何ごともやわらかな感性で楽しみ、世界を豊かに広げる。
井上 淳子氏:フロッグスプラッシュ

井上 淳子氏

美術展の図録や看板、ポスターなどのディレクション、デザインを多く手がけているフロッグスプラッシュの井上淳子さん。「こうでなければならないという考え方は好きでないんです」。やわらかな笑顔でそう語る穏やかな口調には強さが秘められていた。作家の思いを伝えるために最もふさわしい表現を見つけるには、カタにはまらず、柔軟な発想で作品に向き合う。肩の力の抜けた居ずまいに、包容力と潔さを感じながら、旺盛な好奇心のままに広がる世界の色々についてお話を伺った。

こうでなければならないことなんて、ないと思う。

何ごとによらず、こうでなければならないという枠をつくらず、柔軟な発想で楽しむのが好き。そんな井上淳子さんはオペラが好きだ。音楽があり、人を描くドラマがあり、美しい衣装と舞台美術がある。それぞれそれだけで人を魅了するものが、お互いを引きたてあいながら新たな魅力を生みだしている総合芸術の素晴らしさに惹かれるそうだ。
現在、アートディレクター、デザイナーとして活躍する井上さんだが、学生時代の専攻は音楽だった。「でも入学早々、挫折感を味わいました。真面目に音楽に打ち込む人たちの中に入ると、私はただ音楽が好きなだけの女の子でした」。違う道を行く方がいいかもしれないと思ったが、音大へ進ませてくれた親の気もちを思い、卒業するまで根を上げなかった。「実技よりも学科がよくて合格した私への教授の指導は厳しくて…」。卒業後10年間ほど、実技の試験で冷や汗をかく夢を見たほどだった。音楽一筋の人たちに囲まれ、自分にとって音楽は好きなことの一つだと見極めた。心を決めた井上さんは積極的に、音大生でなければ体験できない時間を過ごした。「ピアノの先生もしました。私自身努力が必要だったから、初心者を指導するのに向いていました」。どうすれば上手に弾けるようになるか、生徒の技量や気もちに寄り添って教えることを考えた。「上達への第一歩は好きになることだと思うんです。好きになれば少しは練習が楽しくなって、自然と上達するでしょう」。
楽しむことが何より大切。井上さん自身、その考えを実行した。音楽一筋の学生たちがクラッシックに専念するなかで、ジャンルに捉われず好きな音楽を楽しみながら、それ以外の趣味の世界を広げた。「音楽史と美術史を関連づけたオリジナルの年表を作ったこともあります。楽しかったですよ」。音楽と異なるジャンルを結びつけて新たな面白さを見つける。オペラが好きという井上さんらしい楽しみ方はまた、あるべき枠をつくらないという姿勢そのものだった。

あらゆる体験を楽しむことで開かれてきた扉。

音大を卒業した井上さんは、ピアノの先生など学生時代からのアルバイトを続けた。生家が写植業を営んでいたことから、写植文字を切り貼りしてレイアウトすることもあった。そんな中、デザイン事務所にアルバイトとして勤めないかという誘いがあった。子どもの頃からお話を作ったり、文章を書く事にも親しんでいた井上さんはコピーライターとして仕事を始めた。コピーライター以外にも撮影のコーディネーターや企画のマネージャーも務めた。事務所の仕事がたてこんでくると、コピーに合わせてデザインのカンプまで任された。当時周りから先生と呼ばれていた事務所社長のデザイナーに教えられながら、グラフィックデザインを覚えていった。「どうすればいいんだろうという課題を一つひとつクリアしていく中で、デザインの感性や技術につけて、自然な流れの中でデザイナーになっていたという感じです」。
務めていたデザイン事務所は、広告と美術館の看板や図録を手がけていた。ある日、クラッシックコンサートのポスター制作のコンペに参加することになり、音大出身の井上さんが担当するという事が、採用の決め手となった。それまで担当していた広告のグラフィックデザインとは異なるところがあったが、ジャンルや枠に捉われるのが何より嫌いな井上さんだ。
「私ね、しつこいんです。どんなことも一つひとつやっていけば、完成への道が見えてくるんです。すぐに尻尾を巻くのはイヤだから何事も粘り強くやり抜くんです」。入学して間もなく違う道を探した方がいいのだろうかと迷った音大で、どれほど厳しい指導や評価を受けても逃げることなく、音楽を好きだという気もちを守りつづけた芯の強さが、井上さんの新しい扉を開き続けた。

クラシックコンサートのプログラムミュージカルや演劇のポスター
グラフィックデザイン、コピーライティング、コンテンツの企画構成と、クライアントの思いを伝えるための仕事は多岐に渡る。
左:初めて手がけたクラシックコンサートのプログラム。オペラを知らない人に気軽に体験してもらいたかった。写植で切り貼りの時代。
右:ミュージカルや演劇のポスターも制作。パンフレットは編集からライティング、リライトも行った。

芸術をもっと広く楽しんでもらえるように。

事務所も仕事も好きだったが、息つく暇もない生活のなかで体力的にムリを感じ、自分のスタンスで仕事をしようと独立した。独立後の仕事は、WEBサイトの構成からライティング、若いお母さんや子どもたち向けのカタログギフト向け商品のパッケージデザイン、ブックデザイン、美術館の看板や図録の仕事と多岐に渡っている。その中で「展覧会の図録を作るのが好きだし、自分に向いていると感じます」と、井上さんは自分を見つめる。作品の魅力を伝えるために、けしてデザインをし過ぎることなく、作家とその作品の持つ世界観を表現する。「この間、若い学芸員さんと一緒に現代作家たちの美術展の図録をつくる仕事をしたんですけど、色々な事を話し合いながら一緒に仕上げていくことができました。また、作品や展示風景などインスタレーションの撮影をメビック扇町で知り合った写真家の後藤大次郎さんに依頼したのも大正解。さまざまなアプローチで作品を捉えていただけたので、アートを広くたくさんの人に楽しんでいただけるような一冊になったと思っています」。何につけても楽しいと思うことが一番。こうでなければならないという枠を作らず、楽しみながら本質に近づいていけばいいと思う井上さんにとって、多面的にアートの魅力を伝えていく図録作りは、総合芸術であるオペラに共通するところがあるのかもしれない。
そして井上さんには、これからぜひやりたいことがある。「母が年齢を重ねるに連れて、いろんなことを億劫がるようになってきたんです」。たとえば握力が弱ると今まで使ってきた道具が使いにくくなる。するとその道具を用いて手を動かすことが億劫になる。
「高齢者がもっと人生を楽しめるような商品を、プロダクトデザイナーと一緒に作ることができればいいなと思っています」。そう話す井上さんの声には熱がこもり、瞳が輝きを増した。

日本画や陶磁器などの図録
現代アートを中心に、日本画や陶磁器などの図録も制作。
「主張し過ぎず、古くさくならず、飽きない本」づくりがテーマ。

潔く飛び込む。

井上さんの事務所名「FROG SPLASH」は、アメリカのプロレスの技にちなんでいる。リングのコーナーポストから、蛙のように思い切り相手に向かい飛び込んでいく技だそうだ。蛙が自然に潔く飛び込み生まれる波紋のように、ご自身も、小さくてもいいから世の中に波紋を起すことができればという思いを重ねた。井上さんの、こうあるべきという枠に捉われず楽しむことの豊かさが起こす波紋の振動を、感じたいと思った。

「フロッグスプラッシュ」ロゴ
カエルが水に飛び込むと波紋が広がります。水しぶきも飛びます。葉っぱの上の水滴がまた水に落ちて、小さな波紋が生まれます。
そんなふうにたくさんのいい関係が広がりますように…と願って「フロッグスプラッシュ」という屋号をつけました。

公開日:2015年01月26日(月)
取材・文:フランセ 井上 昌子氏
取材班:株式会社PRリンク 神崎 英徳氏、株式会社グライド 小久保 あきと氏