広告の原点に立ち返って提案する力。
田中 有史氏:田中有史オフィス

田中氏

南船場にある大阪農林会館。1930年に建築されたこのレトロビルには、個性的なクリエイターや店舗が多く入居しており、いつかはこのビルに、と憧れる人も多い。クリエイティブディレクター・コピーライターとして活躍する田中有史さんが、独立と同時にこの農林会館にオフィスを構えて、今年で20年になる。静かな時間が流れる空間で、広告論から書くということ、そして最近手がけられているブランドマネージメントまで語っていただいた。

“生涯一制作者”という、現場主義。


神戸親和女子大学(2010-2011)
額面ポスター

広告が勢いを持っていた80年代。田中さんがこの世界に入ったのも、ちょうどその頃だ。まだコピーライターという名も知らず、広告の会社は面白そうと漠然とした思いで入った広告代理店では営業に配属され、半年で退社することに。別の広告会社に入ると同時に宣伝会議に通い、実践とともにコピーを学んだ。その後、宣伝会議の先生の紹介で(株)MAQに入社。「そこからが本当の制作人生の始まり」。ここに入ってなければ中途半端なコピーライターになっていたと言う。それぐらい鍛えられた。良いものが書けないと目の前で原稿用紙を破られ、そのままゴミ箱へ。厳しい社長だった。「他のプロダクションは、いかに代理店に気に入られるかという発想。それに対してうちは、代理店に対してもコンセプトが正しいか検証してから進めなさいという姿勢」。それは自分にも受け継がれているという。こちらには12年在籍した。「ぼくは営業が嫌いなので、一生この会社で現場をやれたらと思っていた。でも長くいると監督的な役割も増えてくるでしょ」。組織にいれば誰しも経験することだが、“生涯一制作者”を名乗っていた田中さんの、信条には合わない。

92年に独立し、農林会館にオフィスを構えた。「前の仕事を持たずに辞めたから、しばらくは遊んでました」。社長は仕事を持って行けといったが、辞めるのなら中途半端なことはしたくない、と断った。フリーになったからには今までの仕事は全部捨て、新しい人とイチからやろうと考えていた。田中さんの態度は一貫して、潔い。「MAQ時代の財産は人なので、独立した時にDMを1000通ほど送って。頼りはそれだけでした」。半年くらい経って、少しずつ仕事が入ってくるようになった。


神戸親和女子大学(阪急六甲駅)看板

人の目にとまって、はじめて広告は機能する。

その後の活躍は目覚ましい。広告キャンペーンからSPツール単体の企画・制作、グラフィック広告・テレビやラジオのCMも手がける。京阪電車のキャンペーンで、「おけいはん」という言葉を考えたのも田中さんだ。現在は宣伝会議で講師も務めるが、そこでは「広告は目立たないダメ」と生徒に教えている。「これは広告の原点。なのにみんなそれを忘れている」。人の目にとまってはじめて広告は機能する、それが田中さんがいうところの広告の“そもそも論”だ。神戸親和女子大では、最初に手がけた通信教育学部のラジオCMが反響を呼び、新聞広告を手がけ、最終的には大学全体のキャンペーン広告にまで結びつけた。これによって志願者が急増した。「広告の“そもそも論”はキャンペーンありき。リーチとフリークエンシーを上げるためには、キャンペーンという形で、媒体をリンクさせるのがいいに決まっていますから」。

宣伝会議での授業内容も独特だ。キャッチコピーはアマチュアであっても100点取ることがある。かと思えば0点の時も。しかしプロは常に60点を取らなければならない。プロとアマチュアの違いは、コンセプチュアルな視点にある。そのため授業ではカフェを考えさせ、コンセプトに基づいてネーミングとオープンのDMをつくらせている。「クリエイティブというものは最初のスタート地点が面白くないと良いものにならない。そしてそのスタート地点は仮説のゴールでもある。それが分かって仕事をしたら、ネーミングやDMづくりは途中の計測地点にあたり、コンセプトに対しての客観的な検証ができるんです」。だから「墓場カフェを考えて、棺桶送りました、という生徒は満点。頭の思考が柔軟でロジックシンキングができているから。しかもアイデアがある」。そういう発想ができる人がコピーライターに向いているという。

企業の人柄や体温を感じてもらえるコピーを。

コピーライターは、とにかくたくさん書く。そして数多く考えられたクリエイティブアイデアから、いちばんのものをチョイスすることが大切だという。「そのいちばんというのは、デキがいいとか自分の好みではなく、今その商品が置かれている社会的地位とか、競合の状況、クライアントの予見事項といったフィルターをかけてチョイスしなければならない」。田中さん自身もキャンペーンのコピーは100本、ネーミングの場合は300〜500本書く、というのを自分の中のハードルにしている。「たくさん書くから、自分の中でアイデアのトーナメント合戦ができる。すると、チョイスするチカラがつく。客観判断力もつく。だからこのハードルは下げないんです」。

また広告はビジュアルとコピーの強力な一体感や、逆にギャップによって目を引くものを考えなくてはいけない。現在進行中の川崎重工の広告を例にとって説明していただく。「ここは真面目な会社なので、今までは“製品づくりに邁進しています”というコピーばかりだった。でもそれじゃ誰も見ない。最初に新幹線の写真があったんですけど、重厚感のある写真に“K loves ものづくり”って手描きで入れたら、ギャップが面白いかなと」。これまでの広告を見てきて、この企業にいちばん足りないのは、“体温と人間性”だと感じた。「川崎重工ってどんな人だ?と話をしていて、出てきたのが“熱いやつ”」。熱くてものづくりを一生懸命やっている、そこに企業の人柄や体温を感じてもらえたら、親近感を持ってもらえる。「今までのラインで行かないとダメかなと思ったら、そこで仕事は終わる。企業に主観を持たせる。でもそれをコピーライターの主観で書いてはダメ」。

継続してこその、ブランディング。


菊太屋米穀店

最近の仕事では、菊太屋米穀店のブランドマネージメントがある。「ぼくが関わった時点でロゴはあり、百貨店に出店もしていたけれど、統一感やインパクトに欠ける印象で」。しかも予算もない。さてどうしようと、お米売り場に毎日通って、ふと思いつく。「お米の袋がメディアだ」。60種類ほどある商品のパッケージで広告しましょうと提案した。新しいパッケージには、生産者の名前やこだわりなどが盛り込まれたコピーが描かれ、雑誌広告のようだ。変更後はお客さんとの会話が増え、売り上げも伸びた。田中さんは多くの人がブランディングという言葉を履き違えているという。「大切なのは他との差別なのに、イメージ広告=ブランディングという捉え方」。ブランディングという言葉になぜingがついているのかといえば、それは継続しているから。だから完成図もない。まして流通業は変化対応業だ。「なぜ“とらや”が400年続いているか。長い歴史の中で柔軟に時代を取り入れてるからです。でも変えてはならないところは、変えていない。ブレがないんです」。

最後にこれまでで嬉しかったことをたずねると、「自分の中でピークはきていないと思っているから、まだないです」と返された。「人からの受け売りなんですが、年を重ねて、いろんなものを見てきた人で“企める人”がいちばん強いと思う。若い人はいろんなことを企むけれど、経験値がない。逆に年をいった人間には経験値はあるけれど、それが邪魔して冒険ができない。経験値のある人に企む気持ちがあれば、絶対に面白いものができるはず。クリエイターは年いっているやつのほうが手ごわいぞ、と(笑)」。そう、“生涯一制作者”らしい言葉で締めくくってくれた。


菊太屋米穀店

公開日:2012年09月25日(火)
取材・文:町田佳子 町田 佳子氏
取材班:寶諸 陽子氏、HIROMINAMI.DESIGN 南 大成氏