「決めつけない」スタンスで自らの枠を超え、世界を広げる
クリエイティブサロン Vol.265 福冨亮子氏

現在、有限会社アイシスで副社長を務める福冨亮子さん。歯科医院に特化したWebサイトの制作を中心に、カラーコンサルティングなどの事業を行っている。仕事柄、デジタルに精通しているが、もともと子どもの頃はアコースティック楽器を好み、幼稚園の先生からオルガンを奪い取って演奏するようなタイプだったそう。そんな少女がいかにデジタルの世界と出会い、起業し、事業を育ててきたのか。じっくりお話を伺うと「音楽」という一貫したテーマが見えてきた。

福冨亮子氏

音楽を軸に経営、そしてデジタルの世界へ

福冨さんが音楽と出合ったのは5歳の頃。当時数々の習い事をしていたが、なかでもヤマハ音楽教室は最も夢中になったそう。おかげで小学校の卒業文集には「将来の夢は楽器店の店長」と書いた。多くの同級生が「ピアノの先生」と書く中、あえて「店長」にしたのは、みんなと一緒は嫌だから。「周りが『先生になりたい』と言うなら、私はその子たちを雇う立場になろうと考えました」。わずか12歳にして、すでに経営者としての片鱗が見え隠れするエピソード。もしかすると、この頃から福冨さんの中には起業のイメージが描かれていたのかもしれない。

高校入学後もレッスンを継続し、コンクールに積極的に参加する傍ら、学校でもバンド活動に参加し音楽三昧の青春を謳歌した。さらに在学中に講師資格を取得すると、短大卒業後は念願のヤマハへ。自宅で音楽教室を運営しながら、インストラクター、店長、サロンマネジャーと各役職を勢いよく駆け上り、ファミリー向けポータブルキーボードが発売された際には、販売数で好成績を収め表彰されたことも。教室での音楽指導から事業運営へと立場が変わり、徐々に経営の面白さに気づき始めた。

ちょうど当時音楽業界では、アーティスト小室哲哉の登場によって、シンセサイザーが爆発的に売れ、デジタル楽器が広く楽器ユーザーに認知されるようになった頃。福冨さんも発売されたばかりのMacintosh Color Classic Ⅱを購入し、楽器をつなげて多重録音したり、コンピューターミュージックで楽曲を制作したり。音楽を軸に、まだ黎明期だったパソコンやインターネットの世界に没入するようになった。

いまだかつてない、最先端のピアノ教室誕生

これを機に福冨さんは、1996年に同僚2名と独立。Web制作事業などとともに、自らの名前(旧姓)を掲げた「かがわりょうこバーチャルピアノ教室」を立ち上げた。

このバーチャルピアノ教室とは、生徒が演奏した録音データをメールで送ると、音の高さ、強さ、長さを専用のソフトで数値化し、改善点を分析してくれるというもの。後日、福冨さんが弾いた見本データと共に送り返され、双方を比較しながら繰り返し練習することができる。今でこそZoomのようなサービスが普及しオンライン指導が広まったが、当時はまだインターネットが一般的でなかった頃。「時代を先駆ける画期的なサービスだ!」とすぐさま新聞に掲載され、数々のメディアに取り上げられた。その反響は相当なものだったようで「パソコン好きの人を中心に問い合わせが殺到しました。あまりの反響ぶりに、便乗目的の『偽かがわりょうこ』が現れたくらいです」と言う。

しかし皮肉なことに、社内の他メンバーとは方向性が合わなくなり、ついに2003年袂を分かつことになってしまった。

「かがわりょうこバーチャルピアノ教室」ウェブサイトキャプチャ
かがわりょうこバーチャルピアノ教室(現在は、新規入会受付は休止中)

再起をかけたゼロからのスタート

一人になり、事業も振り出しに戻すこととなった福冨さん。そんな彼女が、2度目の起業の地として選んだのが、当時、大阪産業創造館が運営していた創業準備オフィスだ。そこでアイシス・ビープラスを屋号に掲げ、バーチャルピアノ教室事業とWeb制作事業で再起をかけることとなった。

「当初は、バーチャルピアノ教室というシステムが、世の中に提供できるだけの事業になるかとても不安で……。指導を受けながら生まれて初めてビジネスプランを書き、どう事業を組み立て、いかに利益を上げるか、毎日必死に考えました」

事業運営の課題に加え、福冨さんを悩ませたのがインターネットの回線速度の問題だ。20年前と言えば、今とは比べものにならないほどスピードが遅く、レッスンをしようにも指の動きとピアノの音がずれて指導にならない。解決策を探すも糸口が見つからず、時には「時間がかかっている割に何も解決しない」と心ない発言を浴びせられることも。気持ちばかりが焦り、もどかしい日々を送った。

そんな福冨さんのことを、創業準備オフィスの人々はいつも温かく支えてくれたそう。起業サポート担当の先生は、事あるごとに相談に乗り「あなたが取り組んでいることは簡単にできることではないから、時間がかかって当たり前。焦らなくていい」と励ましてくれた。また撮影設備が整わず困った時には、同じ入所者仲間がスタジオを紹介してくれ、自らもスタッフとして手助けしてくれた。

一人で奮闘する福冨さんにとって彼らの存在がどれだけ力になったことか。「創業準備オフィスでの6ヶ月間は、今まで経験したことがないほど凝縮した時間。ビジネスの基礎を作ってくれた時間であり、人の優しさに触れた時間でもありました」

また、ちょうど当時、起業家ブームが起こったことも追い風となった。福冨さんはその後も創業促進オフィス、扇町インキュベーションプラザ メビック扇町(当時)へと場を移し、「起業家」という立場で上手にメディアを活用しながら順調に事業を育てていった。

扇町インキュベーションプラザ メビック扇町(当時)インキュベーションオフィス

デジタルを経て、再びアコースティックの世界へ

この頃には法人化し、スタッフも増え、ついに2007年メビック扇町を卒業してオフィスを構えるまでになった。新たなスタートに多少は不安もあったようだが、この時出合った案件が、今後の事業運営を方向付けることとなる。

「新規開業する歯科医院のWebサイトを制作しました。この業界は、設備投資に数千万円もの費用がかかるため、起業を控えて不安を感じる医師が少なくありません。その姿を見ると、過去の自分と重なり『今までいろんな方々に支えてもらった分、今度は私が応援する番だ』と感じたんです。Webサイト完成後もSEO対策など万全の体制でサポートし集患の面で先生を支えようと考ました」

これが「結果が出るホームページ」と口コミで広まり、近年では営業せずとも依頼が来る好循環を生んでいる。社内の若手デザイナーの活躍も手伝って、今や会社の中核を担うほどの事業に成長した。

作例(ウェブサイト)

事業が安定し時間に余裕ができたおかげで、福冨さんは新たにチェロを学び始めたそう。久々にアコースティックの楽器に触れる喜びを語りながら、仏教の「諸法無我」という言葉を紹介した。

「本来この言葉は『全てのものに固有の我(実態)はない』という意味ですが、私は『ものごとの意味や役割はその時々で変化するもの。一つに決めつけなくていい』と捉えています。幼少期から私にとって音楽は習い事であり、青春の全てであり、バーチャルピアノ教室を立ち上げてからは仕事になり、最近は趣味になりました。一つの役割に決めつけなかったことが私にとって良かったのだと思います」

現在に至るまで、姿を変え、役割を変え、音楽は常に福冨さんと共にあった。そこから人の縁が生まれ、アコースティックからデジタルへと世界が広がり、起業という大きな挑戦を果し、常に人生に彩りを与えてくれた。その関係は、今後も変わることはないだろう。音楽をベースにその時々の時代の息吹を吹き込み、また新たな価値を創造していくに違いない。

イベント風景

イベント概要

アコースティックとデジタルの融合からスタート 心に音楽とエールを持ち続けた20年
クリエイティブサロン Vol.265 福冨亮子氏

幼少期に親の想いから始めた音楽教室でのレッスンが、成長と共に自身の希望進路となり、様々な経験や紆余曲折を経て、いつの間にやら歯科・医科に特化したWeb制作をベースにした開業支援・コンサル事業の会社経営へ。根底にはいつも音楽があり、これからスタートする人たちへの応援の気持ちを持ち続けています。幼稚園でオルガンを先生から奪って弾き続けていた女の子が、やがてインターネット黎明期にパソコンやネットを独習し、資格取得の末に始めた「バーチャルピアノ教室」。ここからスタートした女性起業家としての人生。悩みや躓きも笑いと肥しにして今に至る「諸法無我」な体験談はいかがでしょうか。

開催日:

福冨亮子氏(ふくとみ りょうこ)

有限会社アイシス 取締役副社長

大阪市生まれ。幼少期に始めたエレクトーンで高校時代に講師資格を取得後、ヤマハエレクトーンインストラクター、講師を経て、大人の音楽サロンマネージャとして勤務。顧客・生徒管理用のNECPC-9800シリーズパソコンとの出会いを機にパソコン通信、コンピュータミュージック、ホームページHTML言語を独学。その後、「かがわりょうこバーチャルピアノ教室」のビジネスモデルを携え、大阪産業創造館創業準備オフィス、メビック扇町で独立起業。法人化の後、結婚を機に副社長に就任。趣味はチェロ演奏、フラメンコ。

https://www.aisis.ne.jp/

福冨亮子氏

公開:
取材・文:竹田亮子氏

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