豊下製菓(株)×(株)マチック・デザイン

なにわの伝統野菜を飴で再現。1粒の飴に込められた業と心

大阪阿倍野の「飴の豊下」こと豊下製菓株式会社は創業明治5年。今年で140周年を迎える老舗(しにせ)中の老舗である。親子6代にわたって守り継がれる伝統の味は懐かしくもあり、人工の味に慣らされた者には新鮮でもある。1粒の小さな飴に溢れんばかりの愛情と大きなこだわりを持つ5代目豊下正良社長に、マチック・デザインの松村裕史氏がお話を伺った。
化学の研究者になる夢を持っておられた豊下氏の飴作りのお話は、思わぬ方向に展開し、予期せぬ化学反応を起こした。しかし、人に喜んでもらうお菓子作りをされているだけあって、そのお話はどれも楽しく温かく、終始笑いの絶えない対談となった。まさしく本当においしい飴を口に含んだ時のように。

5代目社長は、元シンガーソング・ケミスト?!

豊下氏

松村

創業明治5年。140年続く老舗、すごいですね。

豊下

たまたま、代々菓子屋を継いでいる結果というだけです。農家の方にも「老舗ですね」と言っていただきますが、弥生時代からずっと続く農業の方のほうがもっとすごい老舗だと思います。

松村

社長は平成4年から5代目に就任されましたが、若い頃、他の職業は考えておられなかったのですか。

豊下

中学の頃にはもう仕事を手伝わされ、高校の長期休みになると戦力でした。でもね、将来は化学、生物方面の研究者になりたいとも思っており、高校で物理化学部に入って、重金属炭酸塩の研究をしていました。大学でも研究がしたくて現役で大阪府立大の農学部を受験したんですが、ちょっと点数が足りなくて…。

松村

農学部を受験されたのは、家業を継ぐためだけではなかったということですね。

豊下

家業にも活かせるし、研究もできるし両方です。一浪して国立山梨大の発酵生産学部(現・地域食物学科 ワインコース)を受験するつもりでいたんです。それが、受験寸前に百貨店の実演販売の仕事が入り、私が行かされたんです。1週間だけの予定が、その時に販売した飴がたいへんに好評で、あと2週間延長してほしいということになり、家業を優先しました。私立の近大の合格が決まっていたし、山梨大の受験は諦めました。受けていたらきっと合格していたと思います。自信はありましたから。

松村

嬉しい誤算というより、社長には残念な思い出ですね。

豊下

高校の思い出といえば、コーラス部にも所属していまして、同期に谷村新司氏がいて、当時大人気だったPP&M(ピーターポール&マリー)のコピーを一緒に組んでやらないか、という話もあったんです。結局やらなかったんですが、今思うと、あの時の彼が谷村新司だったんだって。

松村

もし、されていたら、社長がアリスの一員になっておられたかも(笑)?!。

真の創業から140年以上、辛い戦時も乗り越えて

松村

話はもどりますが、140年の長きの間に、日本は幾度かの戦争がありました。そんな苦しい時代のお話を先代、先々代に聞かれていると思いますが。

豊下

一番たいへんだったのは、職人が出征したことだったそうです。材料も少なくなっていましたが、それでもキューバ糖というザラメの配給はありましたから。でも手作りですから、人がいないと当然作れない。

松村

社長のお父様も出征されたのですか。

豊下

父も出征しましたし、終戦半年前になって、機械はもちろん、工場の土地まで供出しなければならなくなりました。工場、機械、作り手、すべてを出してしまって、もうどうすることもできなくなった。供出をごまかし、戦後すぐに工場を再開した菓子メーカーもあったそうですが…。

松村

苦しい時代だったんですね。で、終戦後に現在の場所に工場を再建されたんですね。それまではどちらで?

豊下

もともと創業は大阪の島之内です。と、いいますのも、菓子屋を創業するまでの豊下家は医者をしていました。菓子屋初代の娘である私の曾祖母が、子供の頃、その祖母の往診に連れられて鴻池さんのお宅に行ったそうなんです。その時、鴻池さんから珍しいお菓子をいただいた。菓子屋の娘でありなら、そのおいしさに魅せられて往診について行ったんでしょうね。

松村

島之内の鴻池さんって、あの大富豪の鴻池善右衛門さんのことですか?!

豊下

瓦屋町なので鴻池の分家かも。
うちの創業は明治5年としていますが、それは、菓子屋の初代弥兵衛が婿入りした年です。初代は弘化四年(1847)生まれなので、豊下家を相続したのが45歳の時ですから、20歳で菓子屋を始めていたなら、創業からは165年経つことになります。菩提寺が焼けて、もう壬申戸籍よりさかのぼれないので確かな年度はわからない。それで一応5年を創業としています。

松村

正確な年度がわかれば、創業160年、いやもっとかもしれませんね。

豊下

余談になりますが、先ほどお話したザラメが長く置いてあったんです。それを年単位のスパンで見ていくと、湿気を含んで不純物を周りに押し出していく。下層に赤い蜜、上層に白い砂糖、結晶の中心部がショ糖というふうに。これが製糖技術のもとになるのだと、結晶化学の視点でみると興味深いものでした。

松村

さすがは化学者!

飴作りは、レシピよりセンス

明治時代のパスポート

豊下

ここに、明治36年『第5回菓子博覧会』の写真入りのパスポートが残っています。『弥兵衛代理・豊下さい』と書かれています。『さい』というのは、岐阜の代官の娘で、初代の後妻なんですが、まだ写真が珍しく魂を吸い取られる、なんていわれていた時代のことです。だから、目を閉じたまま写真に写っています。

松村

当時、女性が会社の屋号を背負って博覧会に行かれたなんて、すごいでね。

豊下

なかなか職人さんにも厳しい人だったようですが(笑)。

松村

貴重なお写真があるほどですから、当時のレシピも残されているのでしょう。

豊下

いや、レシピというものを作ったのは親父からで、それまでは習うより慣れろ、見て覚えろの時代です。今でもレシピがあっても、結局理屈だけではできない。センスが重要なんです。

松村

飴作りは、時代によって変化していくものですか。

豊下

3種の飴

基本は同じです。変えたらいけない。もちろん、材料自体の味も変わっているのだから、味を守るためには微妙な配合の違いはあります。それらの微妙なセンスが要るんです。砂糖の量にこだわって現在のスタンダードな飴を作り始めたのが、初代の弥兵衛ですから。

松村

変えないために変える、ということでしょうか…。

時代の先を歩いていた曾祖父、祖父が残してくれたもの

豊下

昔のレシピはないんですが、昭和5年頃に当社が作った飴が残っているんです。

松村

80年以上前のモノですね。

豊下

箱を持つ豊下氏

人気商品となったピーナッツバター飴、チョコレート飴、ジャムの入ったスッベリーボンボンです。当時の中身が残っていることもですが、このアンカートップという形式の容器も当時のままというのが貴重で、この状態で現存しているのは他にはないと思います。これらを、東インド会社を通してアジア圏に輸出していたそうです。当時のトレードマーク・富士に飛行機印の入った外箱は曾祖父のデザインです。代々襲名の弥兵衛は襲名しましたが、自分の名前・楢松も出したくてこの箱の中にデザインしたようです。

祖父はこれら7種アソートのフルーツキャンデーを売り出すのに戦後いち早くテレビCMを出したり。曾祖父も祖父も常に新しいことを考えるのが好きだったようです。

松村

代々、時代を先取りしておられたんですね。

豊下

しかしそのせいで、CMを出した2ヶ月後には大手メーカーまでが類似品を販売した。先のスッベリーボンボンの時などは、外見だけ同じに見えても、うちのとは違って中にジャムが入っていない。名前も似せて作ってあるから、お客様は間違えて買ってしまう。で、「ジャムが入ってない!不良品だ!」なんていうこともあったそうです。

松村

この蓋を開けてみたいです。

豊下

それはダメ!開けないで。 …いや、実は…3年ほど前に1個食べてみたんです。

松村

どうでした?

豊下

まずかった〜!(笑)。と、いっても経年変化ではなく、もともとのイチゴの味がおいしくなかったんでしょう。イチゴのフレーバーは酸廃するものじゃありませんから味もほぼ変わってないと思います。当時としては斬新でおいしかったし、懐かしい味ではあるのでしょうが、今つくっている飴に比べたらとてもとても(笑)。

松村

賞味期限は大丈夫なんですか?

豊下

賞味気期限は役所が決めたものです。味でも賞味期限でも一番確かなのはベロ(舌)メーターですよ。

松村

ベロメーター(笑)、いい言葉ですね。

味、色、形とことん3拍子にこだわった、なにわの伝統飴野菜

飴野菜

松村

御社の「なにわの伝統飴野菜」についてお伺いします。なにわの伝統野菜を 使おうと思われたのは?

豊下

昔は季節でないとその時期の果物はなかったり、高かったりしたでしょ。で、父が飴の中に入れるジャムを野菜で作れないかと考えたんです。野菜のほうが安価ですから。玉ねぎや大根で作ったジャムの試作品が受験生の私の夜食でした。野菜本来の香りが強すぎておいしくなくて。でもそれしか食べるものはないから仕方なく食べましたけど(笑)。

松村

社長のお口に合わなかった野菜の飴を、あえて作られたのですか。

豊下

12年前に、たまたま大阪伝統野菜のイベントがあって、天王寺蕪に再会したんです。大人になって食べてみると、味は変わってないけれど、懐かしさも相まってとてもおいしかった。果物の飴は一応やりつくした感もありましたし、父が野菜のジャムを作った時のノウハウもある。これはいけるんじゃないかと。

松村

製品化されたのは現社長でも、先代、先々代から受け継いだ流れの中で辿り着いたという、まさしく老舗の強みで生まれた飴ですね。

豊下

野菜の飴を作るからには、味、色、形、3拍子とことんこだわってやろうと思いました。祖父が悔しい思いをしたような、他社に真似されることのないように。味だけ、色だけ、形だけなら作れても、3つ全て本物に近づけるのは手間もかかるし難しいですから。

松村

まるでフィギアのような、精巧な細工ですね。手先も器用でいらっしゃる。

豊下

母が画家で、弟はイラストレーター、そちらの血でしょうか。

松村

「なにわの伝統飴野菜」は現在、どんな種類があるのですか。

豊下

勝間南瓜、田辺大根、天王寺蕪、毛馬胡瓜、玉造黒門越瓜、水茄子、金時人参、あと、天満宮前大根、河内蓮根、河内一寸空豆です。一度にたくさんは作れないし、扱っておられる農家も少ない。原価もギリギリ、商売としての飴野菜はたしかにしんどいです。でも地場産業、伝統を守るためには頑張らないと。

松村

伝統を守る魅力と難しさは?

豊下

古くは日本書紀に飴という記述があります。飴は様々な歴史を経て、現代に生き続けています。しかし、どんな伝統も一旦途絶えてしまうと、よほどの努力とセンスがないと復活させるのは容易ではありません。守り続ける難しさの中に意義があるのです。魅力はなんといってもお客様の声。「懐かしい味」「本当の飴の味」と言ってくださると、代々続けてきて本当によかったと思います。

松村

御社の飴は、そんな歴史の1ページを業と心で支えておられるんですね。

飴作りのパフォーマンスで全国展開を

松村

次の新商品などは考えておられますか?

豊下

新商品は今のところ考えていません。必然性が生まれた時や、なにかのきっかけで突然作りたくなることがあるかもしれませんが。

松村

最後に今後の展望をお聞かせください。

豊下

今は、どう市場に送り出すか、販売形態に注力しています。飴作りというパフォーマンスを使って、全国展開で実演販売していこうかと。他府県の方々にも食べていただいて「大阪にこんなおもしろい飴がある、本物の野菜や果物の味の飴がある」という評判がジワジワ広がっていけばよいと思っています。

松村

その販売戦略に、我々メビックのクリエーターたちがご助力できることがあるかもしれませんね。その時はどうぞお声をかけてください。今日は貴重なお話をありがとうございました。

豊下製菓(株)

住所

大阪市阿倍野区美章園2-13-3

URL

http://www.toyosita.com/

クロスポイント Vol.33

公開

2012年06月26日(火)

取材・文

片岡睦子 片岡 睦子氏

取材チーム

株式会社マチック・デザイン 松村 裕史氏

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