「個」をめざした先に見つけた、「チーム」という可能性
クリエイティブサロン Vol.235 吉村昌哉氏

2019年に設立された映像ブランディング会社Cinergia(シネジア)。撮影をはじめ、企画からアニメーションを使った映像の制作まで幅広く請負い、その高い対応力で、企業PR、映画制作、コンサートライブの総合演出や配信とさまざまな分野で活躍している。

今回のスピーカー・吉村昌哉氏は、同社で映像ブランディングプロデューサー、カラーリストを務める一方、代表として5人のメンバーを統率し順調に業績を伸ばしている。30歳という若さでトップとして手腕を振るう吉村氏だが、その原点を探ると意外な一面が見えてきた。

吉村昌哉氏

幼心に芽生えた「大人に頼るのはやめよう」との決意

まずサロン開始と共に、吉村氏が示したのは人生曲線グラフだ。出生を基点に、上下に大きく波打つ曲線をなぞりながら、これまでの半生が語られた。

奄美群島の一つ、徳之島に生まれた吉村氏は、自然豊かな環境の中で育った。保育所時代は、大量のヤドカリを園内に持ち込み先生を困惑させたこともあり、いたずら好きの天真爛漫な子どもだった。

が、その反面、両親の節約ぶりや、姉のおさがりの衣服から、家庭の経済状況が芳しくないことを察知し、「親に負担をかけてはいけない」と気遣う利発的な面も持ち併せていた。特に印象的だったのは、父親が失業した時のこと。督促状を発見しすぐに状況を理解した吉村氏は、小学生ながら一日5回にものぼる取り立ての電話に応対し家族を守ろうとした。が、その後、父親は借金の苦悩から育児放棄へ。幼い身にはあまりに辛い経験だった。

また同時期に、学校の担任教諭に対するクラスメイトの悪質ないじめが発生。他の教員やPTAが介入したものの、田舎の小さなコミュニティー特有の閉塞感から問題がうやむやにされ、結局担任教諭は退任する羽目に。度重なる辛い経験から、吉村少年はいつしか「大人に頼るのはやめよう。自立しなければいけない」と考えるようになった。

アジア人と西洋人の色彩感覚の違いを考慮し、落ち着いた色調に仕上げた海外向け企業PV。細部にまで徹底したこだわりは、映像のプロならでは

価値観が一変し、人生最高値を記録

その感覚は、中学入学後さらに強いものとなる。所属したバレー部で、キャプテンとして日夜練習に励む中、本気で勝つことをめざす生徒と、楽しさを優先する生徒との間に温度差が生まれ、チームが分裂。結局、引退前の大会でも結果を残すことができず、抑えきれない感情から「みんなのせいで負けた。やっぱり他人に頼るのはやめよう」と独立心を強めたのである。

しかし、ここで転機となったのが、高校入学後に入部したバレー部での経験だ。同じ熱量で練習に励む仲間に恵まれ、副キャプテンとして、またエーススパイカーとしてチームをけん引し3年間練習に明け暮れた。一度、ある練習試合で吉村氏のプレーによって敗退し、顧問から厳しく叱責されたことがある。

「その時、チームのメンバーは黙ってそばにいてくれたんです。何をしてくれるわけでもないけど、それが嬉しくて。痛みを分かち合えるチームの必要性を感じました」

その後、チームは鹿児島県大会に出場し16位という好成績を修めた。この時に得た、チームという存在の頼もしさ、また「本気でやれば何かが変わる」という手応えは、幼少期から孤立感を強めてきた吉村氏によほど大きなインパクトを与えたのだろう。それまで上がり下がりを繰り返してきた曲線グラフの中でも、高校時代は最高値を記録している。

意外な方向転換を経てCinergiaへ

その後、大学でプログラミングを学び、エンジニアとして就職したが、実はある思いを胸に抱えていた。それは、映像制作への憧れだ。

「幼少期からアニメやゲームが大好きで、週末はいつも金曜ロードショーを観ていました。当時の僕にとって、寂しさや辛さを忘れさせてくれる唯一の救いだったんです」

家にも学校にも頼れる人がいなかった時代、映像は大切な心の拠り所だった。その思いに突き動かされ、吉村氏は働きながら専門学校で映像を学び、1年後に晴れて制作会社に転職。その後も順調にキャリアを重ねる傍ら副業で安定した売上を確保し、フリーランスの映像クリエイターに向け着々と準備を進めた。

唯一想定外だったのは、当時親交の深かった同僚2人から「一緒にチームを組もう」と誘われたこと。吉村氏自身、この返答には相当悩んだようで、幼少期から味わった組織に対する抵抗やチームメイトへの不信感、また逆に、高校時代に得たチームで挑む楽しさ、両極端の思い出の狭間で葛藤する日々が続いた。

「2度は断ったんですが、最終的な決め手となったのは、昔から大切にしていた2つの言葉。1つは、高校時代のバレーボール部の顧問が言っていた『切磋琢磨できる人が近くにいることは幸せなこと』。もう1つは、アメリカの第45代副大統領アル・ゴアの『早く行きたければ一人で行け、 遠くへ行きたければみんなで行け』です」

そして3度目の誘いで、ついに参加を表明。この大きな決断が、吉村氏を過去の出来事と決別させ、未来へ向け力強く踏み出させてくれたのだろう。自身が代表に就任するとすぐさま法人化し、社名はラテン語で「相乗効果」を意味する「sinergia」をベースに、目標とする映画制作の「Cinema」の「C」を組み合わせて「Cinergia」と命名。「個人」を尊重し、人と化学反応を起こして良いものを作り出すクリエイターチームとして本格的に動き始めた。

順調な事業成長を支えたものとは

こうしてスタートを切ったCinergiaは、まずクラウドソーシングで安価な仕事を受けて間口を広げ、確かな仕事ぶりと、質の高い提案でクライアントからの信頼を獲得。その一方で、補助金や融資などの制度を上手に活用して設備面を充実させ、1期目でしっかりとした基盤を築いた。

その努力が功を奏して2期目以降は、リピートを含め順調に案件を増やし、いまや年間で計200件もの案件を請け負っている。また、2022年4月に公開された「ニワトリ☆フェニックス」では助監督として参加を果たし、念願だった映画制作に向けて着実に実績を重ねている。

この好調なスタートダッシュを支える要因の一つに、社員同士の良好な関係性が挙げられるだろう。現在Cinergiaは大阪と東京に拠点を構え、プロデューサー1人、カメラマン2人、ディレクター3人が在籍。社内では、互いの強みと弱みを把握し、フォローし合える体制を整えており、他にも個々の特性を活かすためにチームで知識やスキルをシェアしたり、立場や年齢に捉われない対等な関係作りに励んだり。こうした数々の取り組みから、代表の吉村氏がいかにチーム作りを大切にしているか、窺い知ることができる。

「福笑い年賀動画」は、子ども向けの体験型イベント。コンテンツ企画から制作、当日の運営に至るまで、全て自社で完結できるのもCinergiaの強みだ

進化目覚ましい映像業界をチームで生き抜く

近年、TikTokやメタバースの出現により、ますます注目度が高まる映像業界。Cinergiaを取り巻く環境も日々変化している。この点について吉村氏は、「今後は、まずコンテンツの量産から質を求められる時代になると考えています。また、動画の使い方も二極化し、用途に合わせてTiktokなどのショートな動画と、Youtubeや映画のようなロングな動画を使い分けることになるでしょう」と冷静に分析しており、自分たちが何をしたいかチームとしての方向性を見定め、普段から情報収集しておけば十分対応できると自信を窺わせた。

サロン終了後、Cinergiaの存在について質問すると「仕事面での助け合いはもちろんだが、メンタル面で支えられているところが大きい」という答えが返ってきた。

これまで幾度となく、「人に頼らない」と決意した末に辿り着いたCinergiaという場所。夢に向かって共に挑戦できる仲間がいる限り、今後も吉村氏の人生曲線グラフはますます上昇していくに違いない。

イベント風景

イベント概要

27歳で映像制作会社を立ち上げた映像クリエイターの今と未来について
クリエイティブサロン Vol.235 吉村昌哉氏

27歳のときに、合同会社Cinergiaを立ち上げ、約3年が経ちます。これまでの3年間は「経営」と「クリエイター」という狭間で悩み続けた3年間でした。まだまだ未熟者ですが、この3年間で得た映像業界における組織のあり方、個のあり方、そして見えてきた映像・広告業界の未来について、お話しできたらと思います。

開催日:

吉村昌哉氏(よしむら まさや)

合同会社Cinergia 代表
映像ブランディングプロデューサー

鹿児島県徳之島出身。通信会社でネットワーク開発・検証業務に従事。並行して、映像関連の専門学校にてスキルを習得。その後、映像制作会社を経て、2019年に「合同会社Cinergia」を設立。「Blending synergy on imagination」(想像力に相乗効果をブレンドして「今」かっこいいものを生み出す)という想いで、企業や商品の魅力を最大限に伝えるために、現場だけでなく、構成作りからチーム一丸で制作しています。

https://cinergia.co.jp/

吉村昌哉氏

公開:
取材・文:竹田亮子氏

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