現場の声と経験・感性・ネットワークを融合すれば、何だって創造できる
濱田 浩嗣氏:RIDE DESIGN

レース中の濱田氏

今から26年前、濱田浩嗣さんはサーキットの上にいた。プロを目指すオートバイレーサーの登竜門・鈴鹿4時間耐久ロードレース。世界グランプリを目指す濱田さんには、ただの通過点でしかない——はずだった。台風並の雨が降りしきるなかで、スタートが切られた。しかし、やる気だけが先走り、1周目の最もスピードの出るコーナー「130R」でタイヤがスリップし、濱田さんの身体はバイクごと宙に投げ出された。「ショックで動けませんでした。1年間準備して、1週間泊まり込みで仲間と一緒に頑張ってきて、絶対イケる!って、手ごたえがありましたから。今でも地元の香川に帰るとその時の事をチームの仲間にいじられます」懐かしむように、そして少し悔しそうな表情で濱田さんは振り返る。デザイナー・濱田浩嗣を語るに欠かせない、大きなターニングポイントの一つである。

様々な分野の方と出会い、仕事を創出する

濱田氏

プロライダーとしての活動は一旦休止したが、乗り物への情熱は失わなかった。「勝負をかけたい」。実家に戻った濱田さんは、そう言って父親に頭を下げた。選んだのは、自動車デザイン専門学校への進学。その学校で2年間、スポーツカーやオートバイなどの車体デザインを学んだ。「レース経験があるから、ものすごく生意気な生徒だったと思います。車車やバイクの事は、自分が身体を張って経験して知っている。でも、スケッチを描くのが抜群にうまい生徒、美的センスが並外れた生徒など、才能のあるヤツが周りにたくさんいましたね」。その中でもがくうちに、自分の理想と現実にキャップを感じ始める。結局、卒業した濱田さんは、医療系の会社に就職を決めた。「自動車の車体のような大きい物を丸ごとデザインするには、長い開発期間が必要。僕は、もっと小さくて手に持てるような物を沢山手掛けたいと思ったんです」。
その会社の大阪支社には、自分以外にデザイナーがいなかった。そのうち依頼される仕事だけでは満足できず、現場を知る為に、当時は嫌いな営業にも出向き、病院へ足を運び続けた。特別に手術控え室に入らせてもらい、著名ドクターの手術に立ち会うこともあったという。「新商品を作るには、現場の声を聞かないと何も始まりませんから。又、それまでデザイナーが居なかった支社なので、一般社員の理解を得るのは一苦労で衝突も多かったです」。そんな衝突も、濱田さんのやる気の糧になった。商品開発のほかに広報の窓口も行い、PRのための資料やCM、展示会の作品なども自ら制作。入社4年を過ぎた頃には、“何でも屋”として社内で重宝される存在になっていた。
しかしその後、濱田さんの人生をふたたび揺るがす出会いが待ち受けていた。

導かれるように舞い戻ったスポーツ業界

作品

「若手デザイナーがたくさん集まるデザイン実習セミナーで、総合スポーツ用品メーカーの社員さんと仲良くなったんです。自分を売り込んだところ、私の実習での活躍や経歴を気に入ってもらったみたいで、『机が開いてるから来ないか』と言ってもらえました」。濱田さん自身も、そろそろ一般の人の目につく仕事をやってみたい、と思っていたところだった。心は決まっていた。上司も「お前はそっちの方が向いてるよ」と快く送りだしてくれたこともあり、転職はスムーズに進んだという。濱田さんは、かくして再びスポーツの世界に舞い戻ることになった。

そのスポーツ用品メーカーでは、自転車のパーツデザインとカラーリングからはじまり、ウインタースポーツやアウトドア用品、野球・サッカー・バレー・ゴルフ・テニス等の球技用品、オリンピックの公式用品まで、あらゆる商品の開発に携わることに。ここでも、持ち前のフットワークの軽さが武器になった。「たとえば、スキーウエアなら、スキー場に出向いてどんな人がどんなウエアを着ているのかを観察したり、スケッチを持っていってプロのスキーヤーやショップ店員から意見をもらったりしました。野球のバットなら、淀川の河川敷で草野球をやっている少年たちにデザインを見てもらったことも。どんな商品でも市場調査は怠りませんでした」。使う人に必要とされるデザインを——。その想いは、前職から何ら変わってはいなかった。もちろん、世界に名の知れたメーカーだけに自分たちの案を通すことは容易ではない。タイトなスケジュールの中で何度も試作を重ね、社内審査を通すためにプレゼンの仕方も研究した。「決められた時間内で商品をいかにアピールできるか。この試行錯誤のおかげで、プレゼン力は鍛えられました」と、濱田さんは口元を緩ませる。

「初物や難しいデザインは濱田に」勝ち得た信頼

濱田氏

スポーツ用品メーカーにいた18年間で、濱田さんが遺したものは数多い。トリノオリンピックには、濱田さんがデザインした商品が選手と共に活躍した。競泳水着にスムーズな水の流れを模した柄を入れることにより、水の抵抗を約5%も減らすことにも成功している。見た目のカッコよさに加え、使用する人が負担を感じない確かな機能性を追求し続けた。現在使われているの企業ロゴマークも、デザイン部の一員としてリニューアルデザインに関わった。「自分の考えた商品が世界に出て行くことに、とてもやりがいを感じていました」。その活躍から社内での信頼は確かなものになり、企画から立案、販促、広告、宣伝などをトータルで任されるようになった。デザイン部のコンピュータ作業のまとめや環境委員を任せられたこともあると言う。「とにかく、『初物や難しい事は濱田にやらせとこう』という感じで(笑)。何から何まで自分できるので、一人でもやっていけるんじゃないかという自信になりました。様々なデザインを担当し、やり抜く事で自信が付き、スポーツ品以外の様々なデザインも手掛けたい気持ちが強くなりました」。奇しくも、社内での信頼と成果が、濱田さんの独立を後押しすることになる。そうして2009年3月、退社してデザイン事務所『RIDE DESIGN』を立ち上げた。

スペースシャトルのデザインだってウエルカム!

独立後も、自分でデザインをしたいという気持ちは強くなるばかり。ネットワークを広げて接点を作るため、様々な場所に足を運んでいる。なかでも、濱田さんが今もっとも強く興味を持っているのが、政治・経済に関する交流会や勉強会だ。「クリエイティブと政治って両極端なイメージでしょ? だけど、相手に正確な情報を伝えるという部分ではデザインの力が有効になると思うんです」。昨年はイタリアへ渡り、フェラーリやランボルギーニ、ドゥカティといった有名自動車メーカーの工場視察も実施。ミラノサローネにも行き、デザインに対する価値観の違いを改めて感じたという。「日本ではあまりウケなかった物が、海外で評価されていたりする。日本の価値観に縛られず、自分の信じたものは出していくべきですね。ついでにイタリア人の友人に、『手打ちうどん』も披露してきました。結構喜んでもらえましたよ」以来、日本の伝統工芸や文化と海外のデザインを繋ぐ推進活動にも力を入れている。
「今は独立して間もないので、とにかくいろんな仕事をしたい。これまで様々な商品をデザインしてきたけれども、“1つのものを作りあげる”という面では医療品もスポーツ用品も一緒でした。何が求められているかを調査して、各エキスパートとのネットワークを活用して、そこからデザインを導いていけば、今まで触れたことのないジャンルのものでも作れるはずです。明日の朝にスペースシャトルやF1のデザイン依頼が来ても、お受けします」。経験と積み上げられた知識、そして今も変わらないフットワークの軽さに裏づけされた、確かな自信。まっすぐな濱田さんの表情には、はつらつとしたエネルギーが漲っていた。「今後の夢ですか? 自動車やバイク、いろいろな物で自分のメーカーやブランドを作ることですね」。濱田さんは、今も、人生のサーキットを揚々と走っている。もう、どんな気負いや雨風にも負けることはない。

公開日:2010年11月08日(月)
取材・文:大久保 由紀氏