面白いものをキャッチするアンテナとともに、活動のフィールドは広がり続ける。
吉永幸善氏:パラボラデザイン

吉永氏

クライアントの“想い”を受け止め、空間に命を吹き込む、デザイナーの吉永幸善氏。人との出会いを大切にし、パラボラアンテナのごとく情報を集め、興味を持ったことに突き進んでいく吉永氏のスタイルは、空間設計の枠を超え、コミュニティデザインの領域へと進んでいる。実はまったく違った進路を描いていた学生時代から、空間を創造するクリエイターとして大切にしていること、限界集落の再生に関わる面白さまで語っていただいた。

ひとつの道を極めた、原信太郎氏との出会い。

展示会のブースから会場全体、ショールームやエントランスを含めたオフィスのワンフロアの空間設計から、店舗デザイン、博物館や水族館などの展示設計も手がける、デザイナーの吉永幸善氏。
これまでの仕事を振り返って、印象的な仕事をあげてもらった。「それはもう、原信太郎さんの仕事ですね」。コクヨ元専務で世界的に著名な鉄道模型製作・収集家の原信太郎氏との出会い。原氏の世界一ともいわれる鉄道模型コレクションを管理する会社からの依頼で、展覧会の空間設計をすることになった。まずは挨拶に原氏の自宅を訪問した吉永氏は、その小宇宙がごとき鉄道空間に驚愕する。「家に入ったら、まず踏切があって(笑)。100畳の部屋にレールが敷きつめられていました」
次に原氏のつくる模型、精緻を極めた、そのリアルさに驚いた。ギアから板バネ、ベアリング、揺れ枕、ブレーキ、リベットの数まで忠実に再現し、架線からパンタグラフで電気をとる鉄道模型は、見た目も走りも本物そのもの。なにより、これをつくった本人の存在感に圧倒された。鉄道を見たい一心で、世界中駆け巡った情熱。本物そっくりの模型づくりへの想い。展覧会の開催と前後して、横浜に『原信太郎鉄道記念館』創設の話も持ち上がっており、差別化しながらどう見せるかを思案する。そこで吉永氏は、「模型の素晴らしさは、人物の素晴らしさから生まれる」ととらえ、鉄道模型に人生を捧げた原氏の人物像にスポットを当てた展示を提案する。その半生をパネルで紹介し、本人や家族の名言を切り取って、多くの写真や模型とともに展示。それは鉄道模型の素晴らしさだけでなく、夢を持ち続けること、さらにはそれを支える家族の想いまで感じとれる空間となった。本人や家族にも好評を博したこの原信太郎氏の生き様に焦点を当てた鉄道模型店は、2011年の大阪から、4年間場所を変えて開催され、原氏との交流も、昨年逝去されるまで続いたという。「なにもかも規格外の方。これだけ魅力溢れた人と出会えて幸せでした」


本物をそのまま縮小したかのように、細部の表現まで凄ましい原氏の鉄道模型。「初めて見た時は、衝撃で声も出ませんでした」

将来の設計図を大きく変えた、一枚の「間取り」。

吉永氏は、インテリア関係の学校を卒業後、展示会ブースやショールーム設計をする会社に入社。そこからアパレル系の店舗屋、さらにショッピングモールなどを手がける大手の施工会社で数年働いたのちに、独立。順風満帆に見える空間デザイナーとしての道を歩む。しかし、この世界で生きていくと決めるまでは、紆余曲折があった。サッカー少年だった吉永氏、高校時代の夢は、イタリアに渡ってサッカー選手の通訳になることだった。「進学も将来を考えて、外国語系の大学を選びましたし」。大学では中国語と英語を専攻、イタリア語は別の大学、とダブルスクールで学ぶ。夢に向かっての本気度がうかがえる。
その進路を180度方向転換させたのは、大学四回生の春。就職も内定して帰省した際、実家が新居を構えることになり、父から図面を描いてみろと言われた。「まったく知識がないので本を片手に、家に出入りしている大工さんに教えてもらいながら描いていたら、どんどん楽しくなってきて」。ちなみに熊本出身の吉永氏の実家は内装仕上げ業。現在の仕事にも近い、この仕事が嫌いだったという。「家族旅行と称して施工現場に連れて行かれたり(笑)。当時は家が仕事場だったので休みはないし、生活を稼業に侵食される感じが嫌で」。それが図面を描いているうちに、面白くて仕方なくなった。「当時は素人で何もわからなかったので、どこまでできるとか考えずに、“こんな風にしたい”とか言うじゃないですか。それに対して大工さんは、無理でも代替案を提示してくれる。それが凄いなと。家づくりはそういうことの積み重ねですよね」。実際に材木屋に行って、素材を触りながら選んだりするうち、心も揺らいでいく。たった1枚の間取りにも、機能的な動線や家で楽しむ工夫が込められている。知れば知るほど、面白い設計の世界。吉永さんは悩んだ末に、この道を選び、ゆっくりと踏み出した。


2011年に開催された鉄道模型展の大阪会場。数々の名言をパネルにするなど、つくり手たる原氏の唯一無二ともいえる生き様に焦点を当てた内容に

知識を蓄え、何を見せるべきか探求し、掘り下げていく。

仕事で大切にしているのは、企画の意図をどう表現するか。そこを徹底的に探求するということ。「展示会のブースであれば、新商品の特徴をどうわかりやすく伝えるかが大事です。そのためには、まず展示物の知識を深めること。何を言われても答えられるように勉強します。そして展示方法は理論的に組み立てていく。そのロジックによっては、わずか数センチの商品を何メートルにも拡大して見せてもいい世界。だからこそ、そのロジックを裏付ける知識が必要なんです。営業よりも商品のことを知っているくらいにならないと」。コンペに負けた時の原因の多くは、理解不足だという。「もちろん見栄えの良さも必要ですが、それだけではデザインはできない。デザインする要素のひとつとして、掘り下げて考えるという行程がぼくには必要。どんな仕事でもそのスタンスは変わらないです」
また設計だけでなく、店舗であれば看板やメニュー、カトラリーまでトータルで見て、専門の人に振り分けていく、ディレクター的な仕事も多い。「オフィスも、エントランスに足を踏み入れた瞬間に、この企業がどういうカラーを持った企業なのか表現していくべきだと思うんです。そうなると会社案内のムービーまで手を入れたくなる。そんな具合に、どんどん仕事の範囲が広がっていく」


現在、吉永氏が関わっているプロジェクト「NPO法人 英田上山棚田団」。こちらは「古民家いちょう庵」から眺め上山の美しい風景

デザインの仕事も、人との出会いから始まる。

設計やデザインをする人間は、デスクに向かって作業に没頭しているイメージがある。だが、吉永氏はそうではないという。「基本的に外に出ている時間が長いんです。昼間は人に会ったり、ものを見たりする。作業するのは夜から」。気になる店をチェックしたり、話題の建築物が完成したら、直接行ってそのスケール感もきちんと体感したい。それは日中でないとできないことだ。また仕事だけでなく、興味のある人には直接会いに行く。「これだけ効率化を求められる時代に、非効率極まりない(笑)。こうやって蓄積されたものが、どこかで出せたらいいのですが」
最近は「楽しい事は正しい事!」を理念とする、「協創LLP」という団体にも参加。こちらが母体となったプロジェクト「NPO法人 英田上山棚田団」の活動にも深く関わっている。「以前の会社の上司に、“吉永さんは絶対好きだから”と連れて行かれたのが、岡山の美作市」。こちらの上山地区で耕作放棄地となった棚田の再生をしている人たちと出会った。整地からはじめ、耕した土地で米をつくり、その米で酒造りという六次化まで進め、ゆくゆくは地区だけでライフラインをまかなうことを目的としている。その構想を聞くうちに代表と意気投合。この地に通い始めて約5年になろうとしている。時に田植えや野焼きを手伝いながら、パンフレットをつくったり、イベントを開催したり。「こちらにどれだけ誘い込めるか。上山棚田団の活動やここでの暮らしぶりを都会に住む人に紹介して、移住する人を増やしたいんです」。これも広い意味での空間設計といえるのではないか。「これからも好きなことは全部、仕事にしたい」と吉永さんは言う。「自分では、持続する力が取り得かなと思っていて。だから面白いものを見つけて、指し示す立場になれれば」
そういえば会社名は「パラボラアンテナ」から。全方位に張り巡らされたアンテナのように、情報を受け止め、発信する存在であり続ける。そして興味のアンテナがとらえる情報とともに、活動のフィールドも広がっていく。


手で一束ずつ植える田植えや、秋の収穫時期には上山を訪れて、ともに汗を流す。棚田には平坦な田んぼにはない、問題も多いという

公開日:2015年09月10日(木)
取材・文:町田佳子 町田佳子氏
取材班:株式会社明成孝橋美術 孝橋悦達氏、株式会社マジカル 山下大輝氏、有限会社ガラモンド 和田匡弘氏