オリジナリティをコントロールできる「職人」でありたい。
矢野 マチ子氏:イラストレーター

矢野氏

クリエイターの仕事の中でも、とりわけイラストレーターは、自分らしい表現とクライアントニーズの間でせめぎ合いが大きい職種ではないだろうか。シュールな心象風景を独特の世界観で描く矢野さんが、表現者としてどうこの仕事に向き合っているかを伺った。

個性をニーズに「練り込んで」いく。地道な作業だけどこれが面白い。

矢野さんがオリジナル作品として発表しているのは、ほとんどが抽象的な題材だ。人の心の奥底を覗き込むような澄んだ目線。観る者をどこか深みに連れていくような、不思議なパワーを感じさせる。「どういうわけか、暗いのが好きなんですよぉ」。そう人懐こく笑うが、笑顔からは想像できない強烈な個性を放っている。正直、この画風そのままでは商業イラストレーターとして苦しむ場面も多いのでは?「そう(笑)。でも、そのギャップを埋めていく作業が面白いんですよ」。クライアントからの依頼に対しては、とにかく初期段階を大事に、慎重に慎重に進める。ラフイラストとして、一般受けしやすいタッチから、オリジナリティをグッと入れ込んだ自分寄りのテイストまで、数種類を用意して、じわじわと落としどころを探っていく。そうしてやり取りを重ねながら「自分らしさをギリギリまで練り込んでいくんです。やりすぎはダメですが、誰でも描けるものにはしたくないですから」。確かな画力とタフな交渉力があってこその戦術だ。

入選作 入選作
雑誌『イラストレーション』が主催するコンペで入選した作品

専門生時代の公募展入選作が本の表紙に。とんとん拍子に見えたけど…。


コンペ入選作がきっかけで小説の装画デビュー

中学、高校と美術部で水彩画を描いていた矢野さんだが、そもそも絵との出会いはコミック漫画だった。特に好きだったのが『AKIRA』の大友克洋や『ピンポン』の松本大洋のようなエッジの効いた絵。「どのシーンを切り取っても、一枚の絵になるぐらい完成されていると惹かれて」。それ以来暇があれば、細密な人物描写やイメージ画を習作する日々だったが、専門には進まず普通の就職を。しかし、描きたい欲求の芽は矢野さんの中でムクムクと育っていた。会社勤めのかたわら専門学校への入学を決め、昼間は仕事、夜は画学生の2足のわらじ。課題作成が深夜に及ぶことはザラだったが、「これしかない、後に引けないと必死でした」。苦学が矢野さんの才能を開花させ、1年目でイラスト専門雑誌の公募で入選するという快挙を果たした。「長く温めていた作品だったので、特別うれしかった。講評で、自信がなかったレイアウトセンスやカラー表現をほめてもらえたことが力になったと思います」。しかもその作品は、それだけでは終わらない。卒業を前にした就職活動中に、出版社の目に留まり小説のハードカバーの表紙に採用されるという幸運に恵まれた。「本の装丁がまさに一番したい仕事だったので、それは幸せでした。でも、いきなり夢が叶っちゃって、なんだか腑抜け状態になったんですよね」。ノベルティ制作会社に就職を決めたのは、それと同時期。デザイン仕事が中心と承知していたが、「どのみち、イラストだけじゃ食べていけないし」。妙に冷めていた。

自分のフィールドを広げていきたい。必ずイラストにつながるから。

現在はフリーランスとして独立し、バレエスクール、ヘアサロン、カフェなどの販促ツールのイラストで活躍する一方、グラフィックデザインの仕事を依頼されることも増えてきた。今のところ、できればイラスト一本に絞りたい、という欲求は感じていない。むしろ、「最近、仕事でDTPを経験させてもらっているんですが、文字組の世界は楽しいなぁって思って。WEB制作だってそれなりに別の面白さがありますよね。クレイアートとかの立体表現もやってます。モノを多面的に見る訓練なのでものすごく勉強になるんですよ。どの経験もイラスト技術を上達させると思うから」。今は貪欲に守備範囲を広げるフェーズにいる。

器用に何でもこなせる、というのが必ずしも高評価につながるわけではないのかもしれない。“何でも屋”になることのリスクもよくわかっている。さすがにこの「暗い」画風で、ファンシーなキャラクターイラストを、と依頼されればキツイけど。でも、「あえて器用と言われたい。自分のスタイルはちゃんと持ったうえで、ニーズに沿える術も持ち合わせていますよ、という感じかな?」。矢野さんがそう言い切れるのは、自分の世界観やオリジナリティにブレがないから。いざとなればいつでも、自分のカードを出せるという自信があるからに違いない。

自分らしさ。こだわらないけど見失わない。


矢野さんが表現したいのは「コワいけどキレイ」な世界

自分のオリジナリティ一本で狙える仕事は、現実にはそう多くない。その中でも、矢野さんが射程距離に置きたいのが本の装画の仕事だ。「私の絵を見て、その世界観を感じてくれた編集の方から依頼がくるというのが基本ですから、ほんとに絵だけの勝負ですよね。そこが今考えられるベストな到達点かな」。そのためには「私の作品が知られてなんぼですから」、とにもかくにも発表の機会を得ることだ。さまざまな公募に精力的に応募することはもちろん、自ら企画するグループ展など、折に触れて発信を続けていく努力は肝に銘じているつもり。一方で、たとえ「器用な」職人として修業を重ねていても、好きな音楽や漫画、映画に浸る時間を大切にして、感性がすり切れないようケアもしているとか。もっとも、学生時代から絵とは別にバンド活動も続けているというのだから、言葉にできない「何か」を発していきたいエネルギーは、枯れるどころか満々と胸に秘めているはずだけれど。

実は、彼女の名刺デザインとメールアドレスの文字の一部に、ほかの人が見てもわからない自分だけの「好きな世界」を暗号っぽく入れ込んでいる。それって、“自分らしさは譲れない”という自分への約束だろうか? みなさん、矢野さんに会ったら、ぜひ聞いてみて下さい。

公開日:2013年03月29日(金)
取材・文:大野尚子 大野 尚子氏
取材班:辻 美穂氏