「不器用だけど、がんばってる人」を応援したい
岡 哲也氏:(株)エスピーアイティ

株式会社エスピーアイティは、ウェブ制作を始めとして、各種広告媒体の制作を行い、最近はスマートフォンサイトの構築、アプリ開発などにも力を入れている、いわゆる「IT系の企業」である。駅を降りて、活気に溢れた天神橋筋商店街のアーケードを通りながら、自転車を引いた買い物のおばちゃんたちの横を過ぎつつ、商店街を進みゆくと、株式会社エスピーアイティのオフィスがあるビルにたどり着いた。

ラグビーがボクの人生を変えた

岡氏

岡哲也さんは、今年で42歳。堂々たる体躯の好漢。瞳が爛々と輝いている。IT企業の社長というよりも、戦国武将のような人である。伺ってみると、高校時代はラグビーで身体を鍛えていたそうだ。

「子供の頃は、超運動音痴で、人と話すのが大嫌いで、ガリガリで、ひ弱で、絵を描くことだけが唯一の取り柄でした。高校の時、小学校からの友達がラグビー部に入ったので、ボクも一緒に入部したんですけど、周囲は中学生の時から、陸上や野球で3年間、基礎体力をみっちりつけて鍛えあげてきたようなヤツばっかりでした」

練習が大変厳しく、放課後の練習が嫌になり、学校をサボることもあった。周囲からは、「1学期も続かない」とバカにされた。それでも岡さんには負けん気だけはあった。足が遅いので毎晩、武庫川の土手を走った。育ち盛りの頃だったので、どんどん筋肉もついて、自信もついて、試合に出て活躍できるようになったのだという。

「性格が変わりました。この体験が今の自分のベースになってますね。たぶん、それがなかったら、今で言う『引きこもり』になってたんとちゃうかな。だからこそ今の若い人達の気持ちもわかるような気がするんです。ラグビーの良かったところは、個人プレーもあるけれど、15人でやるスポーツ…ということですね。高校卒業後も、草ラグビーを何年か続けました。それでも、ボクの根っこの部分は、全然スポーツマンじゃないんですけどね…」

役者を目指し、『水戸黄門』のスタッフに

岡さんは高校卒業後、役者を目指した。養成所に通い、京都太秦の映画村に住み込みで、『水戸黄門』のスタッフをしていた時期があった。

「西村晃さんが黄門様役の時代で、由美かおるさんに食事をご馳走してもらったりして、出演者の人達にも、かわいがってもらいました。まだ19歳で、若かったから、いろんな事がしたい…でも若いから、何をしたらいいのか…あの時の自分にはわからなかった。役者だったら、色んな役ができますから、それで飛び込んでみたんです。それから、ある有名な役者さんの付き人にならへんか?って誘われて…当時は役者になりたかったら、まずは付き人から始める…というのがあったんですね。でも、若すぎたし、当時付き合い始めたばかりの彼女もおったし、だから丁重にお断りしました」

面接20回目にして合格

それから岡さんは、子供の頃から得意だった絵の才能を生かそうと思い、イラストレーターの仕事を探し始めた。高卒で未経験の岡さんを採ってくれる会社にはなかなか巡りあえず、19件の面接に落ちた。20件目の面接を受けた会社の社長は、岡さんが持参した作品をロクに見ようともせず、履歴書だけをチラっと見て、「ラグビーやっとったんか? 酒は飲めるか?」とだけ聞いた。

「『はい』って答えたら合格しました(笑)。成人式の次の日から、そのデザイン会社で働き始めました。社員9人くらいの会社で、月給は9万円くらいやったかな…イラストレーター志望で入ったんですけど、プロのイラストレーターがすでに2人いて…でも、面接19件落ちた後やったし、毎日学ぶこといっぱいで。給料は安くても、死ぬほど忙しくても、あの頃は毎日が楽しかったですね」

残業は月に200時間。徹夜は当たり前、土日フル出勤の日々が続いた。入社1年後からディレクターになったが、仕事は上手くいかなかった。

「外に出て、人に会って話すのが、ムチャクチャ嫌だったんですね。ある年の正月に社長から、『岡くん、今年のテーマはスマイルやな!』って言われたぐらい、あの頃のボクってホントに無愛想だったんですよ。でも、その時から営業に行く時は、『演じよう!』って思ったんですね。明るいオレでいよう…って。これも、役者の一つみたいなもんや…って思ったんです」

それからしばらくして、営業も上手くいくようになり、29歳の頃、会社は成長して社員は50人ほどに膨れ上がったが、岡さんはその中でも常に3本の指に入るほどの成績をあげていた。

「独立する気は全然なかったんですけど、京都の呉服店を担当していた時に1億ぐらいの売上をあげていたので、勤めていた会社は年棒制でしたが、『完全歩合制でいいので、京都支社を作って欲しい』と頼んだら、断られたんですね。それで会社を辞めました」

ゼロから考えて、それを受け入れてもらえる喜び


ウェブサイトの制作実績

それから岡さんは29歳で独立。最初は自宅で一人でやっていたが、少しづつ人を雇うようになり、事務所を借り、2006年に、マーケティング業務を行なっていた(株)販売促進研究所と合併。社名を現在の(株)エスピーアイティに変更した。「SPIT」とは、「Sales Promotion & IT」の略である。

「合併した後でも、ボクはデザイナーとしての仕事を続けてたんですけど、もっとお金を稼いでいかな…というリアルな問題に直面して、お客さんに、『仕事ないですか?』って聞いて回ったんですけど、無いものは無いんですね。でも、『無いんやったら、自分で作ろう!』って考え始めるようになって。ウチのスタッフにも『無かったら、自分で作ったらエエ』…ってよく言うてるんですけど、特にこの数年ぐらいかな、もう制作だけでは食っていけないと判断しました。こちらから、提案とかコンサルティングの企画をお客さんに持って行って、ガッツリお客さんの懐に入るようにしたんです。時には身銭切って、タダ同然のボランティアでやることもあります。そうやって、ヨソの会社が部分的に安くても、ウチの総合的な提案力で、お客さんに信頼していただく…お客さんと、そういう関係を築いて、増やしていきたい…と考えるようになりました」

若い人達に伝えたい

現在、岡さんは若いデザイナーの就職支援のためのセミナー活動を企画している。

「ボクは、29歳の頃、10年近く勤めてた会社を辞めてから一時期、専門学校で非常勤講師をしていたことがあるんですね。その時からのお付き合いで、今もウチの会社にインターンとして学生に来てもらったり、卒業の時のプレゼンの審査員もやってるんです。でも、最近の学校は、学生にパソコンやソフトの使い方を教えるので手一杯で、オペレーターは育てられても、デザイナーは育ってないんとちゃうかな…って思い始めたんです」

岡さんが言う、「オペレーター」と「デザイナー」の明確な違いは、どこにあるのだろうか?

岡氏

「新卒で圧倒的に多いのは、『ワタシ、将来は好きなアーティストのアルバムのジャケットのデザインしたいねん!』…とか、そんな夢を持って、この世界に入って来られる人ですね。でも、『まったく』と言っていいぐらい、そんな仕事はないんです。産業デザイナーが作らなければいけないのは、まず第一に『お客さんが望むデザイン』。たとえば、高齢者向けのパッケージのデザインを作る時、ボクは高齢者を演じるつもりで、高齢者の立場で、このデザインに何が必要なのかを考えます。ワタシはカッコいいのが好き!ワタシはカワイイのが好き!…っていう自分好みのテイストでやってたらダメなんです。プロの産業デザイナーとしての『思考』がちゃんとできてないと…。今の若い人達の中にも、一生懸命がんばって苦労しているんだけど、でも不器用だったりして、デザイナーとして生きていくために、わかってないといけない大切なことに、いつまでも到達できないままで…でも、何をしたらいいのかわからない。そういう人達がいると思うんですね。そういう若い人達に、ボクが学んできたことを伝えたい…と考えています。」

カンボジアで見た瞳

数年前、岡さんは取引先の紹介で、カンボジア企業のウェブサイトの制作を請け負ったことがあった。それでカンボジアを訪れた際に、大きな感銘を受けたのだという。

カンボジアの子供たち

「タイとか、ベトナムっていうのは、もうある程度発展も進んでいるけれど、カンボジアはまだこれから…って言うところで、大きな可能性を感じたんですね。自分でも、がんばったら、この国を変えるぐらいのスゴイ事ができるんじゃないか…と言うぐらいの可能性を。そして何よりも、カンボジアの人達の人間性ですね。あれは、何て言ったらいいんだろう…純粋…実直…真面目…素直…って言えばいいのかな。それと、子供たちの目が、とってもキレイで、キラキラ輝いているんですよ。さっきの若いデザイナーの話も同じですけど、不器用な人間でもいいんです。本当に伸びたいと、心から願っている人達と、ボクは一緒に仕事がしたいと思っています」

公開日:2012年07月26日(木)
取材・文:もりた たつや氏
取材班:辻 美穂氏