“人脈”こそが最大の財産!
浅野 由裕氏:(株)ファイコム

設計図を作る

浅野さん

企業の情報発信媒体として重要視されているインターネット。企業から依頼を受け、ウェブサイトの構築やメルマガの配信のほか、それに伴った印刷物の制作などを手がけるのが、ファイコムの仕事だ。JRの旅ものパンフレットやお菓子のケータイファンサイトなど、多岐にわたり手がけた作品を机に並べて説明してくれる浅野さん。ひとつひとつの仕事に自信を持っている様子が伺えた。
「ライティングやデザインなどの業務は、基本的にうちではやりません。うちでやるのは企画という設計図を立てること」と、浅野さんは言う。どうすれば、より注目を集められるのか。そのために必要な作業はなんなのか。企画立案からクライアントと相談し、ウェブサイトやパンフレットの骨組みを作り上げていく。それが出来上がったら、実際に動くのは外部のライターやデザイナー。クライアントの望みを正確に伝え、設計図通りのものができるよう、企業とクリエーターの仲介役として、ひとつの作品を作り上げるための指揮者として、双方の力を最大限に引き出し、それを具現化させるのが彼の仕事だ。

新しい世界への一歩

浅野さんが“創る”世界に興味を持ったのは、約10年前。広告代理店の営業として働いていたころのことだ。その当時、浅野さんはMAC関係や出力機器などの情報を載せた『MAC LIFE』という雑誌の広告をすべて担当していた。辞書くらいある分厚い雑誌の中には、大小さまざまな広告がびっしりと詰まっている。これを全部1人で担当していたのかと思うと、目がまわりそうな量だ。
「広告はクライアントからデータをもらうのが普通だったんですが、サイズの小さい広告になると、“代わりに作ってくれ”なんてお願いされることも。そうなると、自分もMACを持ってないと作業できないでしょ? 一式揃えて、使い方を勉強して、少し扱えるようになってくると楽しくて、楽しくて」8年間務めた広告代理店を辞めて、3Dのソフトウェア会社に転職。しばらくは新しい会社での仕事に没頭していた浅野さんだったが、転機はすぐに訪れた。

財産は人脈

b-platz weekly

働き始めたソフトウェア会社が、たったの1年で倒産してしまったのだ。「最初は“どないしょー!”って思いましたよ。まさか潰れるとは思ってませんでしたからね」だからといって、いまさら広告代理店の営業に戻るつもりはさらさらない。こうなったら、自分で会社を立ち上げるしかない。浅野さんはこうして会社を設立することに決めた。「もし、あの時、働いていた会社が潰れてなかったら、今の僕はなかったでしょうね。ずーっと、その会社で雇われの身として働いていたかも」と、当時を振り返る浅野さん。そうなっていれば、ファイコムがいままで創りあげた作品は世に出ることもなく、浅野さんと私が出会うこともなかった。そう考えると、とても不思議な気がした。
何の基盤もなかったファイコムが、少しずつ軌道に乗り始めたのは浅野さんが培ってきた「人脈」があったから。広告代理店で働いていた当時や、ソフトウェア会社に転職してから付き合いのあった人たちが手助けをしてくれ、仕事が入ってくるようになった。各主要施設、地下鉄などで無料配布されている行政情報紙『b-platz press』は、その代表的な仕事であり、浅野さんが特に誇りを持って続けている仕事だという。「当時はほんとにお金もなかったから、事務所もすっごく賃料の安いところを借りて、細々と働いてたんですよ(笑)。僕に残された財産は人脈だけだったんですよね」

オンリーワンの商品を目指して

浅野さん

会社を設立してから約10年。紆余曲折はありつつも、さまざまな仕事をこなし、成果も残してきた。しかし、クライアントに手放しで満足してもらえるような作品は数少ないという。「おもしろいもんを作りたい。でも、クライアントの意見も大事。両方をうまく両立させるのって、難しいですよ。本当に満足してもらえた仕事って、何年経っても“あの仕事はよかったよね”と思い出してもらえるんです。自分たちの作ったものが認められるってうれしいことですよね」
今後、デジタルの世界はさらに多様な広がりを見せ、それに伴って仕事の幅も広がっていくと予想する浅野さん。その波を捉え、どれだけ突っ込んでいけるかで、これからの会社の進路が決まってくる。「ここでも、大切になってくるのはやっぱり人脈。クリエーター、企業を問わず多くの人と交流を持ち、“一緒に仕事がしたい!”と思ってもらえるような会社に育てていきたい。そして、うちにしか作れない、うちだからこそできる“オンリーワン”の商品を作っていきたいですね!」

國沢氏とスライム

公開日:2007年08月14日(火)
取材・文:國澤 汐氏