コンプレックスを越えて掴んだ、デザインという生きる術
クリエイティブサロン Vol.164 和田匡弘氏

164回目を迎えたクリエイティブサロン。今回のゲストスピーカーは、メビック扇町『コラボレーション事例集2019』を手掛けた、グラフィックデザイナーの和田匡弘氏。現在35歳、独立3年目を迎えた若手クリエイターだ。「90分話がもつか不安なのでゆっくりめに喋ります(笑)」と、控えめな言葉からサロンはスタート。これまでの経歴や長い修業時代、そして独立後のことなど、さまざまなエピソードが語られたトークには、和田氏の人柄とリアルなクリエイターの姿が詰まっていた。

和田匡弘氏

芸大からハミ出したことがデザインの世界へ進むきっかけに

1984年生まれ、神奈川県出身。阪神・淡路大震災で祖父母宅が倒壊したことをきっかけに、小学校卒業後に西宮市へ移住。最初は言葉の壁に戸惑いながらも、関西で青春時代は過ごすことになる。時は経ち、高校での進路選択のとき。「大学には行かなければいけないと思っていたんですが、勉強はしたくなかった。なら、勉強しなくてよさそうな芸術大学がいいんじゃないかと思って(笑)。そのときはデザイナーという仕事も知りませんでした」と、進学先を芸大に決定。一浪の末に、宝塚造形芸術大学(現宝塚大学)に入学を果した。念願のキャンパスライフが始まったが、クラスの同級生たちとは趣味も話も合わない……。音楽好きが高じてバンドを結成していた和田氏は、そこからさらに音楽活動に傾倒。友達を作る場所は、もっぱらライブハウスだったという。

大学へは行かず、バンド、ライブ、スタジオ、アルバイトのルーティンを繰り返す日々。その結果、大学を留年してしまう。「授業を受けていないし、大学にいる意味がない。親に迷惑も掛けているので、中退することにしました」。そのときに、初めてグラフィックデザイナーの仕事が視野に入った。「在学中に、教材としてイラストレーターとフォトショップを購入していて、独学でライブハウスやイベントのフライヤーを作っていたんです。これが仕事にならないかと思って」。たまたま求人誌で見かけた、デザイン事務所の求人に応募。未経験、応募者多数、さらに面接に遅刻するという悪条件のなか、奇跡的に採用を勝ち取り、有限会社ガラモンドへ入社することになる。デザイナーとしての一歩を踏み出したが、これが長い修行時代の始まり。22歳のときだった。

フライヤー
大学時代はバンド活動に夢中で、実家の壁にはライブのフライヤーが一面に。「真面目に大学に行っていたら、デザイナーになっていなかったかも? 好きなことを全力でやっていたから、今があると思います」。

自信を持てず苦悩した修業時代
数々の出会いが開いた独立への道

「トンボも知らないし、デザインの本を見ても意味が理解できない。いつクビになるかビクビクしていました」と振り返る和田氏。芸大に通ってはいたが、デザインの基礎を習得していないがゆえに、苦労も多かったという。入社当時の仕事は、ポジのスキャン、原稿の引き取りなどの雑用。写真の切り抜き作業は、飽きるほど繰り返した。必死に雑用をこなすうちに、ようやくデザインにも携われるように。しかし、制作したデザインのチェックを社長にお願いするも、全く通らない。「手直しされ『最初からこういうの持って来てね』と、言われるんですが僕には無理で……。自分が作ったモノでは無くなっていく感覚も辛かったですね。しかし、心のどこかで社長チェックを待っている自分がいるんです。どうせチェックを通らないからと……」。手を動かすほどに自信を失う。そんな悪循環に陥り、悶々と過ごす日々が5年ほど続いた。当時について「デザインの基礎を学ばず、自分の感覚だけでやっていたから、まったく進化がなかったんです」と語るが、デザイナーの仕事を諦めようとは思わなかった。「ここで投げ出すと他はない。入社時から背水の陣の気持ちでした」。また、事務所をシェアしていたデザイナーの姿を見て、“30歳ぐらいで独立”するビジョンが心の中に育ちつつあった。

暗中模索する和田氏に転機が訪れる。クライアントから、「コレやってみる?」と声を掛けられた。それが企業の広報誌。「好きに作らせてもらったんですが、ハマッた感覚がありました。『自由にしていいんや!』と気付いたんです」。お客と一緒に作り上げながら、自らの個性をデザインへ落とし込むこと。この仕事をきっかけに、自分のスタイルを表現するようになっていく。また、2013年からの3年間、会社に在籍しながらメビック扇町のコーディネーターにも就任。「他社や同世代のデザイナーと出会えるのが楽しかったですね」と、さまざまな場所へ赴き、多くのクリエイターと交流することは、悶々と過ごす和田氏にとって刺激的なものだった。また、出会いによって、新たな動きも起こり始める。縁あって「わたしのマチオモイ帖」の町内会(制作委員会)に参加し、先輩クリエイターの手腕を間近で学ぶことができた。さらに、結婚を機に新居を構えた宝塚市をテーマに、自身もマチオモイ帖を出品。その作品が宝塚市役所の目に留まり、宝塚市の音楽イベントのポスターやPTA冊子の制作など、個人のデザインワークへと発展していった。

「メビックに参加していたのは、新たなクリエイターと出会うことが“会社のため”になると思っていたから。しかし、活動を通じて自分のポジションを客観視できるようになりました」と、自身の今と将来を真剣に考えるように。ちょうどそのとき、会社でのポジションが分からなくなり、“会社にいる意味”を考えていたタイミングでもあったという。そして、33歳のとき、11年勤めた会社を退職して独立。さらに、同年には第一子も誕生。人生の大きな転機が訪れた。

ポスター
「マチオモイ帖」への出品を縁に、宝塚市で行われる音楽イベント「宝塚音楽回廊」のポスターデザインを担当。その他にも、新たな地元・宝塚市にまつわる仕事に多く関わっている。

一人のデザイナーが描く未来像
独立後の仕事から見えたこれから

「チラシ一枚なんぼやろ? じゃぁ、何枚か作れば生活できる! みたいな、簡単な勘定で独立しました(笑)」と笑う和田氏だが、先輩たちから独立を祝う「ご祝儀仕事」も舞い込み、順調な滑り出しに成功した。仕事のスタイルについて「来るもの拒まず、何でもやる」と言い、独立後に手掛けた仕事が紹介された。特に思い出深い仕事として挙げられたのが、冒頭でも触れたメビック扇町『コラボレーション事例集2019』。「これまでの事例集の完成度が高過ぎて、どうしようかと悩みました……」。会社員時代に制作に関わったことがあり、クオリティの高さや制作の難易度は理解していた。そこで、コピーライターの大西崇督氏とタッグを組み、二人三脚で大きな壁に向き合った。「適当な案は出せません。何度も打ち合わせを重ね、最終的に決定したのが“○○○を越える”というテーマでした。制作は大変でしたが、とてもいい経験になりました」。また、影響を受けたできごととして紹介されたのが、イタリアンデザインの本質を学ぶ「プロジェッタツィオーネを学ぶ旅」に参加したこと。「何でできているか?という、マテリアルの概念を知ることができました。デザインであれば点と線のようなもの。意識していなかった根本的な部分を知れ、モノの見方が変わった気がします」と、イタリアでの学びの一端を教えてくれた。

現在は独立3年目。9月には第二子の誕生も控える和田氏。最後にこれからのビジョンについて語ってくれた。「まずは楽しく過ごすこと。そして生き残ること。止まっていたら消えて行くと思っていて、デザイナーとしてどう生き残るかを考えています。あとは、40歳の目標。人を雇ったり、地元の仕事をメインにする手もある。フリーランスは経営者でなければいけない、と思うようになりました」

コラボレーション事例集
苦心の末にでき上がった『コラボレーション事例集』。デザインを和田氏、企画・コピーを大西氏が担当した。そのでき映えは、ぜひ実物を手に取って見て欲しい。

苦しんだからこそ感じられる充実
デザインに向き合うひたむきな姿勢

トーク後の質疑応答の時間にも、多くの質問が飛び交った。その中から印象的なQ&Aをいくつかピックアップして紹介したい。

Q

30歳で独立を考えていたそうですが、実際の独立は33歳。なぜ30歳で独立しなかったんでしょうか?

A

当時の自分にとって独立は遠すぎました。会社の外に出せないモノを作っているくらいですから……。メビック扇町のコーディネーターをしていた頃でもあったんですが、出会う人がみんな“巨人”に見えていました。好きなことして、お金を稼いで、楽しそうで、キラキラして……。なおさら自分には遠い世界だと感じていました。

Q

自分のデザインに自信がついたタイミングはいつでしょうか?

A

デザインの良し悪しではなく、お客様に喜んでもらったときですね。「コレだよコレ!」って言ってもらえたことが自信に繋がっています。27、8歳のときに、一般企業に勤める非デザイナーの方に、講師としてデザインを教えたことも大きかったです。このために、イチからデザインの基礎を勉強し直したこともあり、社長チェックで指摘された言葉の意味を、ようやく理解できるようになりました。

Q

今後、どんな仕事をやりたいですか?

A

もっと地元の仕事をやってみたいですね。住んでいる場所の、住んでいる範囲の仕事が、今おもしろい。地元ではデザイナーへの理解度も低いですから、デザイン料の話などをイチから説明しなければいけない。けど、それが楽しくて。多くのデザイナーが活躍する大阪よりも、競争相手の少ない場所で仕事を広げることも、生き残るヒントになるんじゃないかと思っています。

「自分にはデザインができない、というコンプレックスがあります。芸大へ行ったのに何も学んでいないし、絵も苦手ですし」と言葉を漏らした和田氏。しかし、ある参加者から、今のやりがいについて問われたとき、「全部です。どの仕事も楽しいし、お金を稼げ、人の役に立っていれば満足。頼りにされていると思うと嬉しくて」と、即答する姿が印象的だった。意図せず出合ったデザイナーの仕事に、コンプレックスを越え、嘘をつかず、ひたむきに向き合う誠実さ。その姿勢こそが、和田氏の充実したクリエイターライフを支える最大の武器に違いない。

イベント風景

イベント概要

35歳、グラフィックデザイナーの話
クリエイティブサロン Vol.164 和田匡弘氏

独立して2年が経ちました。ここまで本当にいろんな人に助けられてきたと思います。大阪での仕事だけでなく、住んでいる地元での仕事も徐々に増えていき、デザイナーだからできる地域貢献についても考えるようになってきています。普段の仕事の取り組み方や会社員時代のメビックコーディネーターとしての経験。独立してからの仕事。メビックのコラボ冊子制作、イタリア研修ツアー参加の話など。そして自分自身の今後の話もできたら幸いです。肝心なのはおもろい話ができるかどうか! 相当プレッシャーです。愛のあるツッコミお待ちしております!

開催日:2019年7月17日(水)

和田匡弘氏(わだ まさひろ)

1984年生まれ。35歳。2006年、デザイン会社の有限会社ガラモンドに入社。11年間就業の後、2017年4月に独立。独立後はお笑い・落語を中心としたイベントビジュアル、冊子製作や企業の事業承継のお手伝いなどに携る。日々芸人のような高いテンションで仕事と向き合っています。得意なモノマネはビートたけし。

和田匡弘氏

公開:
取材・文:眞田健吾氏(STUDIO amu

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