媒体やクライアントのテイストを第一にしたデザイン
和田 哲也氏:デザインオフィス・ポルタス

和田氏

南港にある大阪デザイン振興プラザ(ODP)の貸オフィスから、今年3月に靭公園近くの京町堀でデザイナー仲間3人とオフィスシェアを開始。
「南港はロケーションのいい立地でしたが、孤立感があり来訪者には不便が多かったようです。しかし大阪のど真ん中にあるここ京町堀では色んな意味で刺激があります。周辺には雑誌によく紹介される飲食店やショップが多く、梅田にも近いので、常に最新のモノと接することができます。またクライアントの方や外部ブレーンの来客も増えました。将来への起爆剤に繋がっているよう気がしています」
と、マイルドな人柄を感じさせる口調で、目を輝かせる和田さん。

5年いたODPから、事故でケガをしたことを機に環境を一新。
新たな可能性を感じている現在から、デザイナーになるきっかけ、そしてこれからについてお伺いしました。

見る人の立場を考え、より効果的な表現で

作品

手作業の写植・版下時代から約30年近く、グラフィックデザインを中心に活動。写植・版下時代はタウン情報誌や海外の観光客向けパンフレットのデザインや編集を手掛けた。その実績を活かし、現在では行政広報誌や新聞広告、旅行会社など各種パンフレット、そしてパッケージと、多種多様のデザインに携わる。
デザインをする上でモットーにしていることは?
「行政の広報紙に関しては、お年寄りも見ることを前提に、『わかりやすく、よりハッキリと』、万人ウケするように仕上げています。パンフレットやフライヤーの場合は、クライアントの意見を聞きながら、その媒体に最も有効な見せ方を心掛けています」。
例えば旅行パンフレットなら、パッと一目でわかるよう、見た目に工夫を凝らす。

また最近では、パッケージを手掛けた某食品メーカーから「商品開発から参加して欲しい」という依頼が舞い込んだ。新しい環境が影響しているのかもしれない。しかしそれ以上に、見る側の視点を常に考える、和田さんの細やかな姿勢が支持された結果である。確かに、新しい展開が到来している。

しかし当初から、デザイナーとして順風満帆だったわけではない。また長年携わっている旅行関係の仕事も、葛藤があった。

スタートとなった専門学校時代

高校生の頃に、親のすすめで講談社フェイマススクールズを受講したことがきっかけで、アートを強く意識。それでも将来へのビジョンを持つことなく、普通の大学を受験。挫折した。
「その時、自分が何をやりたいのかいろいろ思い描くうちに、アート系が合っているんだと思いました」
アート系の専門学校のパンフレットを取り寄せ、大阪デザイナー学院に入学。
「個性豊かな友だちとふれあって、やりたい事をしました。仲間と野球チームを作り、チームTシャツを作ってそれを売って儲けたお金で宴会をしたり(笑)」
そういった交友関係の中で、「この業界なんや!」と確信した。
ところが就職した先での仕事は、思っているようなものではなかった。

版下時代から転機を乗り越え続いた旅行の仕事

鉛筆でサムネールを描いては上司にダメ出しされ、OKが出るまでやり直す。やっとOKがもらえたら、写植の指定原稿を作りオペレーターへ回す。出来上がった写植を版下台紙に切り貼りし、カッターナイフで文字間を調整。時には筆で文字を書くこともある。そしてコピーを取り、カラーチャートを見ながら色指定を。約20年前までのデザイン作業だ。
そんな手作業は予想通りにいかないことも多く、怒られながら2年間続けた。
「このままでいいのか?」。疑問に思った。誘われるまま別の会社へ。ところが入社早々倒産。
次に紹介された会社は、国内旅行の仕事をしていた。しかし向いていないと即断。
再び人のツテで入った会社は、観光業界関係。今度は海外の観光案内を作っている会社だった。海外の仕事は初めて。見様見真似で様々な雑誌を見ながら、教えてもらいながら、仕事に携わった。
その間、外部のライターと一緒にタウン情報誌の仕事にも関わるようになる。活動の場も広がり、仕事も充実した。
しかし勤めていた会社が、人事異動に伴い海外の本社に統一され、大阪事務所を閉鎖。海外で仕事をするべきか辞めるべきかを悩んだ挙句、退社を決意する。

パンフレット

その後入った会社もまた、たまたま旅行関係に携わっていた。観光や旅行関係の経験があるので、旅行の仕事を任された。
「前は旅行関係には向いていないと思って辞めただけに、出来るのかどうか不安でした。でも当時は若かった。自分中心に即決するところがありました。でも、様々な旅行会社の仕事をし、仕事の楽しさが分かってきたんです」
観光業界や旅行関係の仕事を重ねて行くうちに、「ここの旅行会社の仕事が出来るんやったら、ウチが扱っている旅行会社の仕事も出来るでしょ『お願いします』と仕事に繋がってきました」。結果、旅行関係の仕事が定着。
そして行政広報誌と旅行会社の仕事を引き継ぎ、2007年、南港のOPDを拠点に独立を果たした。

仕事や趣味のヨットを通じて仲間とコラボしていきたい

取材風景

さて、今後の展開は?
「現在は、様々な人との交流をきっかけに、デザイナー仲間や異業種の友人とのコラボを模索中です」
期待通りの、穏やかでいて前向きな言葉。

レーザークラス全日本選手権

その穏やかさの反面、大自然と対峙する趣味を持つ。年1回大阪市主催のヨット教室でインストラクターまで勤める、ディンギーヨットだ。
ヨットは、優雅なイメージを持ちながら、最終的には大海原を1人で乗り越える苛酷なスポーツ。舞洲での大阪市長杯レースでは、ヨット教室で教えた生徒さんを優勝や入賞まで導いた実績を持つ。
仕事の上で難関を乗り越えられたのは、培われた判断力と相手を思うホスピタリティにあるのかもしれない。学ぶことは多い。

公開日:2012年08月10日(金)
取材・文:下八重順子 下八重 順子氏
取材班:株式会社ルブリ 増田 泰之氏