人との出会いを大事にし、直感にしたがって突き進む。
野本 宗太郎氏:EATMAN-photo studio-

野本氏

あるとき、撮影を終えた料理をバクバク食べていたところを友人が見て「お前、EATMANやな」と言われたことが屋号の由来。ただそこには、「あなたの知識・感性をいただきます」「いただき(頂上)を目指す」といった写真に対する気持ちも込められている。幼少時代をロッテルダムで過ごし、大学の法学部出身という異例の経歴を持つ野本氏がいかにしてフォトグラファーになったのか。これまでの経歴も含めて聞いてみた。

遊び人として有名になるのが目標!?


サロン ヘアスタイル広告用撮影

貿易会社に勤めていた父親の都合で、3歳までオランダのロッテルダムに住んでいた野本氏。今でも、家の前の石畳や街路樹といった閑静な風景を覚えているという。帰国後は兵庫県西宮市に移り住み、やがて大学までエスカレーター式の中学校に入学。硬式テニス部にそれなりに打ち込み、3年生のときに団体戦で全国2位の成績を収める。高校でも団体戦は県で2位、個人ではベスト16に進出し、地元ではけっこう名前が知れ渡る存在に。しかし、大学ではそのテニスをあっさり辞めてしまう。
「ぶっちゃけ、遊びたかったんです。テニスではそこそこ有名になれたんで、今度は遊びの世界で有名になろうかなと(笑)」
高校生のころから三宮に出没し、広場などで仲間と集まって遊ぶようになっていたが、大学に入ってそれが爆発。カラオケ、クラブイベントにナンパ……。大学にも行かず、とにかく遊びまくっていたという。
「みんなで集まってくだらない話をして、女の子と踊りまくる。それが単純に楽しくて。何も考えてない軽いノリで、ホンマに自分でもダメ人間やったと思います(笑)」
将来、何をやりたいかという目標はいっさいナシ。毎日が、楽しければよかった。ただ、遊ぶことで交友関係は一気に拡大。イベントなどの集まりに友達が勝手に友達を呼び、それがどんどん膨らんでいった。気がつけば、野本氏の周りには3、400人もの知り合いが集まっていた。当時は夢にも思わなかったが、これが写真の仕事につながることになる。

気持ちを切り替えてなんとか卒業

「このままではマズイ」と思い始めたのは、大学3年生になったときのこと。自身が取得している単位が7つしかないことが判明してからだ。自分を変えないとダメになるという思いから大学に通うようになり、新たにカフェでのアルバイトを始めた。
「それまでアルバイトは最短で1日、最長でも3カ月しかもたなくて……。少しでもしんどかったら、もう行かないみたいな感じでした。でも、カフェでのバイトは大学を卒業するまで続きましたね。気持ちを切り替えたのも理由ですが、なんとなく性に合ったんです。接客やドリンク作りなど、業務を覚えるのが楽しくて。『ああ、ちゃんと取り組んだら仕事は面白いねんな』って初めてわかりましたね。オーナーも僕と歳がそんなに離れておらず、とても尊敬できる方だったことも大きかったです。オーナーとは、今でも仲良くさせていただいてますよ」
それ以降、きっぱりと遊びを止めた——わけではなかったが、勉強もアルバイトも真面目にこなすように。結局、大学は5年半かかって卒業することができた。両親は留年したことにカンカンだったが、出世払いということでなんとか授業料を出してもらった。

どうしても写真を撮りたい


DJ アーティスト写真

大学卒業後は、インテリアデザインの専門学校に半年通い、求人サイトで見つけたショップデザインの会社に採用される。
「遊び仲間の先輩の部屋が、アジアンテイストですごく印象に残ってて。そこからなんとなく、インテリアデザイナーに憧れていたんです。今まで人より遠回りしているぶん、頑張ろうという気持ちでしたね」
ところが、働き始めてすぐに辞めたいと思うように。理由はおもに2つ。什器を組み合わせるのを重視した業務内容と、自分が想像していたデザインとのギャップを感じたこと。2つ目は、写真を撮る時間が持てないと感じている自分に気づいたからだ。
「じつは大学5年生ぐらいから、携帯の写メで風景や小物などをよく撮ってたんです。あくまで遊びの範囲ですが、ホワイトバランスの調整など機能をフルに駆使して自分なりに工夫して撮って、その画像をSNSにアップしたりしてね。それから車で日本を旅行するのが趣味になり、新たにデジカメを買って旅行先の風景を撮るようになっていました。写真を仕事にしようとは思ってなかったんですが、自分にはそのまま仕事を続けるより写真のほうが大切に感じたんです」
普通に考えれば、もう少し働いたほうがいいのは理解している。周りからも「決断するのは早すぎる」と言われるのはわかっている。しかし、一度心のなかで決めてしまうと、そちらのほうに進まないと気がすまない性分。働いて3週間目には、辞める意思を会社に伝えていた。

ゼロから写真を覚え、1年半で独立

両親にさらにカンカン怒られつつも、父親の仕事関係の紹介でプロのフォトグラファーの元でなんとか働かせてもらえるようになった。趣味で写真を撮っていたとはいえ、一眼レフも扱ったことがないまったくの素人。夜はカフェでアルバイトをしながら、カメラの使い方やストロボや日光による光の当て方、物・人物の撮影など、ゼロから学んでいった。
「とにかく、勉強させてもらえるのがありがたかったですね。当時は、少しでも早く独り立ちしてプロになりたいという気持ちで働いていました」
やがて、アシスタントとして働き出して1年ほど経ったころ、かつて一緒に遊んでいた知人やお世話になった人から撮影の依頼がチラホラ入るようになる。ヘアカットの撮影、クラブの店舗撮影やカフェのメニュー撮影など、依頼があればお金に関係なくなんでも受けた。SNSで作品をアップすると「こんな撮影もできる?」といった反応もあり、徐々に依頼も増えていった。
「ちょうどそのころ、僕の前に働いていたアシスタントの人が戻ってくることになって、スタジオの人員が余剰気味になったんです。個人的な依頼も増えたうえ、写真コンテストで入賞したこともあって『独立しても行けるんちゃうか?』と。根拠はまったくありませんでしたが、1年半で独立することにしたんです」

地道に人に会うことでネットワークを構築


ブライダルサロン作品撮り

こうして独立に踏み切ったが、順調に進んだわけではなかった。撮影の仕事は思うように増えず、単価はあいかわらず安いまま。ただ、お金だけが減っていく日々に、しだいにイライラするようになっていった。
「これではダメだと思い、なぜイライラするかを考えたんです。すると、あれもしたいこれもしたいという欲があるから、お金が減ることに焦りを感じることがわかりました。ならば、欲を消したらいいんじゃないかと。街で金をかけて遊ぶのではなく、公園で太陽浴びることに喜びを感じる。缶コーヒーとタバコで幸せを感じる。そうしていると、いろんな欲がなくなり、シンプルにカメラの技術を高めていきたいという気持ちが残ったんです」
それからは、昔の友人に片っ端から会いに行き「なんでもいいから写真を撮らせて」と頼むようになった。また、人の集まるクラブやバーに顔を出して、人を紹介してもらうように。そこで自分の作品や気持ちを伝え、さらに興味のありそうな人を紹介してもらう。これを繰り返し、何百人もの人に会ったという。こうした地道な活動が徐々に実を結ぶようになり、撮影の仕事が舞い込むように。そして、信頼を得ていくうちに自然と単価も上がっていった。
「本当に人との出会いに感謝しましたね。ただ、最初は仕事がいただけるのが嬉しくて何も考えず受けてたんですが、一気に仕事の依頼が増えたときは、自分の能力の限界を超えそうになることもありました。それからは仕事の進め方や普段の生活の効率化を図ることで、少しでも自分のキャパを広げるように心がけています」
2011年には、阿波座に写真スタジオを設立。『EATMAN』として、さらなる飛躍を目指している。

オリジナル作品撮りも開始


亀仙人
写真×特殊メイク×グラフィック コラボ

趣味である国内旅行は続けていて、気になった風景をシャッターに収めている。旅を通じて見たものや人との出会いを大事にし、それを仕事に活かしている野本氏。今後は、カッコイイと楽しさをテーマに依頼があればなんでも撮る方針は持ちつつも、ヘアモデルの撮影を通じて美容業界のトップを目指したいと意気込んでいる。
「縁があって知り合ったヘアサロンのオーナーの方たちは、素晴らしい経営理念を持っている人が多くて。その人たちに貢献するべく、自分の力で少しでも美容業界の底上げにつながればと考えています。そのためにも、モデルやヘアメイクの方とのネットワークも広げていきたいですね」
また、昨年2月から作品撮りも開始。自分でテーマを決め、特殊メイクとグラフィックを融合させた作品など、月イチで撮影を行なっている。
「作品を大手企業とコラボして撮影するのが、近年の目標です。そして、自分がオランダ生まれなことも影響しているのか、ゆくゆくはヨーロッパで仕事がしてみたいという気持ちもあります。ただ、長いスパンで目標はあえて掲げません。2年くらいでだいたいの目標を設定し、あとは直感にしたがって進んでいくスタンスです。でも、いつかはオリジナル作品がメインになればいいですね。その前に両親に学費を返さないといけませんが(笑)」

公開日:2012年03月13日(火)
取材・文:内藤高文 内藤 高文氏
取材班:辻 美穂氏、arbol 一級建築士事務所 堤 庸策氏