デザイナーは一日にしてならず。七転び八起きのデザイン道。
クリエイティブサロン Vol.151 清水友人氏

今回のクリエイティブサロンは、グラフィックデザイナー、専門学校講師として活躍する360の清水友人氏をゲストに迎え、「あの日、あの時、あのコトバ」をテーマにお話を伺った。
これまでも多彩なゲストが登壇し数々の仕事論を披露してきたが、今回は幼少期の苦悩にはじまり、家族との思い出、就職後の葛藤……と話が公私に亘り、当時の心情が赤裸々なまでに素直な言葉で語られた。

清水友人氏

悩み多き幼少期から驚くべき変貌を遂げて

まず、話は清水氏の誕生をはるかに飛び越え、120年以上前のご先祖様の時代にさかのぼる。もともと清水氏の家系は滋賀県でも有名な老舗の菓子店。看板商品の「堅ボーロ」は宮内庁や旧陸軍に納めた由緒ある逸品である。嬉しいことに、この日は清水氏から会場の参加者に向けこちらの銘菓がプレゼントされた。その名に違わずしっかり歯応えのある「堅ボーロ」。案の定、あちこちから「堅っ!」というつぶやきがこぼれたものの、参加者の心をしっかり掴み会場の空気は一気に温まった。

そこで、話は本題へ。三人兄弟の真ん中、姉と弟に挟まれて育った清水氏は、一人遊びが好きで、運動するより想像力を働かせて新たなアイデアを生む方が好きだったとか。すでにクリエイターとしての素質が顔をのぞかせていたようだ。
しかし、小学校入学を機に大きな壁にぶつかった。それは、同級生によるいじめと摂食障害。もともと小柄だったことからいじめの標的にされ、ひどい時は学校の空き教室の戸棚に閉じ込められたこともある。さらに中学時代には摂食障害がピークに達し、勉学への意欲を失い登校拒否を繰り返した。
その後、高校に進学。しかし、ここで会場のプロジェクターに映し出されたのは、まさかの金髪、短ラン、日の丸(の国旗)の写真。控え目にも「昭和のヤンキー」としか言いようのない姿であった。あまりの転身ぶりに驚くものの、「高校は人間関係が一新されるので、小学時代のいじめから脱却できるチャンス。それに、周囲が相当やんちゃなメンバーだったので、もし標的にされたら何をされるかわからないと思いました」と言われれば、納得できないこともない。弱い自分を乗り越えようとする心情が見てとれ、精一杯自分を大きく見せる姿には微笑ましさすら感じられる。その後も、高校時代の数々の“やんちゃエピソード”が披露されたが、なかでも秀逸なのは当時使っていた学校の机と椅子だろう。油性ペンによって華やかにデコレーションされ、皮肉にも清水氏のデザインセンスが遺憾なく発揮された傑作。思わず会場の参加者からも笑みがこぼれた。

椅子
幼少期からお絵かきが好きだった清水氏。「高校時代はその媒体が学校の机や椅子、壁だっただけです」との名言も。

デザイナー人生を決定づけた大先輩からの言葉

幼少期からその片鱗が見え隠れしていたものの、清水氏が「デザイナー」という職業と出会ったのは意外にも遅く25歳の頃。すでに高校卒業後いくつかの職業を転々としており、新たな活路を見出すべく看板制作会社に就職した。しかし、当時の清水氏はパソコンに疎く、イラストレーター、フォトショップの知識も皆無。看板の設置要員として扱われ、せっかく見つけたデザインの仕事を失ってしまった。そんな時、声をかけてくれたのが父である。
「家業の害虫駆除業のホームページを作ることになり、そこで使うイラストを発注してくれたんです。たぶん息子のことをずっと心配してくれていたのでしょう。これが、僕にとって初めてのクリエイティブ関連の仕事になりました」

それまでそりが合わず激しく口論した時期もあったが、父は常に清水氏を見守り続けていたのである。これを機に氏の人生は大きく動き出した。まず、デザインへの思いに気づいた姉が、「デザインの学校に通わせてあげて」と両親に頼んでくれたのだ。
「この時、姉が言い出してくれなかったら、僕はあのまま地元でふらふらしていたでしょう。自分でも『これを逃したら僕の人生は終わりだ』と思い必死に努力しました」

それからというもの、大阪の専門学校入学に向けて似顔絵屋でデッサン力を磨き、入学後も「人の3倍努力する」と決めデザインの習得に打ち込んだ。当時すでに27歳、これまで過ぎた時間を取り戻すかのように貪欲に学びを乞うたのである。なかでも大きな学びとなったのは、JAGDA(公益社団法人日本グラフィックデザイナー協会)の1dayスクールでのこと。数々の広告賞、デザイン賞を総なめにしたアートディレクター・副田高行氏と出会い、胸中に抱えた悩みを相談した。
「専門学校卒では、大手代理店に入れないのでしょうか?」
それに対し、副田氏からは返ってきた答えは、「人の役に立ちなさい」という非常にシンプルな言葉だった。
「当時の僕は、誰もが知っている大きな仕事をしたい、と外聞ばかり気にしていました。だけど、副田さんの答えは違った。『人の役に立てば、人は放っておかないよ』とおっしゃいました」
この言葉は、今でも清水氏の生きる指針になっている。人は痛みを味わってこそ、他人の痛みを知り、強く優しくなれるのかもしれない。だとするならば、幼少期の辛い体験は、人を思い人のために尽す、この言葉と出合うための布石だったと言えるだろう。


不動産のロゴ

さまざまな現場を経験
自らの生き方を探して

専門学校を卒業後、東京の広告会社に就職し、意気揚々とチラシ制作の仕事に携わった清水氏。だが、徹夜続きの過酷な労働環境下でパニック障害を引き起こし、退社を余儀なくされてしまう。さらに、大阪に戻りデザイン会社に勤務するも、今度は父のガンが悪化し実家へ。闘病生活を支えることとなった。
「これまで弱音を吐いたことがない父が、ある日一言だけもらしました」
「俺の人生、仕事ばっかりやった」
清水氏にとってよほどショックが大きかったのだろう。この言葉は、父の死後も氏の心に暗い影を落とし続けた。
だがその一方、「天国の父を安心させたい」との思いからデザインの仕事に邁進し、再び上京を果たす。そして360を立ち上げると、大手企業のノベルティーや人気アイドルグループのDVDなど、さまざまな案件を手掛けてデザイナーとしての道を確立させていった。
その後、2年を経て帰阪。学生時代から憧れたJAGDAに入会し、メビック扇町ではコーディネーターとして活躍。専門学校の講師業にも励み、「メビックで広い見聞を、JAGDAで深い知識を得て、講師業で生徒たちに受け継ぐ」と自身の活動を捉えている。
近年は、本の装丁や学校関係のパンフレットの制作に携わっており、大切なあの言葉「人の役に立つこと」を胸にデザイン業、講師業に奔走している。おかげで、他界から6年を経てようやく「仕事ばかりだった」という言葉を乗り越えられたそう。「今は父のように一生懸命生きようと思っています」と晴れやかな表情で締めくくった。

同業者のみならず、専門学校の教え子を前に、栄光も挫折も包み隠さず語った90分。自身も「かなり勇気が必要だった」と語るように、その覚悟が言葉の端々から伝わってくるようであった。
小柄で気弱な少年はデザインと出会い、人のために生きることを知った。そして、今、生涯の職業として力強く道を歩み続けている。その姿は、明日を担う若手クリエイターに、「生きること」そのものの意味を伝える時間になったのではないだろうか。

イベント風景

公開日:2018月10月16日(火)
取材・文:竹田亮子氏

清水友人氏(しみず ともひと)

清水友人氏

360 代表 グラフィックデザイナー

1976年生まれ。滋賀県出身。グラフィックデザインプロダクション、大手印刷会社でのグラフィックデザイナー勤務の後、2009年に360を開業。代表的な仕事として、某アイドル DVD パッケージデザイン、某番組CD、某出版会社CD、某車メーカー キャンペーンなどがある。グラフィックデザインのみにとどまらず、360度の視点でさまざまな問題を解決することを信条に活動している。