手を広げ、貪欲にかき集めて最後に残ったのが“文章”だった
大西崇督氏:37+c

大西崇督氏

Web動画やラジオCMのコピーや企業PR記事など、さまざまな執筆を手がけるコピーライターの大西崇督氏。もうひとつの顔は、企業研修で文章の書き方を教える研修講師。さらに、アートブックを制作する“アーティスト”でもある。コミカルなコピーから硬い文章、心に染み込む物語。変幻自在に文章を紡ぐ大西氏の、コピーライターになったきっかけやこれからの目標などをうかがった。

運命を変えた畑中ふう氏との出会い

大学浪人中の1994年。ナレーターの畑中ふう氏とミュージシャンの打越元久氏によるラジオ番組『RADIO HAAFUU』(FM大阪)にハマったことが、大西氏の人生に大きな影響を及ぼした。大西氏は“ハガキ職人”としてその番組にこつこつとハガキを送り、いつしかリスナーの間で名の知れた存在に。「それが原因で2浪してしまうんですけれども(笑)」
進学先の長崎県立大学で出会った同級生が、偶然にも『RADIO HAAFUU』のヘビーリスナーとわかり、意気投合。ふたりでラジオコントを制作し始めた。ところが友だちに聴かせると、反応は「おもしろくない」と散々…。「素人にはこのおもしろさはわからん。プロに聞いてもらおう」。頭に浮かんだのは畑中氏の顔。さっそく畑中氏の事務所にラジオコントを録音したカセットテープを送った。「聴いてください。できれば会いたいです」と手紙を添えた。すると数日後、なんと畑中氏からじきじきにメールで返事が来たのだ。

大阪へ帰省したタイミングで、畑中氏と会うことに。「キミ、卒業後はどうすんの?」と尋ねられた大西氏は、緊張気味に「コントのテープを自主制作して、それを売って生計を立てていきたいです!」と初々しく答えた。「『君、大丈夫か?』と思いますよね(笑)。僕なら3時間ぐらい説教したい」。大西氏は当時をふり返って笑う。しかし、畑中氏は温かかった。「ラジオCMのコピーを書く仕事があるから、大学を卒業したら紹介したる、と言ってくださったんです」

コピーの仕事としゃべりまくるアルバイト

2000年、大学卒業後に畑中氏の元を訪ね、ラジオCMなどを手がける制作会社を紹介してもらった。しかし、就職ではなくあくまでも紹介。すなわち、大学卒業早々にフリーランスでの門出となった。右も左もわからないなりに会社に通い、「何かないですか?」と伺いを立てる毎日。
そして、4カ月目にしてついにビッグチャンスが到来。「ラウンドワン梅田店の、ニューオープン告知のラジオCMのコピーを仕事としていただけたんです」。ラジオCMの多くがコンペ形式。そんななか、大西氏が書いたカップルのボーリングデートを描いたコミカルなやりとりが1分間のラジオCMに。センセーショナルなデビューとなり、ラジオCMの仕事が入り始めた。

とはいえ突然仕事が舞い込むわけもなく、生活は苦しいまま。しかし、くじけているヒマはない。必死でコピーを書き倒し、生計を立てるためのアルバイトにも精を出した。そのときに出会ったのがテレビ局の集客管理のアルバイトだ。集客管理とは、テレビ局に訪れた番組観覧客をアテンドする仕事。大西氏が任されたのは「前々説」と呼ばれるもので、収録が始まるまで控え室で待機している観覧客100〜150人を相手に、スタジオ収録開始までの空き時間をトークでつなぐという役割。「これが、40分ぐらいあるんです。『今日、いちばん遠いところから来た人〜?』とか、とにかくしゃべってしゃべって(笑)」。回を重ねるごとにトークの腕が上がり、3年が経った頃には新人ADが「勉強させてほしい」と見学に来るまでに。「コピーライターなんですけど、しゃべりはこれでだいぶ上達しました(笑)」
そんなとき、青春時代に情熱を注いだ『RADIO HAAFUU』が、『畑中フー・打越元久のハーフータイム』(MBSラジオ)として復活することになり、畑中氏から「構成作家見習いで手伝われへんか?」と誘われた。大西氏、29歳。第2章の始まりだった。

無我夢中で駆け抜けた
『RADIO HAAFUU』スタッフ時代

『畑中フー・打越元久のハーフータイム』の構成作家としてラジオ制作にかかわることになった大西氏。番組自体は1年で終了するが、『RADIO HAAFUU』時代からのリスナーがいたことと、コアな内容がウケてファンが急増。番組イベントを開催すると会場に観客が入りきらないほど人気を集めた。そこで畑中氏は、ファンへの情報発信やトークライブを運営するための『RADIO HAAFUU』の事務所を開設。大西氏も引き続き畑中氏の元で働くことになった。

しかし船出した矢先、『RADIO HAAFUU』公式ホームページが消失してしまうトラブルが発生。「早急に復旧しないといけないのに、当時のメンバーにはwebデザインができる人がいなかった。すると畑中さんが『おまえ、やれ!』と」。まだSNSが普及していない時代。ホームページ作成ソフトを使い、教本を片手に手探りで急場をしのぐしかなかった。そのトラブルをきっかけに、大西氏はwebデザインやホームページの運営管理をゼロから勉強。音声ブログや『RADIO HAAFUU』Podcastなど音声系のコンテンツを着々と増やし、テキストブログも書き始めた。これに加えて音声ブログの音声録音・編集、イベントのフライヤーデザイン、構成作家などありとあらゆる仕事をこなし、『RADIO HAAFUU』に欠かせない存在になった。

『クリエイティブエキスポ』で再確認した
「やっぱり“文章”」。

はた目からは順風満帆のように見えるが、実は迷いを抱き始めていた。34歳で初めてメビック扇町に足を運んだときのこと。さまざまなクリエイターと交流する中で、いざ自己紹介しようとすると「俺の肩書きは一体なんやろう?」と悩んだ。「コピーライターやけど自慢できるほどのスキルもない。音声の録音・編集はできるけどプロの方から見たら甘すぎる。デザインもまあまあ、Webもそこそこ。どれも中途半端で…。僕の肩書きは、一体なんなんだ? と疑問を抱くようになりました」


イラストレーターの清水敬二郎氏、フォトグラファーの西村優子さんとのアートユニット「Trigger」で制作したアートブック『17+C』 撮影:西村優子氏

迷う自分に光を差し込んでくれたのもメビック扇町だった。イラストレーターの清水敬二郎氏とフォトグラファーの西村優子さんに出会い、「何か一緒にやってみたい」という想いに駆られて2011年にアートユニット「Trigger」を結成。2011年、ブリーゼブリーゼで行われた「クリエイティブエキスポ 2011 autumn」に、写真とイラスト、ストーリーで構成されたアートブックを出展し、目の前がパッと開けた。「来場者の方から『この文章がすごく好き』と言ってもらえたんです。そのとき、『いろいろやってきたけど、やっぱり僕は文章だ』と強く感じた。やっと胸をはって『これが僕の文章です』と言えるようになりました」
2015年、39歳で『RADIO HAAFUU』を離れ、独立。「少し高めの体温で展開するクリエイティブやコピーライティング」との意味を込め、「37+c」の屋号に決めた。

僕の文章の役割は、
誰かを助けたり問題解決に役立つこと

電光石火のように駆け抜けた20〜30代。41歳になった今は、「自分の文章の役割は、困っている誰かを助けたり、問題解決になれること」という信念のもと、書き続けている。「僕自身、畑中さんや打越さんを筆頭に、メビック扇町の皆さんやいろんな方から助けていただいたから今がある。そこには感謝の気持ちしかありません。だからこそ、次は困っている人に僕が文章でお手伝いできることがあればやりたいし、みんなが幸せになれるものが書きたい」と熱く語る。


企業研修では、文章を書くことが苦手な人に文章を書くことの楽しさや気軽さ、大切さを教えている。8時間にも及ぶ授業の中で、過去に培ったトーク力が役立っている。

現在、企業研修で文章のスキルを伝える研修講師の活動をしているのも「文章で助けたい」との想いから。「今の時代、一般の方でもブログやメール、SNSなど、文章で困っている人がすごく多いんです。僕は正解を知っているわけではないけれど、これまで経験してきたなかで問題を解決する方法や役立つことがあるはず」。研修では、テレビ局での集客管理のアルバイトで培ったトーク力、教える上では『RADIO HAAFUU』で頭に叩き込んだブログの運営管理などの技術が生きているという。「まったく違うことのように思うんですけど、積み重ねてきた過去の15年すべての経験が糧になっているからおもしろいです」と笑う。


天満販売促進部。左から吉永幸善氏(Parabola design)、大西崇督氏(37+c)、竹内進氏(Sharp Focus)、カツミ氏(CA-RIN WORKS)、宮窪翔一氏(design rubato) 撮影:竹内進氏

もうひとつ動き始めたのが、クリエイティブユニット「天満販売促進部」。メンバーは、メビック扇町で出会った建築家、インテリアデザイナー、写真家、アートディレクターといった、その道のエキスパートばかり。今後、ビジネスとして中小企業や地域創生での困りごとの問題解決にたずさわっていくという。

大西氏がまだ20代の頃、畑中氏から言われて今も心に刻まれている言葉がある。それは、「手を広げていろんなものを集めていけ。多くのものは手からあふれてしまうけど、最後に手のひらに残るやつがある。それを一生やれ」という言葉。
「多くの経験を経て、最後に僕の手のひらに残ったのは文章でした。文章は、これからもっと研ぎ澄ませていきたいです。そしてこれからの10年は、もう一度手を広げてみようと思うんです。50代になったとき、手のひらの上に何が残っているのか今から楽しみ」。20代を第1章、30代を第2章とすると、第3章はまだ始まったばかり。大西氏の人生に、また新たな物語が刻まれようとしている。

公開日:2016年09月09日(金)
取材・文:中野純子 中野純子氏
取材班:株式会社一八八 北窓優太氏、メイクイットプロジェクト 白波瀬博文氏