写真の向こう側にいる人に働きかけたい
伊賀 公章氏:伊賀写真事務所

伊賀氏

ポスター、雑誌、CDジャケット、カタログなど、さまざまな媒体の写真撮影を手がけるカメラマンの伊賀さん。
「注文をつけられるのが好きなんです」
「経験のないジャンルの仕事にも、どんどんチャレンジしたいですね」
穏やかな語り口に似合わず、飛び出す言葉はとことんポジティブ。そのココロのうちにあるものとは……?

「注文をつけられるのが好きなんです」


ポートフォリオ(作品集)のひとつ

雑誌の取材で訪れた飲食店での料理撮影、あるいはポスター用のモデル撮影。お店のマスターやクライアントが「こういうふうに撮ってほしい」「これも入れてほしい」と、さまざまな要望を出してくる。外野からの、しかも“写真のシロウト”からの声に困惑し、わずらわしさを感じるカメラマンも少なくない。ところが、「僕、そうやって注文されながら撮るのって、けっこう好きなんです」と言う伊賀さんは、むしろ楽しんでいるようにみえる。

「たとえば、飲食店のマスターが『こんなふうに撮ってほしいんや』って、どこかの雑誌から切り抜いた料理写真のカットを僕に差し出してくる。いい写真を僕にとってほしい、いいものつくりたいって気持ちが伝わってくるんです。『じゃあ、こういう構図はどうですか?』って僕も提案する。そうやって、一緒にあれこれ考えていくのが楽しくて」

誰かと接するとなにかがうまれる。伊賀さんはその過程を大切にしている。いい仕事をするためであるのはもちろん、そういう時間や経験がやがて自分の糧になると考えているからだ。

「年齢や性別によって、好みの構図やライティングってさまざま。そういったことが発見できるんです。それにピンが甘かったり、すごい逆光だったり、プロのカメラマンから見て『NGだな』って写真を『これいいね』と気に入ってくれる人がいる。そういうものが何年か経って“あり”になるのが写真のおもしろさ。だから、いろんな人とコミュニケーションを取ることはとても勉強になるんですよ」

一眼レフすら触ったことがなかった

伊賀氏

カメラと出会ったのは、大学生になってから。伊賀さんが学生生活を送った1990年代前半、コンパクトカメラやレンズ付きの使い切りカメラが普及し、写真ブームが起きた。
「単純に、写真を撮るのっておもしろそうだな」と興味を持った伊賀さんが、一眼レフで本格的に写真を撮ってみたいと思うようになったのは、ある写真家の作品と出会ったことがきっかけだ。

「あるとき、植田正治さんの写真集を観たんです。『カッコいい! こんな写真撮ってみたい!』って、いっぺんに感化されてね」

植田正治さんは日本を代表する写真家。人物をオブジェのように配置した独特の構図は海外でも「植田調」と呼ばれ、高く評価されている。90年代半ばから福山雅治のCDジャケットを手がけ、彼の写真の師匠としても知られている。

「でもね、僕、一眼レフを触ったことすら、なかったんですよ」
専門学校に通うにもお金はない。そこで考えたのが「街の写真館でアルバイトをしながら教えてもらう」という作戦だった。

自分で写真館を探してアルバイトの面接に行くも、一眼レフが扱えないとわかると門前払い。当然だった。ところが、そんな伊賀さんを「なにも知らんと来たんか? おもろい!」と採用してくれた人がいた。吹田で写真館を営む木下一郎さんだ。
カメラの扱い方にはじまり、ピントの絞り、紙焼きの方法……。木下さんや兄弟子が、仕事の合間に一つひとつていねいに教えてくれた。

「木下さんって、すごくほめてくれるんですよ。写真をはじめてまもない僕の作品にも『おっ、この構図ええやん』って。それでうれしくなって、どんどん写真の世界にハマっていった感じですね」

ニューヨークで決めた「写真の世界で生きる」こと

撮影の基礎を身につけた伊賀さんは、大学3回生の夏休みを利用して、ニューヨークに1カ月間滞在する。

「カメラを始めてちょうど1年ぐらいの頃です。どういう根拠か『写真の本場はニューヨークだ!』って思って……」

絵を描く人、写真を撮っている人、道端で個展を開く人。そうした人々に交じって、伊賀さんもシャッターを夢中で切った。ニューヨークで撮った写真は今でも大切に残してある。

「このときに撮った写真って、何も考えないでとにかく心の赴くままにレンズを向けてて……。逆に今では撮れないですね。写真をはじめてまだ1年でしょう? 怖いもの知らずだからこそ、撮れたんだと思います」

ニューヨークに行ったことをきっかけに、写真に携わる仕事に就きたいという思いを強くする。しかし、写真に携わる仕事といっても、広告代理店かスポーツ新聞社ぐらいしか思いつかない。

数社の入社試験を受けたが、写真の技量を見てもらえるわけでもなく、いわゆる一般的な試験。いずれも不採用に終わる。1年間の就職浪人を決意し、大学を卒業すると、師匠の木下氏の写真館でアルバイトを続けながら就職活動を継続していたが、就職先が決まらないまま1年間は瞬く間に過ぎていった。

困り果てて木下氏に相談すると、知人の広告系カメラマンを通じて撮影スタジオのアシスタントの仕事を紹介してもらえることになった。それまでスタジオのアシスタントという仕事があることすら、知らなかったのだ。

「高さも奥行きも10m以上ある大きなスタジオに、大きなライトやホリゾント。はじめて見るものばかりでした。“バイテン(8×10インチ)”のフィルムもスタジオに勤めるようになってから知ったんです」

入社当初は、スタジオを利用するカメラマンの雑用仕事がほとんど。2、3カ月後にフィルムの巻き取りをさせてもらえるようになり、やがて指示に従ってライティングを担当するようになった。

「入社1年もすると、名前や顔を覚えてもらえるようになって、ライティングのセッティングをまかせてもらえたり、ラフを見せてもらって相談を受けたりするようにもなりました。2日間徹夜をするなんてときもあったけれど、楽しかったですね」

入社するときにスタジオのマネージャーから言われた「2年間はがんばれ」という言葉を励みに働き、スタジオワークを習得。そして、約束どおり2年でフリーランスになった。


ニューヨークで撮った作品

一つひとつの仕事と真摯に向き合う

多くのカメラマンがそうであるように、伊賀さんもフリーのアシスタントとして勉強を続けながら営業をかけて仕事を取り、プロのカメラマンとしてキャリアを積んでいった。今年でフリーとなって11年目だ。

キャリアも10年を越えた今だからこそ、肝に銘じていることが伊賀さんにはある。それは「一つひとつの仕事と真摯に向き合うことを忘れてはならない」だ。

「フリーになって2、3年経ったころです。仕事に慣れてくると、『これぐらいでクライアントに満足してもらえるだろう』という“合格点”を自分自身が設定してしまうんですよね。そうすると、いわゆる“やっつけ仕事”みたいになってくる。でも、そういうのっていつかはバレてしまいます。ある時期、仕事がグンと減りましたから」

そんなとき、思い出した言葉がある。伊賀さんをスタジオに紹介してくれた、広告系カメラマンの言葉だ。

「学生だった僕の写真を見て、おっしゃったんです。『技術的にはまだまだだけど、100%の力で撮っているね。それはすばらしいことなんだよ。仕事にしてしまうと、いつもそういうわけにはいかなくなる。でも、この気持ちを忘れてはいけないよ』って」
まるで自分への戒めのように、その言葉がストンと胸に落ちてきた。

「取材モノ、広告、いろんな仕事ができたら楽しいだろうと思って、特にジャンルは限らずに動いてきました。今まで経験のないジャンルの依頼でも、どんどんやってみようと決めています。目指すところは同じですからね」

伊賀さんが目指すところ。それは「クライアントとその先にいる読者や購買者に、写真でわかりやすく働きかけること」に尽きる。

自分の写真を観た人が“なにか”を受け取ってくれたら——。伊賀さんはこれからも写真の持つ力を信じ、追求していく。

公開日:2012年03月13日(火)
取材・文:細山田 章子氏
取材班:株式会社ルブリ 増田 泰之氏