪に生活と仕事の拠点を移せるんじゃないか、と考えました。東京に後ろ髪引かれる気持ちもありました。それでも『動くなら今だ』と信じて震災間もない時期でしたが拠点を移しました。結果的に良かったですね」

専門学校生時代を過ごして16年ぶりに戻った大阪で、仕事のベースも昔の知人もほとんどつながりがない状態でのリスタートだったが、「地道に目の前にある仕事をこなしていけばなんとかなる」と前向きな気持ちで仕事に取り組み、紹介などで徐々に人や仕事の輪が広がっていった。

「メビックも、あるインテリアデザイナーの方に紹介していただきましたし、周囲の人々に助けていただいています。大阪に来てからは、良いことも悪いことも経験のひとつとして自分の中で昇華できるようになるなど、しっかり成長できていると思います」

過去の自分を見つめ直す機会を与えてくれる故郷・宮崎の海。

大勢でひとつの写真を作りあげる仕事をやりたい

現在は人と向き合いながらの撮影が楽しいと語る矢野さん。今後はカメラマン人生を見据えながら、自分だけのジャンルを確立していきたいと話す。

「自身の写真の方向性を定めるのはこれから。デザイナーやクライアントなど、多くの人々とひとつの写真を作りあげていくような仕事に巡りあいたいですね。そのために決して得意とは言えないコミュニケーション力も高めていきたい。このイベントに登壇して話せたのも良い経験になると思います」

今回のイベントサロンのトークでは、奥様にも話していないことも話した、と語る矢野さん。これからは家族との時間も大切にしていきたいと語る。

「多くの人を撮影してきましたが、実は自分の家族の写真はあまり撮れていないんですよ。今後はたくさん撮っていきたいですね(笑)」

イベント風景

イベント概要

カメラと写真はそれほど好きじゃない。でも現在カメラマン。
クリエイティブサロン Vol.242 矢野健紳氏

平凡ながら今までの私の過去、現在、そして未来への展望をお話しさせていただきます。宮崎の田舎で生まれ育った環境、学生時代、社員カメラマン、そして独立。特に何かを成し遂げたわけではないので、ビジネスのハウツー的なヒントをお話しすることはできないかもしれません。しかしながら、一人の人間の生き方として何らかの参考になれば幸いです。過去から現在までの写真のスライドショーをしながらお話ししたいと思います。

開催日:

矢野健紳氏(やの けんしん)

矢野健紳写真事務所
カメラマン

1974年生まれ、宮崎県出身。高校を卒業後、大阪写真専門学校(現:ビジュアルアーツ専門学校・大阪)で映画を学ぶ。映画業界への就職が叶わず、写真業界へアシスタントカメラマンとして足を踏み入れる。その後、1枚の写真の奥深さを知り、写真を学ぶべくアメリカに留学。帰国後は東京都内の制作会社で経験を積み、2011年からフリーランスとして大阪を拠点に活動中。プライベートでは家族とワーゲンバスで過ごすことを楽しんでいる。

http://www.kenshin-photo.com/index_1.html

矢野健紳氏

公開:
取材・文:中直照氏(株式会社ショートカプチーノ

*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。