新たな旅の始まりを告げる、汽笛のようなことばを。
クリエイティブサロン Vol.191 わきたけん一氏

思わずくすっと笑えたり、意外な視点にハッとさせられたり。「モノ・サービス」×「時代・社会」との交点から、独自の「切り口」を見つけ、体温のこもったことばで人々の共感を引き寄せるコピーライターわきたけん一さん。今回のサロン登壇へのオファーに対し、「僕はまだ人前でクリエイティブ論を語れるほどでは……」と、何度か断りを入れたという謙虚な人柄で、語り口もソフトだが、約15年のキャリアで鍛えられてきた芯は、ヤワじゃない。そんなわきたさんの「フリーのコピーライター2年半の途中経過報告」に耳を傾けてみよう。

わきたけん一氏

フリーになったのはOCCとメビックのせい(おかげ)?

「KITEKIっていう屋号には、船や列車の汽笛のように、“ことば”が企画の出発点になればいいな、という思いを込めています。全然汽笛鳴らさへんやん、と周囲にからかわれてますが(笑)」

2018年に設立した自社の屋号について、こんなふうに語るわきたさん。北海道の豪雪地帯で生まれ育ったわきたさんにとって、平野に鳴り響く旅立ちの汽笛は、原風景の一部なのかもしれない。

わきたさんがこの世界に入ったのは2006年。広告制作会社「アンクル」に新卒で入社し、12年勤続した。

「気づけば制作部の社歴では一番古株になっていて、考え方によってはそのまま居続けるという選択肢もあったんですけど、そこであえてフリーになったきっかけを振り返ってみれば、OCC(大阪コピーライターズクラブ)とメビックのせい、いや“おかげ”(笑)ですね」

社会人になってまもなく加入したOCCで、同業のコピーライターとのネットワークを広げる一方で、2018年に始まったメビックの名物企画「3団体 3世代 トーク3昧」では、OCC幹事として企画運営から関わったわきたさん。APA(日本広告写真家協会)関西支部、JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)大阪、OCCという3団体から、若手、中堅、ベテランが集い、本音を語り合う場づくりを通じて、異分野のクリエイターの知り合いも増えた。

「3団体 3世代 トーク3昧」第4弾開催風景
2019年の「3団体 3世代 トーク3昧」第4弾ではモデレーターを務めた。
Photo:平林義章氏(APA関西)

「大阪にはこんなにも多種多様な広告制作者がいる、ということに気づけたし、一緒に仕事してみたい人が増えました。僕はどっちかというと、制作会社にいた時も今も、企画が動き出してからお声がかかって、チームに“混ぜてもらう”というスタンスが多いですが、JAGDAのアートディレクターやデザイナーには、自分から切り拓いて仕事を生み出したり、ひとつの依頼から何倍もの規模に仕事を広げている方が多くて、すごいな、と」

制作会社にいると、案件の発生は、“クライアント直”か代理店経由のどちらかで、フリーランスのアートディレクターやデザイナーと組んだり、他の制作会社と協働したりすることはまずない。そんな制約を取っ払って、いろんな人と仕事がしてみたい、という願望が独立の後押しになった。

そういえば、仕事は年々楽しくなっている。

フリーになって、いろんな制作会社と組んだり、フリーランスのADからオファーを受けたりと、「仕事の出どころ」はバラエティ豊かになった。最近では東京で活動していたクリエイターが、新しい暮らし方と働き方を求めて地方にUターンやIターン移住をしているケースも多いが、そんな人たちから誘われてリモートで一緒に進めたプロジェクトもいくつかあり、距離を超えたネットワークが広がりつつある。

「いろんなつながりに支えられてここまでやってきて、仕事は年々楽しくなっています。以前、著名な方が話されていたことですが、人、お金、仕事、のうち、どれか2つがあればやっていける、と。僕もこのバランスは大切だと感じています。金額が合わないというだけで、やらない理由にはならないですね」

この人とやりたい、この仕事は面白そうだ、と思えばまず飛び込んでみる。「頼みやすい存在でいたい」という思いがそこにある。

根っから人懐っこいタイプと思いきや、意外にも新人の頃は人と会って話すのは得意ではなかったという。それが「誰かと一緒にやるのが楽しい」と思えるようになったのも、刺激を与えてくれる数々の人との出会いのおかげ。

「人見知りだしアドリブはきかないし、で、昔は打ち合わせや取材も苦手だったんです。取材ってナマモノなんだけど、どこかで自分のつくりたい方向性に合わせて、相手に喋らせようとしてしまったり……。でもある時、そうじゃなくて、相手に教えてもらおう、助けてもらおう、ってスタンスで飛び込んでみたら、すごく気が楽になって、計算なしで流れに任せて話を聞けるようになりました」

同じ業界のクリエイター、クライアントの社長や職人。仕事で出会うあらゆる人々に、心を開いて向き合ってみることで、想定外のアイデアが生まれたり、相手との「チーム感」が強まったりする。ジャムセッションのように「共創」を楽しんでいるのが、わきたさんの今なのだろう。

作例
2019年、明石城の築城400年というメモリアルイヤーにシリーズ展開した観光ポスター。「謎めくあかし、解きあかし。」がタグラインになった。

前例のない時代に、「新しいことば」をつくっていくために。

その一方で、わきたさんの前に立ちはだかる壁もある。コロナ禍がもたらしたパラダイムシフトはそのひとつだ。

「あらゆるものがそうですが、例えば『お酒』『ヘアケア』などのコピーも、コロナ以前の発想では書けないですよね。誰かと一緒に飲むことやアフターファイブという概念が失われてしまって、お酒がかつてとは違う場所に置かれています。ヘアケアもそうで、女性に聞くと、これだけ人に会わない毎日だと、がんばって髪を手入れしたりセットする気分になれない、と。想定外のことがいっぱい起こっていてむずかしいけれど、だからこそ、この状況でコピーを考えられることに楽しさを感じています」

大阪芸術大学の文芸学科で、非常勤講師として「コピーライティング」の授業を受け持って4年目になるというわきたさん。学生たちと「コピーを書く切り口」についてブレインストーミングをすることもある。「モノ・サービス」×「時代・社会」との交点から、いかにして独自の切り口を見つけるか。そんな議論を通じて、「若い世代のリアル」を掘り起こしていく中にも、さまざまな発見がある。

「伝えたいこと」がある人々とともに、どこへでも。

コピーライターというと、人目を惹くキャッチコピーばかりが注目されがちだが、世間一般で思われている以上に、コピーライターの守備範囲は広い。企業や自治体、NPO、個人商店にいたるまで、あらゆる主体が行うコミュニケーション活動のすべてが、コピーライターの仕事になりうる。

「ポスターもつくるし冊子もつくる。ウェブもつくるしラジオや動画シナリオに関わることもある。“このジャンルしかやらない”というこだわりは一切なくて、そこに“伝えたいこと”があるなら、それはもうコピーライターの仕事だと思っています」

高校時代は弁論部に所属し、北海道代表として全国大会にも出場した。聴衆にゆっくり語りかけるようなスタイルで、原稿用紙にして「4枚と2行ぐらい」の文章を、何度も徹夜しながら書き直した。その経験は、今になってみれば延々とボディコピーを書く訓練をしていたようにも思えるという。顧問を務めてくれたのが政治経済の先生だったこともあって、先生との対話を通じて、自然と「社会」に興味が湧いた。そして大学に入り「ことばを使う仕事に就きたい」と思った時、目の前にあらわれたのは広告でありコピーだった。

「コピーライターというのは、自分のやりたいことが詰まった職業だと思う」と語り、今後は、プロジェクトに「呼ばれる」だけでなく、自分が起点となって仕事を生み出せるようになりたいと意欲を示したわきたさん。次の心躍る「汽笛」は、どこから聞こえてくるだろう。

イベント風景

イベント概要

フリーのコピーライター2年半の途中経過
クリエイティブサロン Vol.191 わきたけん一氏

どうしてもこのジャンルの仕事がしたいという考えを持ったことがありません。どちらかというと、人との巡り合わせでなりゆきで仕事をしてきました。そのため、2年半前に独立をしてから、いっそう人とのつながりの大切さを感じる日々です。メビックさんをきっかけに、いろんなデザイナーさんと知り合えたのですが、フリーになってよかったことを挙げると、僕に取っては、そういったつながりが増えたこと、それによっていろんな方の仕事の仕方を知れたことです。そんなこんなで、コロナ禍でのフリーランスの働き方やこれからについて意見を交わせるような場になるとうれしいです。詳細は秘密(未定!!)

開催日:2021年1月15日(金)

わきたけん一氏(わきた けんいち)

KITEKI 代表 / コピーライター

北海道のものすごく雪の多い地域に生まれました。大学進学で関西に上京して、学生の時にコピーライター養成講座に通い、そのまま広告業界に入りました。グラフィックの制作会社に12年半在籍して2018年に独立。仕事の傍ら、大阪コピーライターズ・クラブの運営にも携わっています。

わきたけん一氏

公開:
取材・文:松本幸氏(クイール

*掲載内容は、掲載時もしくは取材時の情報に基づいています。